沿道のコラム

(3)深川芭蕉庵散歩(新大橋−清澄庭園1.1Km)

 小名木川の万年橋、隅田川の新大橋が美観を誇った松尾芭蕉ゆかりの地。俳聖は37歳で隠棲しここに庵をむすんだ。

1.芭蕉庵周辺地図

 小名木川が隅田川に流れ込む手前に万年橋がある。北斎の「富嶽三十六景・深川万年橋下」、広重の「名所江戸百景・深川万年橋」などに描かれた江戸時代からの名所である。その万年橋の北には幕府の船番所跡、さらに広重の「絵本江戸土産」に描かれた正木稲荷がある。この付近がかつての芭蕉庵跡で、近くに芭蕉にまつわる資料を展示した芭蕉記念館が設立されている。

2.俳聖伝説

 延宝8年(1680)、芭蕉は賑やかな江戸市中を離れ隅田川を越えた辺鄙の地に移り住んだ。この隠棲は、新境地を開こうとする厳しい覚悟の上だった。一時は俳壇を席巻した談林派の宗匠だった芭蕉は、人間性の純粋に従った奥深い芸術としての俳諧を目指して、華やかな宗匠生活にあえて終止符を打ったのだといわれる。数多い弟子の中の1人鯉屋杉風は、深川六間掘に別荘を構えていた。「続深川集」に「九年の春秋市中に住侘びて居を深川に移す…」とある。芭蕉は杉風の屋敷のいけす番小屋を改造して住むことにしたのである。当時深川は埋立てなどの開発が行われて間もない頃で、隅田川沿いの屋敷から一歩出れば一面に野原が広がっていた。「芭蕉」という号は、新しい住居の庭に植わっていた芭蕉の木にちなんでつけたもの。松尾宗房(号桃青)に代わり、この地に来て初めて「松尾芭焦」という名の俳人が誕生したことになる。
 「古池やかわずとびこむ水の音」の句もここで生まれた。元禄7年(1694)、51歳で亡くなるまでの14年間に、幾多の長旅に出てついに病に倒れる。「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」俳聖は大阪で息を引取った。「奥の細道」をはじめ名高い紀行文をものした芭蕉にとっては、この芭蕉庵も「漂泊の人生」の中の仮の宿だったのだろうか。

3.新大橋

 元禄6年(1693)、江戸下町と本所、深川を結ぶ橋がわたされ、両岸の往来が格段に便利になった。隅田川で3番目のこの橋は、当時両国橋が大橋と呼ばれていたことから、それに対する意味で新大橋と名づけられたともいわれる。広重が名所江戸百景に描いた当時の橋は、現在より200メートル下流、浜町河岸から深川六間堀に架かっていた。近くに住んだ芭蕉の詩に「元禄五年深川新大橋なかばかか りけるとき 初雪やかけかかりたる橋の上」「同じく橋成就せしとき ありがたやいただいて踏む橋の霜」翌年芭蕉は再び旅に出て病に倒れる。「旅に病んで夢は枯れ野ををかけ廻る」俳聖は大阪で息を引き取った。
 新大橋はその後火災や洪水にあって何度か架けかえられ、明治45年(1912)に鉄橋になった。大震災の時五大橋中この橋だけが無事に残り、橋の上に逃れてきた大勢の人の命を救ったことから、「人助けの橋」と呼ばれた。現在の橋は昭和52年に架けかえられたもので古い橋梁は愛知県犬山市の明治村に保存されている。

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