沿道のコラム

(3)田園調布並木散歩(自由が丘駅−沼部駅3.3Km)

 多摩川を望む美しい農村を舞台に実現された田園都市の理想。モダンな街並には今も開発当初の精神が受け継がれている。

1.田園都市の開発

 田園の豊かな自然環境と快適な都市機能を結合させた理想的な町作り−これが英国の建築家ハワードが提唱した“田園都市”のコンセプトだった。大正4年(1915)財界の重鎮渋沢栄一は、荏原郡調布村の開発を求める地元有志たちとの出合いをきっかけに、この理想の実現に乗りだした。兜町ビジネス街計画や銀座煉瓦街計画など、明治期の東京改造プロジェクトに欧米の都市計画を取り入れた渋沢ならではの発想である。
 大正7年には田園都市株式会社が発足。ユニークな社名からも解るように、この開発計画は商売の常道から見れば異例ずくめの理想先行型の事業だった。後に田園調布のシンボルとなった放射状道路は、「カーブのある道は、ゆく手が見通せないから人に好奇心と夢を抱かせる」という渋沢の五男、秀雄のアイデアを実現したもの。だが、パリの凱旋門広場を思わせるその独特の町割は、宅地分譲の上からは、変形敷地が多く不経済だった。しかも道路、公園、広場などの公共用地をたっぷり取ったため、売れる敷地は少なくなる。おまけに肝心の鉄道(目蒲線)敷設の方はさっぱり進行していない。相談役に招かれた関西の鉄道王、小林一三は「あきれてものも言えなかった」という。
 その後、五島慶太の参加によって鉄道敷設もやっと軌道に乗り、分譲地は大正11年にまず洗足地区、翌12年8月には多摩川台地区(現在の円園調布)が売り出された。関東大震災が起こるのは販売開始早々の9月。「今回の激震は田園都市の安全地帯たることを証明しました。都会の中心から田園都市へ!」とは当時の宣伝文句である。
 田園都市株式会社の理想はあくまで高く、土地の譲渡にあたっても、街並の美観を維持するための一種の“紳士協定”が交わされていた。許可なく土地を分割しないこと、建物は三階以下とすること、建物敷地は宅地の5割以内とすること、住宅の工事費は坪当り120円以上とすること等々。日本の伝統的住宅では塀を巡らすのが通例だが、これも「塀は作らず低い生け垣とし、外から庭が見られるように」と、欧米風の景観が求められた。まことに商売を度外視したルールだが、こうした理想主義はかえって田園都市に対する人々の憧れをかき立てたらしい。第一次大戦後の深刻な不況下にもかかわらず、サラリーマン層の増大に伴う郊外のベッドタウン化の波に乗って、分譲地は順調な売れ行きを示した。価格は坪平均40円程度(日本橋の地価が当時坪3千円)。公務員の初任給が70円の時代だから、現在では考えられないほどの安さであった。
 この田園都市が元の地名にちなんで田園調布と名付けられたのは昭和7年のこと。渋沢たちが示した理想的な街作りの精神は、その後高級住宅地の開発手法にもみられるようになった。その元祖田園調布は、時に、話題の人が住んだりなど閑静な落ち着きも破られたりするが、静かな街並みは昔のままだ。

2.丸子(まるこ)の渡しと中原街道

 丸子の渡しは、室町時代、文明年間(1469−86)の資料にもすでにその名が記されており、かなり古くから交通上重要な渡し場であったらしい。ここを経由する中原街道は鎌倉時代の古東海道とも推定される古道で、相模国(神奈川県)の平塚中原から江戸へと通じ、相州街道、中原往還、江戸街道とも呼ばれた。江戸時代初期には参勤交代の要路となり、その後も秦野の煙草、大山の薪炭など江戸市中の需要をまかなう物資の搬入路として頻繁に利用された。また、徳川家康は駿府(静岡市)と江戸を往復する際、近道であるこの街道を好んで利用したという。
 多摩川には江戸時代を通じて軍事上の理由から架橋が許されず、川沿いの村々が幕府から渡し場の経営を請け負っていた。こうした渡船経営がかえって村民の負担となる場合も少なくなかったというが、中原街道の要衝であった丸子の渡しは渡船賃収入も多く、渡船権をめぐって訴訟騒ぎまで起きている。いったんは地元の上丸子村と近隣の二子村の村民、市郎兵衛の二者が代々請け負うことで決着したが、明和2年(1765)にはさらに対岸の下沼部村が渡船権を主張し、結局三者の共同経営がその後幕末まで受け継がれた。 安政6年(1859)に神奈川港が開港されると、尊皇派の志士たちによる外国人襲撃事件が相次ぎ、国境の丸子は一挙に緊迫した雰囲気に包まれた。渡し場には見張り番屋が設けられ、不審な浪人を日夜監視したという。
 昭和9年、渡し場から300m上流に丸子橋が架橋され、丸子の渡しはその長い勤めを終えた。この時、中原街道も改修され、従来の道は旧道となった。往事の街道の姿は現在の桜坂付近にわずかに面影をとどめているという。

