沿道のコラム

(1)染井吉野ゆかりの地散歩(駒込駅−庚申塚駅3.0Km) 

 染井村は江戸随一の植木の里。幕末期に生まれたソメイヨシノは、たちまち日本人の心をとらえ、東京の桜の名所を一新した。

    1. 庚申信仰と巣鴨庚申塚

1.染井の植木屋

 家康が関八州の領主として江戸に入府したのは天正18年(1590)。 江戸時代、染井村(現在の駒込三・六・七丁目付近)は、市中の庭園に樹木や花を供給するための一大園芸センターだった。中山道、岩槻街道(本郷通り)が近くを走り、また水はけのよい地質に恵まれているなど、染井村には植木栽培地としての好条件が揃っていた。幕末期にこの地を訪れた英国の植物学者ロバート・フォーチュンは見聞記にこう記している。「村全体が多くの苗樹園で網羅され、それらを連絡する一直線の通が、1マイル(約1.6km)以上も続いている。私は世界のどこへ行っても、こんなに大規模に、売物の植物を栽培しているのを見たことがない」。鉢植えの棚には、サボテン、アロエなど南米産の植物まで見かけられたという。また地下には独自の温室が設けられていた。
 そもそも駒込・巣鴨の一帯は、明暦3年(1657)の大火後に移転してきた武家屋敷が多く、ことに現在の染井通り南側には、藤堂家下屋敷や柳沢家下屋敷(六義園)が広大な庭園を構えていた。こうした庭園の維持管理にあたったのが近隣の農民たち。彼らは次第に専業化し、やがて染井通り北側一帯に植木屋として軒を連ねるようになったという。
 植木屋といっても、その職域は庭師にとどまらず、花木の栽培、品種改良、展示・販売など多岐に渡っていた。そしてこうした職域のすべてをこなし、染井の地を一大園芸センターに押し立てたのが、代々伊兵衛の名を世襲した伊藤家である。中でも霧島ツツジの栽培に力を注いだ三代目伊兵衛は、元禄年間(1688〜1704)から享保年間(1716〜36)にかけて市中にツツジ・ブームをもたらし、染井のツツジは飛鳥山の桜と並ぶ江戸の名所ともてはやされた。彼はまた元禄8年に日本初の総合園芸書『花壇地錦抄』を著すなど、園芸技術の研究・普及にも努めた。
 染井村は明治に入っても園芸の中心地であり続けたが、その後の都市化の進展によって、昭和以降次第に姿を消していった。現在、駒込駅構内に咲き誇るツツジは、明治43年(1910)の駅開設を記念して地元の植木屋たちが持ち寄ったものである。

2.ソメイヨシノの謎

 東京都の花にも指定されているソメイヨシノ。今では桜の代名詞ともいわれる品種だが、その起源は意外に新しく、幕末から明治にかけて、染井の植木屋が「吉野桜」の名で売りだしたとされている。花が葉の出る前に開くため、満開時の見栄えが華麗で、しかも散りぎわの花吹雪が日本人の好みにピツタリ。おまけに繁殖が容易で、成長も早いとあって、明治時代、急速に普及した。上野、江戸川、飛鳥山といった江戸以来の桜の名所も次々と植え替えられていったという。「吉野桜」のままでは吉野産の桜と紛らわしいと、明治33年〈1900〉「ソメイヨシノ」と命名された。ところでこの大ヒット商品、実はその出自が謎につつまれでいる。アメリカのウイルソン博士が江戸彼岸桜と大島桜の雑種だと突き止めたのが大正5年(1916)。つまり吉野産の桜(山桜)とはそもそも関係なかったわけだが、一体誰の手になる人工交配種なのか、それとも自然交配による変種なのか、真相はいまだに解明されていない。

3.豊島線から山手線へ

 明治36年(1903)、民間の日本鉄道会社によって、池袋−田端間に豊島線が開通した。すでに開通していた品川−赤羽間(品川線)と高崎線・東北線などを経由する田端駅を連絡するのがその目的。これによって現在の山手線のおおよその骨格が出来上がった。巣鴨駅はこの時、池袋駅、大塚駅と共に新設された。当時の巣鴨駅の一日平均乗降客数は約200人。中山道沿いの比較的開けた土地ではあったが、本郷三丁目からは乗合馬車が通い、駅周辺の茶畑の間には農家が点在する、そんなのどかな風景が広がっていた。ちなみに池袋駅周辺はうっそうたる森林、現在の西口の方面からは狐の鳴き声が聞こえたという。
 明治39年に日本鉄道会社は国有化され、明治42年、品川線と豊島線はまとめて山手線と改称された。当時は「やまてせん」と呼ばれたそうだが、これは横浜の方の発音らしい。同じ年に電車運転が開始されたが、電車はボギー車と呼ばれる、パンタグラフの代わりにポールを二本立てて走る路面電車のようなスタイルだった。その翌年に駒込駅が開業する。
 この山手線とさらに明治44年の王子電気軌道(飛鳥山−大塚間現在の都電荒川線)の開通によって、巣鴨周辺の人口は急激に増加した。豊島区内で最も早くに繁華街が生まれたのは大塚駅周辺であったが、巣鴨駅の乗降客数もすでに大正6年(1917)には年間百万人を突破している。明治30年に明治女学校が移転してくるほか、マハヤナ学園(大正8年)、大正大学(大正15年)など学校の設立も相次いだ。貨物の取扱量を見ても、巣鴨駅は発送に対して到着の量が圧倒的に多く、消費地化への変貌がうかがえる。
参考:『豊島区史通史編』

