沿道のコラム

(2)音羽の鐘散歩(護国寺−茗荷谷駅2.3Km)

 音羽の谷に鳴り響く護国寺の鐘。谷底の音羽通りは、将軍が供揃千人余を引き連れ参詣へと向かう、御成道であった。

1.護国寺と音羽通り

 東側を小日向台地、西側を関口台地に挟まれた音羽谷。その中央を走るのが、音羽通りである。通りは、江戸川橋から護国寺の山門へ向けて一直線に上りつめる。雑司ヶ谷南端の高台に建つ護国寺は、門前の音羽界隈から見上げられひときわ偉容を誇るのである。
 江戸屈指の大寺といわれた護国寺は、天和元年(1681)、5代将軍綱吉が生母桂昌院の願いにより創建(真言宗豊山派)。はじめは桂昌院の祈願寺であったが、後に将軍家の武運長久を祈る祈願寺となった。
 境内には、元禄10年(1697)建立の本堂をはじめ、月光殿、大師堂、薬師堂など貴重な建造物が残る。「護国寺の山門の丹の円柱つよきものこそ美しくあれ」(窪田空穂)。歌にも読まれた山門の仁王門は、夏目漱石の小説『夢十夜』第六話の舞台としても有名である。参道の音羽通り沿いには、故郷の京都清水寺を懐かしむ桂昌院の請願により九丁の門前町が開かれ、山門側から一丁目が始まり、江戸川橋寄りの九丁目で終わる。これは、通常とは反対の配置であった。当時、江戸城下の町並みは、御城から離れるほど丁目の数字が増えるのがならわしだったのである(現在は通常通りの配列)。
 城下の拡大に伴う付近一帯の発達は、やがて谷間側を職人・手工業地域、高台側を武家屋敷地と大きくふたつに色分けした。そうした地域の特色は今日まで受け継がれ、谷間の音羽通り界隈には、講談社、光文社など大小出版社が密集。印刷・製本業者の集中する小石川界隈と共に日本の出版流通の中枢となる一方、高台は、維新後の政府要人の邸宅地を経て、現在では閑静な住宅街となっている。

2.文教の地

 文京区の成立は昭和22年(本郷区と小石川区の合併)。佐藤春夫作詞の区歌に「ああ大江戸のむかしより ここは学びの土地にして」とあるように、「文京」の区名は、この地域が昌平坂学問所(湯島聖堂)や備後福山藩校の誠之館をはじめ、江戸時代より学問の地として栄えたことに由来する。また明治以降、区内の高台に位置した広大な武家屋敷及び寺院の敷地は、格好の学園用地として利用された。明治5年(1872)現在の東京医科歯科大学構内に開校した日本初の師範学校は、明治9年、高等師範学校となった後、同36年大塚の地に移転。明治24年、東京文理科大学と合併し東京教育大学(現筑波大学)となった明治7年開校の東京女子師範学校も、震災後、御茶の水より同じく大塚に移転し、昭和24年、お茶の水女子大学となった。他に、拓殖大学、東洋大学、日本女子大学、跡見学園等の前身も明治期に開講。本郷から目白にかけての高台は、都内有数の学園密集地域と
なった。

3.神田上水

 神田上水は江戸城下最初の上水道。竣工は天正18年(1590)とも寛永年間(1624〜44)ともいわれ、明治34年(1901)まで使用された。開発者の大久保藤五郎は完成後「主水(もんど)」の名を賜ったという。
 神田川の流れを利用した上水は、まず大洗堰(現大滝橋)で取水。川北側に平行して水道を通し、本郷、小石川方面に給水した。また大洗堰の下流には上水の余水を流し、かつてはここから船河原橋(現首都高速飯田橋ランプ下)までを江戸川と呼び、さらに下流の神田川と区別した。江戸川両岸は、維新後、花見の名所「江戸川の桜堤」として賑わったという(現在東京都東部を流れる江戸川は、江戸初期に行われた利根川の改修工事以降、別に呼ばれた名称である)。小石川の界隈を通過した神田上水は、やがて水道橋の地点で神田川と交差する。ここに懸樋となる橋を設けて川の上を横断、暗渠で神田方面に通じた。これが、水道橋の由来である。

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