沿道のコラム

(1)丸の内今昔散歩(大手町−桜田門2.4Km)

 日本最大のターミナル東京駅を玄関口にする丸の内。かつて、大名屋敷が立ち並んだ地は、ビジネス街に変貌している。

    1. 内堀の門

1.丸の内の変遷

 現在の丸の内はかつての日比谷入江の東側にあたり、江戸時代に埋め立てられたところ。当時は松平家などの大名屋敷が立ち並び、大名小路と呼ばれていた。維新後、屋敷地は官庁街、陸軍用地に変貌。さらに明治23年(1890)、陸軍用地は兵営移転に伴い民間へと払い下げられた。これが丸の内ビジネス街の起こりであるが、新政府は新しい経済の中心地を築くべく一括払い下げを譲らなかったため、買手は当初なかなか決まらなかった。広大な敷地の地価、およそ150万円。渋沢栄一ら新興実業家たちは連名による共同購入を策していたが、これをおさえて全地買占めを断行したのが三菱財閥の総帥岩崎弥之助である。世間はあっと驚き、荒れるにまかせた野原を何故買うかと非難した。弥之助は平然として「竹でも植えて虎でも飼うか」とうそぶいたという。
 弥之助に全地買占めの決断を促したのは、イギリスより届いた腹心からの進言であった。ヨーロッパ巡遊の途上にあった三菱の大番頭荘田平五郎と末延道成は、丸の内が売りに出た一件を新聞で知るなり“三菱の手で一括引き取るべし”との電文を送ったのである。二人は、ロンドンオフィス街の隆盛に目を奪われてきたばかりであった。洞察に満ちた彼らの進言により、弥之助は、丸の内単独買占めを決断することとなった。広大な荒れ地を現在の丸の内へと変えたのは、イギリスより舞い込んだ一通の電報であったともいえるだろう。

2.東京駅は大正生まれ

 新橋・横浜間にはじめて鉄道が通ったのは明治5年(1872)のことである。その後、明治22年には新橋・神戸間が開通、翌23年上野・青森間の開通を間近に控えた頃、東京市のしかるべき場所に東海道、東北、中央の各幹線の中核となる大型駅を建設するという方針が具体化した。それまでの東京の表玄関である汐留駅(新橋)と上野駅に代わる、新たなる中央ステーション 東京駅は、こうした意図のもとに6年半の歳月と延ベ73万人の労働力を動員し、大正3年(1914)12月18日に開業式を迎えた。設計は辰野金吾。初代国技館や日本銀行の設計者でもある。当時の鉄道院総裁後藤新平は“世界があっと驚くような駅をつくりたい”と願ったというが、東京駅には日露戦争戦勝記念の意も込められ当初の計画の2倍の大きさを持つ建築物として完成した。全長335m、赤煉瓦造りの3階建。左右には銅板ぶき鉄骨屋根の八角大ドームが配され、その姿はまさに“威風堂々”たるものだったという。造りは堅牢そのもので関東大震災にはびくともしなかったが、第二次大戦時米軍爆撃機B29の的となり鉄骨屋根と室内を焼失した。この時、ステーションホテルのアールヌーボー風ロビーも焼けてしまった。現在の東京駅は戦後2階建てとして修復されたものであるが、構内の各所に歴史の激動を伝える跡を残している。

3.道灌から家康へ

 都鳥が飛び交う淋しい入江の江戸へ家康が入ったのは天正18年(1590)。駿河など家康の旧領5国をとりあげた秀吉が、この地を家康に与えたのだ。「我たとい旧領をはなれ、奥の囲にもせよ百万石の領地さえあれば、上方に切てのぼらん事容易なり」(『東照宮御実紀』)と家康は言ったという。
 当時、江戸城は石垣もなく、侍屋敷は雨もりがし、現在の皇居前付近には漁村が散在していたにすぎなかった。かつて築城の名手、太田道濯が「道濯がかり」と呼ぶ三重の堀を造ったのは家康入府に先がけること134年前のことだ。
 家康は海に臨む港町を物資の海上輸送の拠点とし、川を水路として周辺の農村から作物を河岸に集め経済の基盤を築いた。慶長8年(1603)には城の工事にかかり、外様大名を中心とした諸大名に工事を割りあてた。現在の規模に完成させたのは三代家光のときで、五層の天守閣がそびえていたという。規模を大阪城とくらべると大阪城の外郭全部がスッポリ江戸二城の内郭に収まってしまうという広大にして豪華な城郭であった。

4.内堀の門

 江戸城の城門の数は、60とも92とも言われ諸説ある。うち36見附といわれた要所の城門はみな桝形門という形式を用いていた。堀外から橋を渡るとまず第1の門(高麗門)があり、入口はきわめて狭い。内側は方形の広場で、石垣と銃眼のある土塀が三方を固めている。
 さらに一方の石塁のうえには、渡櫓をわたした第2の門(渡櫓門)がある。敵軍を小人数ずつ逃げ場のない空き地へ誘い込み、三方から弓矢や鉄砲で撃ち殺すという仕組みである。桜田門(外桜田門)、内桜田門、平川門の三門にこの枡形門の形式が残されている。

5.桜田門外の変

  「登城先打出て見れば狼狽の、武士の屍に雪は降りつつ」(山部赤人)。あるいは、「諸共に哀れと思え外桜、みとよりほかに切る人もなし」(前大増正行尊)。万延元年(1860)三月三日辰の刻(午前9時頃)、安政の大獄で知られる幕府の大老井伊直弼が暗殺された。襲撃者は、水戸浪士を中心とする18名の勤王派志士。いわゆる、桜田門外の変である。
 弥生雛の節句にあたるこの日、江戸は折りからの大雪に見舞われていた。 雲は低く垂れこめて、礫のような雪がとっとと降ったという。三宅坂の彦根藩邸を出て江戸城桜田門へと至る途上、大老の行列に加わった供侍たちは、みな腰の刀に柄袋をかけていた。この柄袋のため、彼らは防戦に遅れをとり、大老の首をむざむざ敵手に渡したのである。先の歌にも見られるごとく、白昼堂々、江戸城前での大老暗殺は、幕府の権威の失墜を世人に強く印象づけたとされている。

6.赤穂事件、確執の真相

  『仮名手本忠臣蔵』など、世にいう“忠臣蔵”の題材となった赤穂事件。この事件が、江戸城内、松の廊下における刃傷事件に瑞を発することはあまりに有名である。
 元禄14年(1701)3月14日、勅使御馳走役浅野内匠頭は、抜刀禁止の城内、松の廊下にて吉良上野介を斬りつけた。内匠頭の用いたのは小刀、上野介の切り傷は背中と額のわずか二カ所、それもごく浅いものであったという。後年、乃木大将が「武人ノ志シナシ、ナゼツカヌカ、斬ルトハグレツ」と言明しているが、小刀を用いた内匠頭が、なぜ突かずに斬りつけたかは今でも議論の的である。小刀で人を殺そうと思うなら、刀を敵に突き刺さねば効果がないということは、武士として当然の心得だったからである。
また、両者の確執の原因についても諸説入り乱れているが、最近では赤穂の製塩技術に関する抗争とする見方が有力である。質・量ともに赤穂の塩に劣る吉良側が浅野内匠頭に秘伝の公開を迫り、浅野側がこれを拒否したため両者に亀裂が生じたとする説である。
 刃傷事件の後、浅野内匠頭は即刻切腹を申し渡され、浅野家も断絶したが、殿中をひたすら逃げた吉良上野介は、場所柄をわきまえあえて抵抗しなかったとして咎めを免れた。

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