沿道のコラム

(2)碑文谷そぞろ散歩(武蔵小山駅−自由が丘駅5.8Km)

 桜並木が美しい立会川緑道に沿って、碑文谷の緑深い寺社を巡る。古刹(こさつ)円融寺は江戸中期、仁王ブームの舞台となった。

1.碑文谷の由来 「碑文谷石」の謎

 この風変わりな地名はすでに室町時代の文献にも登場しているが、その由来については、天保元年(1830)の『新編武蔵風土記稿』に「村内鎌倉古街道の傍に、梵字を刻せし古碑たてりしゆへに此名起れりと云」と記されている。鎌倉街道は碑文谷八幡の西を走っていた。この碑はしばしば村に祟りをもたらしたため、村人は恐れて八幡境内の土中深くこれを埋めたと伝えられる。だからどんな梵字(ぼんじ)が刻まれていたのか、どんな碑であったのか、まったくの正体不明。現在碑文谷八幡が所蔵している「碑文谷石」こそ埋められた碑であるという説もあるが、確定は出来ない。この石は室町時代のものとされ、中央に大日如来、左右に勢至観音の梵字が刻まれている。

2.江戸の痩身黒色の仁王ブーム

 碑文谷法華寺(現在の円融寺)に伝わる仁王像は、戦国期、永禄2年(1559)の作。この仁王像が痩身、黒色と珍しい姿をしていたためか、天明年間(1781〜88)の末頃から一躍庶民の信仰を集め始め、静かな農村は時ならぬ仁王ブームに沸き返った。
 法華寺へと向かう道中で参詣客が最もよく用いたのが、品川宿から西へのびる通称「碑文谷道」。武蔵小山駅近くの交差点が、東は目黒不動尊、西は碑文谷仁王尊へと分かれる辻だった。現在もこの交差点には寛政元年(1789)、神田の即応が願主となって建てられたという石造道標が残っている。この辻からお猿橋、鬼子母神を経ると法華寺の門前。茶店、宿屋が続々と並び建ち、碑文谷の人口はにわかに膨れ上がったという。
 境内は石灯籠や草履を奉納する参詣客で賑わい、また祈願成就を求める断食が流行したため、お籠(こも)り堂が新たに設けられた。境内の井戸の水を飲めば断食しても腹がすかないなどと喧伝されるあたりにブームの熱気を感じさせる。碑文谷仁王尊は当時の大衆小説である黄表紙にもしばしば取り上げられ、人気に拍車をかけた。山東京伝の「碑文谷利生四竹節」は仁王尊の御利益で美男に変身した主人公が女性にもてまくる話。同種の黄表紙は芝全交『願解下紐哉拝寿仁王参』、石部琴好『比文谷ばなし」など、相次いで出版され、仁王ブームは寛政年間(1789〜1800)の末頃まで続いたという。

3.目黒のタケノコ

 大正の頃まで、東京に出回るタケノコといえば、日黒産が中心だった。その始まりは寛政年間(1789〜1800)。山路勝孝なる廻船問屋が三田の薩摩屋敷から孟宗筍(もうそうたけのこ)を手に入れ、戸越(日黒不動の近く)の自宅で栽培したのがきっかけ。
 勝孝は宅地一帯を竹林にしてしまうほどの熱に入れようで、自ら「筍翁」と名乗り、江戸市中への販路の開拓にも成功した。当時は江戸の消費経済が近郊農村にも浸透しつつあった時期で、農民たちは従来の自給自足経済から抜け出し、換金可能な野菜作りに取り組みつつあった。
 こうした背景から、タケノコ栽培は付近の村々に急速に広まり、中でも碑文谷は随一の生産地となったのである。目黒式と呼ばれる独自の栽培法を用いたタケノコは太く、やわらかく、美味と三拍子そろい、掘り取りの際にもへラ、ノミという独特の用具が使われた。明治期には、目黒不動門前の筍坂が春の名物としてもてはやされた。勝孝が育てた竹林跡には、孟宗筍栽培記念碑が建てられている。

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