沿道のコラム

(4)下町深川散歩(清澄庭園−門前仲町駅2.4Km)

 深川富岡八幡宮の夏祭りでは、木場の職人たちの豪気な神輿かつぎに「いき」な辰巳芸者が花をそえた。

    1. 都市としての江戸
    2. 水の都と慶長の都市計画
    3. 明暦の大火
    4. 江戸の人口

1.富岡八幡宮と深川祭

 富岡八幡宮は深川不動隣りに位置する木立に囲まれた静かな社で、深川八幡とも呼ばれる。宮の創設が寛永元年(1624)というから、深川の埋め立てがまだ完成しない頃、木場が設立される以前からこの地に鎮座していることになる。
 深川祭、八幡祭とも呼ばれる宮の本祭りは、水をかけ合う豪快な神輿かつぎと芸者衆の手古舞(男装して片肌脱いだ女たちが、神輿の前をねり歩く余興)で名をはせている。場所がら、木場もあり倉庫業もさかんなことから神輿のかつぎ手も多い。寺社門前町の繁栄のほかに、水辺の風光と娯楽が人気を集め、8月15日の祭礼には江戸時代から多くの人を集めてきた。
 文化4年(1807)には、喧嘩のため休止処分を受けていた祭りが12年ぶりに許可され復活。祭りは異常なほどに人気を呼び、つめかけた群衆のために永代橋の中央三間ほどが落下、1500人の死者が出る事故が起きたと記録されている。

2.伝えられる技

 「深川の力持ち」といえば、「木場の角乗り」と並んで有名な江東区の伝統芸能(いずれも都指定無形民俗文化財)。これは江戸時代、深川の倉庫街で働く人々の力自慢から始まった競技とされ、力量の競争や曲技の芸が、文化年間(1804〜17)の頃から興行化するようになったといわれる。一俵60キロの米俵を片手で持ちあげたり、腹の上に米俵を積み上げ、さらにその上に小舟を乗せて餅つきをするなど、息をのむ荒技の数々が、今日も受け継がれている。「角乗り」と「力持ち」は毎年十月上旬、大東京祭の協賛行事として、門前仲町の黒船橋付近と臨海公園でそれぞれ一般公開される。
 ところで江東区にはまた、江戸以来の伝統的な技を受け継ぐ職人さんたちが数多い。現在区に登録されている無形文化財は43。工芸の分野も多岐にわたり、足袋製作から金工(鍛金)、あめ細工、木工(桐箪笥)、ガラス工(江戸切子)、提燈、染織(緞帳・引幕)、象牙細工(三味線駒)、指物、軍配、舟大工などと、30種類以上に及ぶ。毎年11月には江東区伝統工芸展が開かれ、これらの名品が一堂に会するのである。

3.木場の創設

 江戸の木場(材木置場)は東へ東へと移転している。江戸時代初め木場は、都心に散在していた。寛永年間に幕府が一括し、東方の深川永代島(現佐賀町・永代辺)に元木場を創設。それが元禄年間にはさらに東方、現在の町名にもなっている木場へと移転した。実はこれは「江戸の華」とまでいわれた大火に関係がある。被災後の復興に欠かせない木材だが、火事そのものには弱い。幕府が深川元木場を選んだのも、汀戸市中に近く水運の便が良いわりには民家が少
なく大火の心配がなかったからで、火災から木材を保護するのがねらいだった。そのため、拡張してくる江戸の市街から逃れるように、木場も東へ東へと移転してきたことになる。300年近く続いてきた深川の木場も決して安住の地ではなかった。昭和50年代には地盤沈下、水質汚濁、筏による護岸破壊のおそれなどの理由から、さらに東方の新木場への移転が図られた。深川の歴史は江戸のゴミ処理問題にはじまる。明暦元年(1655)、日本橋周辺の水路は、塵芥(ゴミ)で埋まりつつあった。幕府は、一石二鳥の策としてこれを深川地区に運ばせ干拓による深川開発をはじめる。隅田河口に位置し、大船の出入りが便利だったこの地に、縦横六筋の水路と十カ所の棲がつくられていく。これらの水路には満潮時に海水が入り込むため材木に虫がつかず、貯木場としても不可欠のものになっていった。現在、深川には小名木川や仙台堀などの水路が残っている。

