沿道のコラム

(1)旧鎌倉街道散歩(永山駅−府中駅6.5Km)

 いざ鎌倉で知られる鎌倉街道は中世の軍路。多摩川沿岸の関戸・分倍河原は、天下分け目の合戦の舞台となった。

    1. 分倍河原の合戦

1.鎌倉街道

 源頼朝によって鎌倉幕府が開かれると、それまで諸国の国府間を結んでいた官道の多くは幕府の手により再整備され、鎌倉を中心として放射状に伸びる「鎌倉街道」が成立した。この呼称は江戸期のもので、古くは「鎌倉往還」と呼ばれたという。
 「いざ鎌倉」でお馴染みのこの街道は、緊急時には軍道となる。そのため諸国の武士が最短距離で馳せ参じられるように、街道は可能な限り一直線に設置されたという。源氏勢力の背景となった東国に向けては、鎌倉から府中、恋ヶ窪を経て上野、信濃へ抜ける「上ノ道」、二俣川を経て府中で「上ノ道」に合流する「中ノ道」、丸子、新井宿を経て常陸、下総に至る「下ノ道」と3本の主要なルートがあった。このうち、軍事戦略上最も重要視されていたのが「上ノ道」、後に新田義貞鎌倉攻めの進路となったルートである。「上ノ道」が多摩丘陵(現多摩ニュータウン付近)を下って多摩川に交わる関戸(現聖蹟桜ケ丘付近)の地には、建暦3年(1213)木柵の関所が設けられた。これは、三代将軍源実朝の死後、幕府を掌握した北条一族が、この地を対東国防衛上の要衝と認めて設置したものである。現在、その関所跡といわれる「霞ノ関南木戸柵跡」(都指定史跡)が熊野神社境内に残されている。

2.多摩ニュータウン

 経済の高度成長にともない、人口集中が激化した東京では、大規模な住宅地を供給する新たな人工都市建設計画が模索され始めていた。昭和39年、この計画は東京都の方針として正式決定。廉価な未利用地が豊富にあること、都心への通勤可能圏内に位置すること、地形・地質等が住宅地に適していること、等々の諸条件を満たした多摩丘陵は、かくしてその景観を一変させた。多摩ニュータウン建設着工は、昭和41年。この大人工都市の計画エリアは、多摩、八王子、町田、稲城の4市にまたがり、総面積はおよそ3,000ha(渋谷区と中野区に相当)、計画目標人口は当初の30万人から昭和45年にはさらに41万人に膨れ上がった。
 第一次入居地区の完成は、翌46年。昭和49年には京王線、翌50年には小田急線の多摩センター駅が開通した。だが、その後敷地買収等の問題から計画は長期化し、その間、時代のニーズは、「一戸でも多くの住宅を」から「もっと緑を」「もっと広い家を」「もっと学校を」へとめまぐるしく変わる。多摩ニュータウンは、こうした時代の流れを反映した、多彩な顔を持つ都市へと育っていくのである。計画目標人口も昭和56年には、37万人に再修正された。
 大妻学院多摩キャンパス(昭和63年開校)や多摩大学(平成元年開校)、都立大学(平成3年移転)といった学園施設の誘致や、多摩センター駅付近の商業ビル開発等が進む一方、「職住近接」をテーマに企業誘致に取り組む等の動きも活発化してきた。東大和市と多摩センター駅を結ぶ『多摩都市モノレール』も開通。多摩ニュータウンは、ベッドタウンから新たな多機能都市へと向けて、さらなる変貌を遂げつつある。

3.分倍河原の合戦

 上野国(こうづけのくに)の豪族新田義貞が、後醍醐天皇の命に応じて倒幕の兵を起こしたのは元弘3年(1333)5月のこと。場所は赤城山麓生品明神の社であった。兵力わずか150騎のこの弱小部隊は、南下につれて、東国5カ国、武蔵七党等の土豪武士の勢力を傘下に吸収。入間川を渡る頃には「兵力二十万七千余」(『太平記』)もの大軍勢に膨れ上がっていた。新田軍は小手指原、久米川合戦で鎌倉幕府勢を撃破。多摩川べりの分倍河原めざし快進撃を続ける。鎌倉街道の要衝、分倍河原は政治・文化・交通すべての面での最重要戦略拠点。かくしてこの地は新田軍挙兵後8日日にして「天下分け目の大合戦」の舞台となった。早朝、一気呵成と多摩川を渡り始めた新田軍は、向こう岸に待ち受けた弓射隊の一斉放射にいったんは敗北。その夜のうちに軍勢を立て直し、どんちやん騒ぎで浮かれる鎌倉側の虚をついて、分倍河原対岸の関戸で決定的な勝利を収めた。軍勢はそのまま一気に鎌倉を攻め落し、挙兵後わずか半月たらずにしで、幕府転覆という歴史上の大転換を達成したのである。なお、昭和10年造立の「分倍河原古戦場碑」(題字は義貞の子孫新田義美元男爵の筆)は、昭和63年、武蔵府中税務署南側から新田川緑道のほとり(分梅町二丁目)に移された。

 

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