沿道のコラム

(2)日光御成道散歩(飛鳥山公園−岩淵水門5.5Km)

 日光御成道と呼ばれた岩槻街道を辿り、岩淵の渡しで賑わった荒川へ。将軍御成の際にはここに舟橋が架けられた。

    1. 太田道灌
1.日光御成道と岩淵宿

 北区をほぼ南北に縦断している岩槻街道(現本郷通り)は、江戸時代に日光御成道とも呼ばれた。歴代の将軍が4月17日の家康の回忌に合わせて日光東照宮に参詣するための御成道で、五街道に次いで重要視されていた。将軍の一行はこの道筋を通り、岩槻城に一泊、幸手で日光道中を進む供奉の大名の行列と一緒になった。「当代の盛典」といわれたこの行列の参加人数は14、5万、費用も莫大で、一度社参すると幕府の財政が傾くほどであった。そのため参拝を見合わせた将軍も多い。第一回の社参は二代将軍秀忠の元和3年(1617)といわれるが、この時は岩槻道は通らず二回目の元和5年から通ったともいわれる。社参の回数が一番多かったのが三代将軍
家光で、いかに財力が豊かであったかがわかる。最後の社参は十二代家慶の天保14年(1843)であった。
 ところで、社参が決まると一番困惑したのが、街道筋に住む村人たちであった。道路や渡し船などの整備にこぞって駆り出される上、不備があれば命にかかわる。社参のうわさがたつと、村の三役は何とか延期になるよう神仏に祈ったという。御成当日は街道の通行は一切禁止、街道筋の家では「主人ヤ男共ハ自家ノ軒下二土下座シ、女子供ハ店先二座ツテおじぎヲシテ」いなければならなかった(「安政年代駒込富士周辺之図図説」)。それを面倒に思った村人の中には、貸家の札を貼り、家を留守にする者もいたという。
 この街道は、駒込や染井を通って王子・滝野川に遊ぶ人々や、板橋へ行く旅人にとっても重要な道であった。街道で最大の宿場町が岩淵宿。江戸四宿ほどの華やかさはないにしても、「両側食店必至と軒を並べ思ひ思ひの暖簾の風にひるがえる風情ぞ所がらとて一風あり」(遊歴雑記)という賑わいぶりであった。特に荒川岸にある岩淵の渡しは、対岸の川口ヘの舟運で賑わった。
 しかしこうした岩淵宿の発展も、明治16年(1883)、東北本線の開通によってさびれてしまった。岩淵に再び人家が増えてくるのは、関東大震災以後のことである。

2.滝野川と王子の滝

 江戸時代、王子付近を流れる石神井川が滝野川と呼ばれていたのは、ゆるやかな川の流れがここへきて急流となり、滝のようにとどろくからだった。その滝野川が、反対に音無川とも呼ばれたのは、吉宗が紀州の音無にちなんで命名したためであった。
 飛鳥山に桜を植えさせた吉宗は、享保6年(1721)、染井村の植木屋伊藤伊兵衛に滝野川沿いに百本の紅葉の植樹を命じている。こうして「春は花、秋は紅葉」の楽しみを庶民に提供しようとしたのだが、紅葉の方は桜のようにすぐに有名になったわけではなく、名所として知られるようになったのは、寛政(1789〜1800)以降のことであった。ちょうど飛鳥山の桜に遅れて王子稲荷の信仰ブームが起き、それとともに滝野川は観光コースに組み入れられていった。
 幕末江戸を訪れた欧米人にとっても、王子は代表的な江戸近郊の観光地であった。ドイツの考古学者シュリーマンは「王子は川のほとりに建つ茶屋で有名な魅力的な村で、川はここで大きな滝となって流れ落ちる」と旅行記に記している。川のほとりの茶屋とは、当時江戸市中に知られた「海老屋」と「扇屋」のことで、鶏肉入り玉子焼きを名物にしていた料理茶屋である。
 多くの滝と渓谷美に彩られた王子一帯の王子権現や滝野川、不動の滝は、夏も避暑を兼ねた行楽客で賑わった。不動の滝があったのが、現在の滝野川三丁目付近。当時はそばに正受院という寺があり、人々はそこで着物を脱ぎ、滝浴みをして、本堂で弁当や寿司を食べ、夕方には王子のお茶を土産に帰路についた。滝野川沿いの傾斜地は茶栽培に適しており王子のお茶の風味は宇治に劣らないと評判をとったという。滝のそばには浪花亭という茶屋もできていた。なお不動の滝は「王子七滝」の一つであるが、王子七滝の宣伝文句が生まれるのは、明治時代に入ってからのこと。七滝のうち現存しているのは名主の滝のみである。今でも「扇屋」は川の畔で料理屋として営業している。