3.鷺草の伝説

 かつて浄真寺の北側、奥沢村(世田谷区)から衾(ふすま)村(目黒区)にかけての一円には、湿地帯が広がり、鷺(さぎ)草という蘭科の多年草が自生していた。その名の由来は、花の形が驚の飛ぶ可憐な姿に似ていたためというが、地元には次のような伝説もある。衾村に伝わるのは、その昔、世田谷城主吉良氏が敵軍に城を包囲された時の話。吉良氏は奥沢城主大平出羽守に援軍を求めるため、日頃飼い慣らした鷺に書状をつけて放した。しかし鷺は城に行き着けぬまま息絶え、その遺恨が残って草と化したという。
 一方、奥沢村に伝わるのは、大平出羽守の娘、常盤の悲劇。主君吉良頼康に嫁いだ常盤は不義を疑われ、死を覚悟して父への書状を鷺に託した。狩りに出ていた頼康がこの鷺を射落とすと、書状は常盤の遺書。頼康は慌てて城に戻ったが、すでに常盤は自害していた。やがて鷺の落ちた地に芽生えたのが鷺草という話である。以前は鷺ノ宮(奥沢あたり)、鷺草谷(衾村あたり)と、この草にちなんだ地名も残っていた。現在、鷺草は世田谷区の区花。奥沢城跡に当たる浄真寺境内には、鷺草園があり、8月上旬には一面、鷺が飛び立つかのように白い花をつける。

4.田園調布イチョウ並木

 田園調布駅前の西口広場から住宅街へと3本の街路が放射状に伸びている。その両側に連なるイチョウ並木は、田園都市の造成当時に植樹されたもの。3本の街路はいずれもゆるやかな上り坂になっているため、遠くまで続く並木の姿を広場から見通すことが出来る。その数はおよそ160本。11月中旬には葉が色づき、見事な黄色のトンネルを作り上げる。新東京百景。なお、大正12年(1923)の竣工以来田園調布のもう一つのシンボルであった赤い屋根の駅舎は、東横線の複々線化にともにない解体され、駅は地下になったが駅舎の形のみが復元され、かつての面影を残している。

5.おしゃれな街並み自由が丘

 元の地名は衾村大字矢畑。戸数わずか60戸というのどかな農村であった。宅地化が進むのは昭和2年の東横線開通以降のことである。当初の駅名は九品仏。ところが同じ年、自由教育を信条とする教育者、手塚岸衛によって目黒通りの近くに自由が丘学園が創設されると、この斬新なネーミングはたちまち地元の人々の間に浸透し、地名としても用いられるようになった。昭和4年、大井町線の大岡山〜二子玉川間の開通で、浄真寺に近い駅が九品仏とされたため、住民の要望を受けて自由が丘駅と改称された。東横線と大井町線が交差するという好立地もあって、駅周辺は急速に商業地として発展し、昭和7、8年には城南有数の繁華街となった。近隣の田園調布と同様、地元の人々の町に対する愛着と団結は強く、戦争中、憲兵隊から「自由」という地名は時局にふさわしくないと変更を命ぜられた際にもこれを拒絶したというほど。昭和20年の空襲で町はいったん廃墟と化したが、住民の気風は駅前広場の建設など、戦後の街作りに生かされ、現在もとってつけた街並みでない独特のおしゃれな街としてますます魅力を増している。

6.六郷用水

 徳川家康が江戸入りしてまだ間もない頃。稲毛・川崎領の代官を拝命した小泉次太夫(じだゆう)は、領地の水利がひどく悪いことを憂い、用水の開削と新田開発を家康に進言した。これが六郷用水の起こりである。測量開始は慶長2年(1597)。夜間に提灯を携えて木に登り、その明りの位置で高低差を測ったという。多摩川沿岸地域とはいえ、直接低地の多摩川から取水することは出来ない。取水口は上流の北多摩郡和泉村(狛江市和泉)に求められた。ここから世田谷領を経て、沼部、嶺を通り、矢口で北堀(池上、新井宿、大森方面)と南堀(蒲田、六郷方面)に二分される。その全長は約30km。完成には14年の歳月を要した。中でも最大の難所は現在の沼部駅付近。その土地は高く、堅く、どうにも手に負えず、工事に駆り出された農民たちの間には不穏な空気も漂った。そこで次太夫が一計を案じ、女性を作業に参加させたところ、これが潤滑油の妙を発揮し、みるみる工事ははかどった。そこでこの付近の用水は女堀とも呼ばれるという。流域の村々を潤した六号用水は次太夫の功績を讃え、次太夫堀とも愛称された。用水は昭和初期まで生活用水としても重要な役割を果たしてきたが、その後の宅地化に伴い、排水路へと転換された。大田区ではかつての水辺を見直そうと「旧六郷用水散策路」などを整備し、今でも湧水のある場所などを訪れることができる。