4.幕府の御薬園

 江戸時代、巣鴨・駒込の界隈は園芸栽培とともに特産のナスで知られた近郊農村だった。文政9年(1826)の『風土記稿』には「此辺薄土なれば樹木によく穀物によからず、ただ茄子土地によろしきをもって世にも駒込茄子と称す」と記されている。
 ところで、こうした江戸近郊の農村は、薬を草木に頼るしかなかった時代、薬草の栽培地としても利用された。最も有名なのは小石川の植物園だが、現在の中央卸売市場豊島市場の辺りや近くの雑司が谷にも薬草を採取するための幕府の御薬園が設けられていた。
 豊島市場の敷地は古くは藤堂家の抱え地。ここが宝暦4年(1754)に御用地となり、寛政年間(1789〜1801)に医師渋江長伯の管理する巣鴨御薬園に改められた。水腫病の特効薬としてもてはやされたウシグサなど、様々な薬草がここで栽培されたという。また、この薬園は文化14年(1817)日本で初めて綿羊を飼育した所と知られ、綿羊屋敷とも呼ばれた。御薬園の跡地は明治以降、一時住宅地となったが、明治12年に豊島市場が開設された。

庚申信仰と巣鴨庚申塚

 よく通沿いに庚申塚とよばれる古びた石塔を見かけるが、これは主に江戸時代「庚申さま」を信仰する人々が供養のために建てたものである。土を盛り上げたものは庚申塚と呼ぶ。「庚申さま」とは通常は6本の腕を持つ青面金剛という明王のことだが、帝釈天や猿田彦大神を指す場合もある。いずれにせよ、この「庚申さま」を60日に一度の「かのえさる」の日に祀る習慣は平安時代に広まったものといわれる。
 そのルーツは中国の道教。道教では、人間の体には三尸(さんし)という虫(霊物)がいて、庚申の夜に昇天し、その人の罪科を天帝に告げ、寿命を削るとされていた。そこでこの晩を不眠で通し、三尸を退治するため祈るのが庚申信仰なのである。庚申信仰は江戸時代に庶民の間に深く浸透し、沖縄を除く全国各地に庚申塔が設けられた。
 さて、地名にも残る巣鴨の庚申塔は文亀2年(1502)の建立と古く、その高さは8尺に及んだという。中山道沿いのこの地は板橋宿の入口にあたり、立場と呼ばれる休憩所が設けられていた。当然旅人で賑わったわけだが、「折り節は盗賊この碑の後ろに忍びて、往来の人に害有りし」(『遊歴雑記』)といった物騒な話も残っている。明暦3年(1657)の大火後、この大きな塔は倒壊し、その後再建された塔が現在は祠の中に安置されている。なお、庚申信仰は現在も地元の人々に受け継がれ、庚申の日には花や線香をあげる姿が見かけられる。
参考:豊島区教育委員会「豊島の庚申塔」

6.大都映画巣鴨撮影所

 旧朝日中学校の敷地には、戦前の日本映画界で最多の製作本数を誇った大都映画の撮影所があった。この地に撮影所が築かれたのは大正8年(1919)。天然色活動写真株式会社の仮設ステージとしてスタートしたものだが、経営不振から国際活映、帝国キネマと所有者が変わり、昭和3年、創立まもない河合映画(大都の前身)の手に渡った。
 当時の日本映画界はトーキー化の波が押し寄せるなか、日活、松竹の大手2社に、帝キネ、東亜キネマ、マキノなどのマイナー各社がしのぎをけずる戦国時代。土建業界の大物であった社長河合徳三郎は、独自のワンマン経営で河合映画の配給館を着実に伸ばし、昭和8年には東亜を統合、大郡映画を設立した。
 大都映画のモットーはとにかく徹底した通俗・娯楽。チャンバラ時代劇と新派大悲劇の二大ジャンルに現代アクションとコメディを挟んだ隙のない番組構成で、週2本の封切り、年間百本という量産体制であった。しかも料金は他館の50銭に対して30銭。そのため製作費は他社の3分の1、撮影もせいぜい5日、セットが組めない分は野外ロケを多用し、NGも極端に切り詰めた。批評家からは粗製乱造のそしりも受けたが、業績は上々、撮影所内は熱気に満ちていたという。看板俳優は“鳥人スター“ハヤブサ ヒデト。ビルをよじ登り、オートバイで屋上から屋上
へと飛び移る、スタントなしのアクロバット・アクションが観客の喝采を博した。代表作は『街の爆弾児』(昭和9年 監督吉村操)。
 かくして河合映画から15年間、全国に450館を有し、一度も経営危機に陥ることのなかった大都であったが、昭和17年の戦時統合により大映に吸収され、巣鴨撮影所は閉鎖された。最後の作品は阿部九州男、近衛十四郎(松方弘樹の父)主演の「決戦般若坂」。監督佐伯幸三。「昭和17年の正月、街は“大東亜戦争”緒戦の勝利に酔っているというのに、この一角だけが異様に静かであった。あの高い塀の内側から夜間撮影のライトがギラつかなくなった。白泉寺の壁の前のロケも見られない。妙行寺の門に『南町奉行所』の札がかからなくなった」(内野二郎著「幻の巣鴨撮影所」)。
参考:池田督監修『もう一つの映画史 懐かしの大都映画』(ノーベル書房)