3.荒川と岩淵水門

 現在の荒川は、昭和初期に人工的に造られた放水路である。それまでは隅田川が荒川の本流であった。徳川時代の寛永6年(1629)、利根川の支流であった荒川は、瀬替え工事で入間川支流の和田吉野川に合流されて新たな流路に作り替えられた。それ以後、舟運は開けたものの水害も増え、特に下流に当たる江戸の荒川流域の町は、たびたび大きな洪水に見舞われることになった。
 明治に入ってからも、北区をはじめ、下谷、浅草、本所、深川といった流域の低地が、繰り返し大洪水に襲われている。中でも明治43年(1910)8月の大洪水は明治最大といわれ、その惨状は「‥‥‥床上二及ヒタルモノ尚軽ク、遂ニハ軒ヲ浸シ棟ヲ没スルニ至り、老幼男女周章狼狽唯号泣シテ溺没卜飢渇トヲ埃ツノ外ナカリキ」(「東京市水害誌」)と記録されている。
 この大洪水がきっかけとなって、ついに荒川改修工事が立案された。台風や大雨での異常な増水時に隅田川に流れ込む水量を制限・分散できるように、大がかりな放水路と水門を設置する計画であった。大正2年(1913)、「荒川放水路」の開削工事が開始、同5年(1916)に水門の建設が開始され、同13年(1924)、5つのゲートを持つ岩淵水門が完成している。岩淵町から東京湾にいたる全長22kmの運河がようやく完成したのは昭和5年、17年間の難工事の末であった。こうして現在の荒川(放水路)が生まれたのである。この改修工事の効果は大きく、工事完了後、荒川下流部で洪水による被害は消滅した。
 現在、岩淵水門脇の国土交通省荒川下流河川事務所の近くに荒川改修工事を記念する碑が立っている。これは当時の所長で工事の主任技師であった青山士(あきら)が、工事関係者の多大な犠牲と努力に敬意を払って建てたものである。青山士は日本人でただ一人、パナマ運河建設工事に参加した人物で、荒川放水路と岩淵水門建設の最大の功労者であった。昭和57年、老朽化と計画高水位の上昇に伴い、下流に新水門が造られたが、「赤水門」と親しまれてきた旧水門の姿はそのままに残されている。

4.太田道灌

 
江戸城を「造った人」として有名な太田道灌は、扇ガ谷(おうぎがやつ)上杉家の家事太田道真の子で、永亨4年(1432)に生まれた。9歳から鎌倉五山で学んだが、父親が心配するほど才気換発の息子だったという。戒めに「騎者不久(おごるものひさしからず)」と書いて見せれば、すぐ二文字付け加えて「不騎者又不久(おごらざるものまたひさしからず)」と返し、たとえ話に「障子は真っ直ぐ立ってこそ用をなし、曲がれば倒れる」と言えば、屏風を持ってきて「これは真っ直ぐにすると倒れる」と切り返したという。
 康正元年(1455)24歳で家督を継ぐと、開東管領・上杉房頼に命じられて長禄元年(1457)に江戸城を造り、ついで岩槻城、川越城と立て続けに完成させ、20代半ばの若さですでに築城の才能を発揮している。また赤羽駅近くの静勝寺付近にあったといわれる稲付城も、江戸城と岩槻・川越城との連絡のために道灌が築いたといわれている。
 江戸城を居城とした道灌は武将としても活躍し、数々の武勲をたてた。地元の豪族、豊島氏との抗争では、石神井城(練馬区石神井)、練馬城(豊島遊園地)、平塚城(北区上中里)を次々と攻め落として豊島氏を滅ぼし、武蔵国の東半を治めるに至った。だが勢力を伸ばした道灌は主家にとっても脅威となっていた。文明18年(1486)、道灌は主君扇谷上杉定正に相模国で謀殺された。55歳だった。
 道灌は、中国の兵書『尉繚子(うつりょうし)』の中の「兵は静なるをもって勝つ」という言葉を好み、その改名も「香月院殿春苑静勝大居士」といった。稲付城跡といわれる静勝寺の名もそれにちなんで名付けられたものである。

 

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