4.都市としての江戸

 スイス連邦政府の外交使節団長エーメ・アンベールは、幕末の江戸をこう記した。「−いたって反りの強い日本橋の一番高い所から見ると、江戸の町はもっとも美しい姿で望まれる。南に向って歩いて行くと、目の前の地平線上に白いピラミッド型の富士山が現われる。右手には大君の居城の四角い塔や、庭園や、築山が町を見下ろしている。日本橋運河(日本橋川)はこれと同じ方角に向かって、江戸城の堀と合流する所まで、両岸には綿、米、酒の倉庫がびっしりと立ち並んでいる。左手の魚市場の向う側では、通りや大川(隅田川)に達する運河の上に視線が止まる…。」(アンベール『幕末日本図絵』)
 アンベールは江戸の水景を、これに比肩するものはアドリア海の女王(ヴェニス)のみと評し、ヴェニスよりも大川の方に美人が多いとまで断言している。

5.水の都と慶長の都市計画

 アンベールの感嘆から200年以上も昔、江戸の水景は壮大な都市計画によって生みだされた。慶長8年(1603)、征夷大将軍に任ぜられた家康は全国の大名に領民の動員を指令。神田山(駿河台)の台地を引きくずし、江戸城前面の日比谷入江を埋め立てた。伊勢町(本町1丁目)、駿河町(室町1丁目)、尾張町(銀座5・6丁目)などの国名を冠した町名は、御手伝い普請に馳せ参じた大名たちの受領名である。家康はさらに埋め立て地を水害から保護するため、神田川を開削、また平川や小石川など南北方向の流路はすべて隅田川へそそぐよう東へねじ曲げられた。計画的に埋め残された掘割は、縦横の水路網をはりめぐらし、大量消費都市江戸の大動脈となるのである。

6.明暦の大火

 明暦3年(1657)1月18日、本郷丸山町の本妙寺からあがった火の手は死者10余万人を出す江戸史上最大の火災となった。江戸城をはじめとする八百町あまりの武家屋敷、町屋が焼かれ、家康以来の初期江戸は壊滅状態に陥った。俗に振袖火事とも呼ばれるこの大火は、江戸の人々に多くの教訓をもたらす。幕府は災害後の新たな対策とし、火除地の増設、大名屋敷の増加、寺社の郊外への移転など多様な都市改造を実施。
 町人達の間でも災害対策の意識は浸透した。明暦の大火のありさまを記した浅井了意の「むさしあぶみ」には荷物に移った火が更に被害を広げる様子が描かれているが、以後は火事の際に荷物を持って逃げる者は少なくなった。しかし江戸はこの後もたびたび大きな火事にみまわれた。
 そして皮肉なことに江戸という都市に最大級の内需拡大をもたらしたのもまた、火事だったのである。大火による消費は木材など大量の物資や労働力の需要を喚起する。江戸は火災都市という宿命によって、自らの経済成長を支えていたのであった。網をはりめぐらし、大量消費都市江戸の大動脈となるのである。

7.江戸の人口

 元禄頃の江戸の人口は、町人35万、武家40万、寺社5万でおよそ80万人。ヨーロッパ第一の都市ロンドンが当時50万というから、いかに江戸が世界屈指の大都市であったかがわかる。これが寛保3年(1743)の調査によると、町人だけで約50万。武家の40〜50万を加えれば、優に100万は超えていたことになる。
 ところで江戸に住む人々は、江戸生まれの者だけでなく、かなりの人数が地方出身者だった。天保14年(1843)の記録では、江戸生まれの比率はおよそ7割。このほかに出稼人などによる人口流入もあり、天保期の江戸住民3人のうち、少なくとも1人は地方出身者であったといわれている。その多くは土地を捨てた貧しい農民であった。
 宝暦以降顕著となった流入者の増大は、大量消費都市である江戸を活気づけたが、一方需要の拡大は物価の上昇にはねかえり、幕府は深刻な問題を抱えこむことになる。旧里帰農令、人返し令などの人口抑制策がとられたのもそのためだが、帰農を願い出る者はほとんどいなかった。江戸は暮らしやすかったのか。
 もう1つ。江戸は男性の多い都市であった。延享4年(1747)の記録によると、町方人口51余万のうち男32万、女は19万。このほかに多数の武士がいたのだから、その殺ばつたる様がしのばれる。男性はなかなか結婚できなかった。もっとも天保期にはいるとこの差はかなり縮まり、幕末にほぼ同数近くになる。女性の人口が増加したのは、おそらく文化・文政期(1804〜1830)であるらしい。

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