7.江戸の地政学

徳川幕府の呪術的都市計画
 現在でも家を建てる時、地相や家相によって土地を選び設計する場合がある。かつては都市計画にもこうした呪術的な守護策がとられた。江戸においても同様で、地形の活かし方や社寺の配置等に、現在の地相・家相等のルーツである陰陽学(おんようがく)の占術が取り入れられていた。その際に指導的な役割を担ったのが、家康・秀忠・家光の三代の宗教顧問であった天海僧正。天海は天台宗の僧でありながら、陰陽学にも通じていた。

「四神相応」に基づく理想の都市づくり
 天正18年(1590)、江戸に入った家康は、天海と共に中核となる江戸城の位置を選定したという。
 当時は東に川、南に池または海、西に大道、北に山をもつ北高南低の地形が理想的な生活環境と考えられていた。これを陰陽学ではそれぞれ青龍、朱雀(すざく)、白虎、玄武の四神に叶うものとして「四神相応」という。古くは平安京において、東に鴨川、南に巨椋池(おぐらいけ)、西に山陰・山陽及び大和に通じる道、北に船岡山と、この原理に基づいた都市づくりがなされている。江戸も平川(今の外堀)、江戸湾、東海道、麹町台地が江戸城の四方に位置しており、京都にならった四神相応に基づく理想の都市づくりがなされた。

江戸を守護する社寺と五色不動
 現代の家相学でも艮(うしとら=北東)の方角は鬼が出入りする「鬼門」とされ、新築の際に玄関を避ける等の注意が払われる。主要な社寺を江戸城から見てどの方角に配置するかは、江戸鎮護策の重要なポイントであった。
 天海は寛永2年(1625)、江戸城の鬼門の方角に、徳川家の祈願寺として、上野の寛永寺を開いた。御所の鬼門に位置する比叡山の延暦寺を模したもので、山号の東叡山とは“東の比叡山”を意味する。ここにも四神相応と同様京都にならう考え方が見られる。
 また城の南方には徳川家の菩提寺増上寺が配され、この二寺は江戸城を鎮護するものとして寺院の中でも別格の存在であった。江戸時代の史料には「両山」「二大寺」等と書かれるなど、名を記さないものもある。
 神社では関東の強力な地霊である平将門を祀る神田明神が鬼門に、日吉山王社(現在の赤坂の日枝神社)が坤(ひつじさる=南西)の「裏鬼門」に置かれた。いずれも幕府に特別に庇護され、祭りの山車が城内に入ることが許された。
 さらに天海は家光に意見して、江戸の有名な5つの不動を都市鎮護のための「江戸五色不動として選ばせたという。目黄以外の白・目黒・日赤・目青の四ついては、それぞれ白虎・朱雀・青龍の四神にならっが造立したという説もある。五色の由来については、東西南北中央の位置、不動尊の目や体の色、密教の教義による等、諸説ある。
参考=内藤昌著「江戸と江戸械」、鈴木博之著「東京の[地霊]」他

黒衣の宰相、僧正天海
 日光山輪王寺と寛永寺の貫首を兼ねた天海は、幕府の宗教政策の実質的な中心人物であり、「黒衣の宰相」と呼ばれた。家康は天海に深い信頼を寄せ、宗教論議を好み、晩年には人事から戦いの日取りまで天海の占術によったという。
 元和2年(1616)に没した家康の葬儀は駿河の久能山で行われ、翌年遺骸は北関東の日光に移され、東照大権現として祀られた。こうした大がかりな手続きによる神格化は、江戸を中心に関東全域を宗教的に支配しようという家康と天海の意図に基づくものである。山岡荘八の小説「徳川家康」には僧侶である天海に「神になる」ことを勧められて驚く下りがある。
 寛永寺を開かせた家光は天海に尊敬する祖父家康の影を求め、非常に重んじた。寛永20年(1643)、天海が病床に伏した時には、一月余りの間に四回も見舞い、自ら薬湯をとって飲ませたりしている。同年天海は百八歳で没する。上野から日光に至る葬列は一千人余りが加わる大がかりなものであった。

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