沿道のコラム

(3)武蔵野おもかげ散歩(三鷹八幡前−調布駅4.5Km)

 深大寺、天文台、そして植物園と往古の緑をとどめる丘陵地。麓を走る甲州街道は調布発展の礎となった。

    1. 京王線開通
    2. 調布の花火
    3. 木綿の里、調布

1.深大寺

 「寺は古かった。山門が藁葺きで桃山時代の建築というから古いものである。入母屋造りの本堂も、その横の石段を上がったところにある小さな堂も、こけがとりついたようにくろずんでいる。が、その黒い色をいっそう沈ませているのは、その周囲に立っている樹林の蒼い色のせいかもしれなかった」(松本清張『波の塔』)。
 藁葦きの山門は寺でも最古の建物。ただし建てられたのは元禄8年(1695)とのちに判明した。約2万7000uの寺域はうっそうたる雑木林に覆われ、往時の武蔵野の面影を偲ばせる。野川沿いの崖線にあたるこの辺りには、かつては武蔵野台地の下を流れる地下水があちこちから湧き出して池を作り、周辺の田畑をも潤したというが、近年はその勢いも衰えつつある。
 深大寺の創建は天平5年(733)。武蔵国分寺より8年早いことになる。都内でも浅草寺に次ぐ古刹であるが、さて、その縁起についてはロマンチックな伝説がある。
 昔、この辺りの里長であった右近長者なる者の家に美しい娘がいた。ある時、この娘の前に福満なる童子が現れ、二人はたちまち激しい恋に落ちてしまう。右近は怒り、福満から娘を引き離して湖の小島に閉じ込めた。悲しみにくれた福満は、三蔵法師が天竺への旅の途中、水神深沙(じんじゃ)大王の助けを借りて流沙河を渡った故事を思いだし、岸辺に立ってひたすら大王の加護を祈った。「もしこの湖を渡してくれたなら、村の鎮守として祀ります」。すると水面に大亀が出現し、福満を小島まで渡してくれたのである。右近は驚いて二人の結婚を許した。やがて誕生した男子は、長じて唐土に渡って法相宗を学び、故郷に一寺を建立した。深大寺の開基満功上人である。上人は父の約束を果たすべく社を設け、深沙大王を勧請したという。
 深大寺の名もまたこの水神に由来する。湖の小島は後に地続きとなり、現在の祓園寺前の亀島がそれに当たるといわれている。なお、創建より約百年後、宗派は法相宗から天台宗に改められた。
 毎年3月の3、4日に開かれるだるま市はそばと並ぶ深大寺の名物。縁起のロマンスにちなんでか、かつては嫁さがし婿さがしの縁日でもあったという。

2.布多天神社と布田五宿

 布多天(ふたてん)神社は延長5年(927)の「延喜式神名帳」にもその名が見える古社。もとは多摩川近くにあったというが、文明9年(1477)に洪水を避けて現在地に移り、その際に菅原道真を祀ったとされる。
 慶長9年(1604)の頃、甲州街道が江戸五街道の一つとして定められると付近の5カ村(国領、下布田、上布田、下石原、上右原)は、内藤新宿、高井戸に次ぐ第3の宿となった。これが布田五宿である。もっとも当時は日本橋を出て最初の宿泊地は府中宿とされており、おまけに参勤交代で通過する藩も3つだけであったから、宿場町としての発展はあまり芳しいものではなかった。もともと甲州街道は八王子千人同心や甲府城の旗本・御家人が江戸に馳せ参じるための軍路だったのである。
 代わって栄えたのが市であった。中でも布多天神社の「天神さまの市」は毎月25日の縁日に立つ定期的なもので、古物や日用雑貨を売る店が集まった。神社境内の狛犬は寛政8年(1796)、市の繁栄と商売繁盛を祈って建立されたもので、市の起源を示すものといわれている。以来200年、今日も市は毎月開かれている。

3.京王線開通

 明治19年(1886)、布田五宿の人々は甲州街道を陸蒸気が走るという噂に仰天した。そんなことになったら、あの真っ黒な煤煙でお蚕さまの桑の葉が枯れる、茅葦き屋根には火がつく、騒音で鶏は卵を産まなくなる、街道沿いの店の売上げも減る等々と不安がつのり、反対運動が持ち上がった。鉄道側はやむなく予定地を変更し、新宿−立川間に一直線の鉄道を敷いた。時に明治22年。これが甲武鉄道、後の中央線である。
 ところが中央線沿いの発展はめざましい。人々はしまったと後悔し、今度は鉄道誘致に踏み切った。かくして大正2年(1913)、京王電気軌道が笹塚−調布間に開業した。念願の鉄道工事が開始された当時の騒然とした状況を、徳富蘆花は「村は連日戒厳令の下ででも住む様に競々(原文ママ)として居る」と『みみずのたはこと』に記している。閑静な地に隠居したつもりの蘆花にとっては迷惑な話であったが、何しろこの頃の電鉄全社は電力も自給で、沿線地域への電力供給の役割も兼ねていたから、住民の喜びようはひとしおであった。
 ところで京王電気軌道の軌道幅は新宿から市電(現在の都電)との連絡を考慮して、市電と同じサイズが採用されていた。開業の翌年開通した新宿−笹塚間にはわずか4kmの区間に10駅ほども設置され、また初台付近までは甲州街道上を走るなど、まさに路面電車そのものである。調布市内の区間についても同様で、下仙川(現仙川)、金子(現つつじヶ丘)、柴崎、国領、調布とわずか5kmの区間にこれだけ駅が並び、おまけに大正6年には布田駅までが加わった。現在の京王線でもこの区間の駅間が最も短い。郊外鉄道としては異例のパターンだが、とにかく利用する側としては有難い。調布は住宅地として急速な発展を遂げ昭和初期には京王閣遊園地や日活撮影所なども建設された。京王電気軌道は昭和23年に京王帝都電鉄、さらに平成7年京王電鉄と改称し、今に至る。

4.調布の花火

 調布の花火大会は昭和8年から多摩川べりで開催されていた。中でも昭和30年の大会は、30万人の観客が集まり花火の粋を競ったと記録されている。だが、周辺の都市化に伴い、昭和43年に中止となった。地元住民の努力によって復活されたのは昭和57年。以来、多摩川の夏の風物詩として定着し、10周年を記念した平成3年の大会では、日本初といわれる一尺玉(直径30cm)の百連発や一尺五寸玉(直径45cm)をメインに、およそ1万発の打ち上げが行われた。打ち上げ前の灯籠流しも調布の夏の名物。千基にのぼる色とりどりの灯籠が川面を静かに彩る。

5.木綿の里、調布

 調布の名の起こりは布多天神社の縁起に遡る。延歴18年(799)、木綿の実が初めて日本に渡って来たが、誰も布の製法が分からない。そこで多摩川のほとりに住んでいた広福長者なる者(菅原道真の一族ともいう)が神社にこもって祈祷を続けたところ、神のお告げで製法を授かった。出来上がった布を多摩川でさらし、朝廷に調(みつき)として献上すると天皇はひどく喜び、その布に「調布(たづくり)」の名を賜ったという。これが日本の木綿の第一号ということで、以後、「調布」はこの地の特産となったわけである。もちろん布多天神社の名もこの話に由来する。「多摩川にさらすたづくりさらさらに 何ぞこの児のここだかなしき」など、万葉集の古歌には多摩川で布をさらす庶民の生活を詠んだものが数多い。

 

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