沿道のコラム

(3)神田古本屋街散歩(靖国神社−神田小川町1.7Km)多く住んだ街ー神田。明治以降も学生街、本屋街として発展。その歴史は文化の歩でもある

    1. 神田繁華街
    2. 江戸下町の暮らし
    3. 江戸弁と共通語
1.旧飯田町と神田神保町周辺
 
 このあたり一帯は、江戸時代の武家地であり、町屋は九段坂北側(旧飯田町)に限られていた。旧飯田町には、かつて文学趣味の人が多く住み、滝沢馬琴ゆかりの地でもある。また、明治時代には尾崎紅葉を主宰者とする硯友社があった。神田神保町周辺には、明治の初めから明治大学(明治法律学校、明治14年)、中央大学(英吉利法律学校、明治20年)、日本大学(日本法律学院、明治22年)などの私立大学が建てられた。そして第一次大戦後、高等専門教育の拡充・発達とともに、この界隈は学生中心の街として大きく発展をとげる。
 パリ・セーヌ左岸の古本街とよく対比される神田の大書店街も、こうした学生街の形成と歩調を合わせるようにして成立した。駿河台下から専修大前にかけての南側、そして神保町交差点から水道橋にかけての西側に集中している配置は、書物が西日などの強い光を嫌うため。震災や戦災を経るたびに、次第に現在の形となってきたという。現在、書店数は約100軒。一時は300軒を数えたこともあった。この街には全国の3分の2の古書が集まっているといわれ、毎年開かれる「古本まつり」は有名である。

2.九段坂
 
 「坂の多い東京の中でも九段の坂は霞んで見える程長かった」(『明治東京名所図会』)というかつての九段坂は、また現在とは比較にならぬほど勾配もきつかったという。関東大震災(大正12年)後、坂の頂上を市ヶ谷寄りに移し傾斜をゆるくする工事が行なわれ、市電(都電)が坂の中央に設置された。現在は、靖国通りの一部として車の往来が激しい。
 坂下の田安門近くには、常燈明台(正式には高燈籠)という燈台がある。かつては坂上の靖国神社前にあったこの燈台の灯は、品川沖
の船ばかりではなく、遠く房総からも望見されたという。

3.神田の文化

 幕末期、西神田・外神田周辺の武家地に対し、東神田周辺には町人町が広く発達した。このため当時の神田の文化には、武家的、知識人的なものと、町人的、庶民的なものの双方が見受けられる。
 駿河台から外神田にかけては、湯島聖堂や昌平坂学問所もあり、儒学の中心であった。東神田のお玉ヶ池周辺も学者文人たちの集まる地であった。この界隈では、市川寛斎(儒者、漢詩人)の「江湖詩社」や大窪詩仏(漢詩人)の「詩聖堂」が設けられる一方、江川担庵の「江川塾」が西洋兵学を中心とする洋学を説いた。また、西洋医学の拠点として安政4年(1857)シーボルトの弟子伊藤玄朴らの出願により、幕府の公設種痘所(お玉ヶ池種痘所)が開設された。この種痘所は、その後明治政府に引き継がれ東京大学医学部の源流となった。余談だが、北辰一刀流の千葉周作や天神真揚流柔術の磯又右衛門の道場もこのお玉ヶ池近くにり、多くの門弟を集めたという。

4.神田繁華衛
 
 かつて、神田は繁華街であった。関東大震災(大正12年)により壊滅的打撃を受けた神田神保町界隈も、昭和初期には見事に復興を果した。通りに
は、耐火用の銅板や華やかな装飾を施した町並みが続き、映画館や飲食店が軒を連ねたという。
 「肩で風切る学生さんに、ジャズが音頭とる神田、神田、神田、屋並屋並に金文字かぎり、本にいわせる神田、神田、神田・‥・」。日本の流行歌手の草分け二村定一の歌う「神田小唄」(昭和4年)は、当時の活気に満ちた街の雰囲気をよく伝えている。こうした神円界隈の繁栄は、この街が市電(都電)交通の拠点であったことにもよる。昭和30年代前半まで、神保町は須田町とともに都内最大の乗り換え場所として賑わいをみせたという。

5.日記マニアの馬琴

 「南総里見八犬伝」の作者曲亭(滝沢)馬琴。生涯に二百数十編の作品を書いた馬琴は、また膨大な日記を残した人でもあった。
 一日の天気の移り変わり、原稿の進みぐあい、家族の健康状態、日常品の値段など江戸末期の庶民の暮らしぶりが、事細かに記録されている。
 旗本の用人の息子として生まれ、山東京伝に弟子入りし戯作者として本格的な文筆生活を始めたのは、寛政5年(1793)27歳の時だった。同年、九段中坂下飯田町で下駄屋を営む会田家に婿入りした。馬琴はこの家を著作堂と呼んだという。
 「南総里見八犬伝」は48歳の時、ここで書き始めた。文政7年(1824)馬琴は神田明神下に転居。「八犬伝」が完成したのは、天保7年(1836)に移った四谷信濃坂の家だった。その時馬琴はすでに75歳。両眼を失明し、息子の未亡人路女(みちじょ)に口述筆記させていたという。

