沿道のコラム

(1)目黒不動坂みち散歩(目黒駅−武蔵小山駅3.0Km)

 目黒の丘はかつては江戸有数の景勝地とされた美しい峡谷。丘上に鎮座する目黒不動は庶民の信仰と憩いの場所だった。

1.目黒の門前町

 高台に位置するJR目黒駅から目黒川の流れが刻んだ谷あいへと下る。行人坂(ぎょうにんざか)、権之助坂の頂上一帯は江戸時代、夕日が丘と呼ばれ、紅葉と富士の眺望で知られる名勝地だった。 行人坂が切り開かれたのは寛永年間(1624〜43)の頃。対岸の目黒不動が幕府の庇護で栄えるとともに、この坂道は参道として賑わいを見せた。『武江年表』寛永6年の項にも「六月上旬より目黒村不動尊、諸願成就するよしにて、俄に江戸中、老若男女群衆す」とある。坂沿いには茶屋が軒を連ね、「お休みなさいませ」「お茶一つ召せ」と客引きの声がかまびすしかった。江戸市中からの日帰りにもちょうどよく、茶屋でひと休みしてから、目黒不動や祐天寺、さらには碑文谷(ひもんや)の円融寺などを巡るのが、参詣がてらの行楽コースであった。
 茶屋の並びは行人坂から目黒川の太鼓橋を渡って不動尊山門まで続き、酒亭、料亭、土産物屋なども集まって細長い門前町が形成された。延享3年(1746)には、門前町は町奉行支配地として江戸の一部に組み込まれ、中目黒町、下目黒町と呼ばれる町屋となった。名物は飴、栗餅、餅花(木や竹の先にしんこ餅を花の咲いたようにつけたもの)。門前町にしては珍しく遊女屋が置かれなかったため、不動尊詣を品川での遊興のだしに使う者もいたという。「言わけの御みやをめせと桐屋云ひ」とは、これをからかった句。桐屋とは目黒随一の飴の名店だった。
 太鼓橋が架けられたのは、明和6年(1769)。当時としては珍しいアーチ形の石橋で、江戸の一奇観として広重の版画などに描かれた。現在の太鼓橋はその名のみをとどめる平橋である。なお、目黒川は古くはこりとり(垢離取り)川と呼ばれたが、これは不動尊に願かけをする際、この川でまず水垢離を取り、心身を清浄にしたのが由来という。

2.目黒不動

 正式な寺号は泰叡山滝泉寺。創建は平安初期の大同3年(808)。本尊の不動明王は開山、慈覚大師(円仁)の作と伝えられる。一切の煩悩と罪障を焼き尽くす不動信仰は平安初期の頃から庶民の間に急速に広まったといわれ、目黒不動は関東でも最古の不動霊場とされる。
 その後は一時荒廃したが、江戸時代に入り、三代将軍家光の帰依(きえ)を受けて壮麗な堂塔へと徹興を遂げた。家光が不動尊を信仰したきっかけは、寛永元年(1624)にこの地で行われた鷹狩り。行方不明になった鷹が舞い戻るよう僧侶に祈祷させたところ、たちまち鷹が姿を現わし、家光は不動明王の御利益を感じたという。寛永11年には50余棟に及ぶ伽藍(がらん)が完成し、目黒不動は江戸時代を通じて隆盛を極めた。また、文化9年(1812)からは幕府公認の富くじ興行が催され、湯島天神、谷中感応寺の興行と並んで ”江戸の三富”と称された。伽藍の大半は第二次大戦下の空襲で焼失したが、前不動堂と勢至堂は江戸時代以来の姿をとどめ、当時の仏教建築をしのぶよすがとなっている。
 境内の独鈷の滝は都心では珍しい湧き水。慈覚大師が手にした独鈷(どっこ、蓮の花を彫刻した金剛杖)を地に投げつけたところ、霊泉が湧き出したとされ、以来途絶えたことがないという。今も残る垢離場はこの湧き水で身体を浄める不動行者のためのもの。もっとも願かけばかりではなく、夏場には滝浴み(たきあみ)を楽しみに訪れる行楽客も多かった。海水浴の習慣がなかった江戸市民にとって、独鈷の滝の清冽な地下水は格好の納涼であった。