7.江戸の園芸

庭園都市江戸
 江戸は、面積・人口共に、当時世界最大の都市だったが、そのうち人口の半分、約50万人と言われる町人たちの住む市街地は全面積の約15%に過ぎなかった(当時の江戸市中は、おおむね現在の山手線の内側の地域に当たる)。江戸の町の大部分は広大な武家地と寺社地で占められており、その敷地内には広々とした庭や自然林が広がっていた。例えば現在の小石川後楽園は水戸徳川家の上屋敷、六義園は柳沢吉保の下屋敷だった。江戸という都市は全体が一つの巨大な庭園といった景観を呈していたのである。
 「河の向うに寺院や物見櫓や木の繁った丘の起伏など、江戸の町が眼前に広がって、ひときわ美しい絵のようであった。その場所全体がまるで一大庭園であった」「それらの谷間や樹木の茂る丘、亭亭とした木々で縁取られた静かな道や常緑樹の生垣などの美しさは、世界のどこの都市も及ばないであろう」(R・フォーチュン「江戸と北京」)。
 当然、江戸の植木の需要は膨大で、郊外では多くの植木屋により園芸植物の栽培が大規模に行われていた。特に、染井から巣鴨の辺りにかけて広がっていた広大な園芸地帯は、世界に類を見ない規模だったという。また火事が多かったことも、江戸の植木屋を繁盛させた原因のひとつであった。

江戸の園芸ブームの起源
 そもそも徳川家康が大変に花に関心が深く、二代秀忠、三代家光も非常に花を好んだところから、参勤交代で江戸に上った諸国の大名たちの間でも園芸への関心が高まった。大名たちはそれぞれ各藩独自の植物を藩邸に取り寄せては植え、さらには他藩にさきがけ珍種変種の発見、入手に狂奔するといった具合にブームはエスカレートしていったのである。
 こうして手に入れた珍しい花は、門外不出の「お留花」とされ、これを破った者は「お手打」にされたというから、殿様たちの熱狂はただごとではなかったようだ。

花の名所
 享保年間(1716〜36)、八代将軍吉宗が、王子の飛鳥山、品川の御殿山、向島の隅田川堤、小金井堤に桜を、中野桃園、本所舟堀土手には桃を植えさせ、これらは新しい花の名所として人気を集めた。一大庭園都市であった江戸は、他にも、亀戸天満宮の藤、不忍池の蓮、下谷の朝顔、尾久の原の桜草など四季折々の花の名所に事欠かなかった。
 江戸の観光案内に、これらの場所とともに花の名所として紹介されているのが郊外の植木屋であった。格別有名だったのが染井のつつじと巣鴨の菊。また幕末期には、大久保百人町の武士たちが内職として大がかりに栽培したつつじが染井以上という評判を取り、新しい名所になった。これら植木屋の庭園は江戸の人々の遊園地ともなっていたのである。

巣鴨の菊
 巣鴨の菊は、初めは鉢植えの菊を花壇に並べて展示し、客に見せていたのだが、文化年間(1804〜18)に「形造り」という新しい趣向で大評判になった。これはもともと麻布狸穴の植木屋が始めたことで、大造りの菊を鶴とか帆掛け舟の形に作ったりしたのを、巣鴨の植木屋たちも取り入れたのだった。
 最初は麻布同様、一本の菊で作っていたのが、やがて多くの黄菊で虎をこしらえたり、白菊の鉢を屋根の上まで並べて富士山を作るなど、巣鴨の「形造り」は次第に大がかりな手の込んだものとなり、作品の「番付」も出されるようになった。「形造り」を始める植木屋は、巣鴨を中心に白山、千石、染井、駒込と次第に増え、観客は関東ばかりか奥州方面からも集まり、一帯は茶店や料理屋も店を開くほどの大賑わいとなったという。しかし、趣向を凝らした「形造り」の見物料は無料で、植木屋たちの儲けはなかったから、巣鴨の菊の「形造り」も長くは続かなかった。
 こうして一時消滅した「形造り」は、幕末に復活し、「団子坂の菊人形」に受け継がれ、明治末頃まで東京名物として人気を集めた。
 

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