3.大円寺と行人坂の大火

 大円寺の創建は寛永年間(1624〜43)。開山は行人坂を切り開いたとされる大海法印といわれる。本尊釈迦如来像は建久4年(1193)の模刻(複製のこと)。オリジナルは10世紀に宋代中国から伝わった釈迦像で、その美しさから数多くの模刻を生み、各地の寺院に安置されたが、都内では大円寺のみである。
 ところでこの寺が一躍有名になったのは、不幸にも明和9年(1772)、行人坂の大火の火元としてであった。住職にうらみを抱いた悪憎真秀の放火という。火の手は江戸市中を北上して千住宿に及び、死者1万4千700人、行方不明者4千60余人、江戸の町並みを一変させた明暦3年(1657)の大火以来の大災害であった。真秀は盗んだ袈裟で高僧に変装し逃亡を図ったが、足袋も付けない、あかぎれむき出しの素足から正体がばれ、御用となった。明和9年はこの大火以外にも諸国に災害が多く、“メイワク”は縁起が悪いと「安永」に改元された。大円寺はその後長らく再建が許されず、やっと許可されたのは幕末の嘉永元年(1848)であった。

4.目黒のサンマ

 落語で名高い「目黒のサンマ」。鷹狩りで目黒を訪れた殿様が、とある坂上の茶屋で生まれて初めてサンマを食し、その美味に驚嘆する。さっそく屋敷に帰って竹ンマを所望するが上品に蒸されたサンマは脂が抜けてさっぱりうまくない。「このサンマはどこのものか」「日本僑でございます」「やはりサンマは目黒に限る」がオチ。世間知らず殿様のトンチンカンなB級グルメぶりを笑い飛ばす話だが、ジュージューと音をたてる焼き立てのサンマの描写はまことにうまそうで殿様の気持ちが分からないでもない。
 ところで目黒には茶屋坂なる旧道がある。坂名の由来は坂上で開業していたという爺が茶屋。この茶屋からは富士の眺めが素晴らしく、将軍家光は鷹狩りの度に立ち寄り、主人の爺に周辺の土地一町を与えるほど贔屓(ひいき)にした。さすがに将軍にサンマを献上したという記録はないが、どうやらこの茶屋が「目黒のサンマ」のモデルらしい。その後も将軍吉宗は、家光にならって爺が茶屋を愛用し、「茶屋のあるじは仕合わせものである。今後も鷹野(鷹狩り)の折は遠慮なく茶屋を開いていろ」と、ここを幕府御用達に定めた。もっとも茶屋の主人は代々農業が本業。鷹狩りの度に作物が踏み荒され、周辺の農民はうんざりしていたのだから、何とも複雑な心境であったろう。

5.甘藷先生、青木昆陽

 目黒不動裏手に甘藷(サツマイモ)栽培に冬カした青木昆陽の塞がある。昆陽はその著書『蕃藷考』(1735)で飢饉時の救荒作物として甘藷が有効であると説き、将軍吉宗の命を受けて薩摩国(鹿児島県)から取り寄せた種芋の栽培と普及に尽カした。その後、元文4年(1739)には長崎に遊学し、『和蘭文学略考』『和蘭貨幣考』などを著して蘭学の開祖ともなった。晩年は下目黒の大鳥神社裏に隠棲し、甘藷先生の名で親しまれたという。毎年10月28日の目黒不動の縁日には、10月12日の昆陽の命日を偲び、境内で甘藷祭りが催される。

6.製薬王 星一(ほしはじめ)

 「クスリはホシ」の標語を知る人も少なくなったかもしれない。
 星一は明治6年(1873)福島県の生まれ。少年時代から熱烈に憧れたという自由の国アメリカに21歳で留学し、苦学の末にコロンビア大学を卒業した。帰国後の明治37年(1904)、31歳で始めた湿布薬の製造で莫大な富を築き、明治44年(1911)星製薬を設立した。従業員3千人という巨大工場(現TOCビル)は当時の東京名物だったという。
 鎮痛・麻酔薬としての重要なモルヒネの国産化に成功する他、日本初の全国的なチェーンストア組織を作り上げ、さらには大正9年(1920)には社員や加盟店の子弟を教育する星製薬商業学校(現星薬科大学)を設立するなど、星はまさに製薬事業界のパイオニアであった。
 一方、ホシは36歳で衆議院議員に当選し、政界への進出も果たしていたが、ここに大きな落とし穴が待ち受けていた。
 政党間の争いに巻き込まれた星は、大正13年、モルヒネの原料である阿片の取り扱いをめぐって犯罪者の汚名を着せられたのである。これがいわゆる「阿片事件」。二年に及ぶ裁判の末、無罪を勝ち取ったものの、星の信用は失墜した。その後も星は実業家として奮闘したが、かつての黄金時代は二度と訪れることはなかった。昭和26年(1951)77歳で死去。ペルーでのコカイン栽培計画のために渡米中の出来事だった。 「阿片事件」については、長男である作家星新一氏の「人民は弱し、官吏は強し」に詳しい。話はそれるが星新一のSF小説に分類されるキュートなショートストリーは、真鍋博のイラストと共に、軽やかで明るい未来を感じたことを覚えている人も多いだろう。

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