6.神田に映画の灯がともる

 明治33年(1900)3月、神田錦町3丁目の貸席・錦輝館にて、東京で初めての「活動写真」が上映された。永井荷風の『?東綺譚』によると、その内容はサンフランシスコ市街の光景。上映は連日超満員で、ついには二階が落ちて打ち切られたという。
 大正11年(1922)1月には東洋キネマが開館し、28歳の弁士徳川夢声の名調子が一世を風靡した。人気があったのはD・W・デリフイスやダグラス・フェアバンクス。ルドルフ・ヴァレンチノは特に女性に好評で「婦人席は嵐に出会ったポプラ林のように、ザワザワと動揺」した(『夢声自伝』)。フリッツ・ラングの話題作『ドクトル・マブゼ』公開時には、酔っぱらって舞台に出た夢声が観客を怒らせ、場内騒然となる一幕もあった。「まさに空前の大失敗」と後に夢声は記している。「―ところで空前であるが、絶後でないのがまことにお恥しい次第である」東洋キネマは翌12年の大震災で一度崩壊したが、4ヵ月後にはバラック建築で再興(現在の建物は、その後昭和3年に再建されたもの)、大正13年には東キネ近く神田日活館、同年暮れには淡路町にシネマパレスが誕生し、神田は映画の町として賑いを見せた。

7.尾崎紅葉と硯友社

 明治18年(1885)、大学予備門(明治19年、第一高等中学と改称)の学生であった尾崎徳太郎(紅葉、当時18歳)、石橋助三郎(思案)、山田武太郎(美妙)の三人が、神田三崎町の紅葉の三畳の下宿に集り、大福餅をつまみながら文学サークル結成の相談をした。ここに誕生したのが硯友社で、機関紙「我楽多文庫」が作られることになった。
 「我楽多文庫」は初め、半紙半切を二つ折にした手写しの小冊子であったが、第9号から印刷本にして社員にだけ配付するようにした。その後、川上眉山や巖谷小波が入社するなど社運いよいよ盛大となり、「我楽多文庫」もいよいよ世の中に売り出そうということになった。新しい事務所として神田神保町の煙草屋の二階に八畳間を借りた。ところが引越したその夜、社員が集って記念のパーティとなると、意気盛んな著者たち、菓子をつまみ、天丼やスシなと食べながら夜更けまで談論風発、そのあまりの騒々しさに、一夜にして追い出されたという。
 次に見つけたのが九段中坂上の一軒家(現庄の「硯友社跡」)で、ここが硯友社第二の出発地となり、ドンチャン騒ぎも可能となった。明治21年5月、新生「我楽多文庫」第一号が、定価一部三銭で発売された。
 その頃の紅葉のあだ名は「紫ズボン」。染返しの紺のズボンが日なたでは紫色に見えたからで、その上に黄色くあせたぼてぼてマントをひっかけ、雑誌をかかえて「現金じゃなきゃいかんぞ」と絶叫しながら売り歩いたという。「我楽多文庫」は、山田美妙の硯友社脱退という事件の打撃を受け、明治22年2月、16号で終刊となったが、硯友社はその後も広津柳浪を同人に迎えるなどして活動を続け、近代文学への橋渡しになったといわれる。『金色夜叉』等多くの名作を書いた紅葉は明治36年、36歳の若さで他界した。

江戸下町の暮らし

下町の江戸っ子
 天明7年(1787)の山東京伝の洒落本『通信総籬』に、当時の江戸っ子についての描写がある。この書物によると、まずその生まれは将軍お膝下、窓から江戸城の金鯱を望む家に生まれ、水道(神田上水など)の水でうぶ湯をつかった者と定義されている。気風としては1本4両もする初鰹を愛し「宵越しの銭はもたない」など金銭面に潔く、「いき」と「はり」を本領とした、という。
 京伝は、江戸っ子の素姓を具体的に生粋の日本橋生まれとしているが、一方には神田明神の氏子たちとする説もある。しかし一般には、日本橋や京橋、神田といった下町商工業地域の代々根生いの町人たちとされた。江戸っ子気質とは、つまり下町気質のひとつの典型だったのである。下町そのものは、江戸時代後半から明治にかけて江戸城下の開発・拡張とともに広がりを出し、浅草や入谷あたりをも含むこととなった。明治後半には本所・深川あたりもその一環に組み込まれ、この地域の人々もまた江戸っ子となっていったのである。
 こうした江戸っ子なる独特な人物像が成立した背景には、新興都市江戸の特殊な事情がある。江戸では、地方商人の出店や地方武士、地方からの出稼ぎ人などによる地方色が江戸化することなく維持されたため、そうした地方色に対比される江戸食として、生粋の江戸町人的人物像が顕在化したのである。
 江戸期の下町町人たちの生み落とした江戸っ子の気風は、落語や浪曲などの文化遺産を通して現在に引き継がれている。
参考:岸井良衛監修『目で見る風俗誌@ 江戸町人の生活』他

下町の長屋
 もともと湿原地域の多かった江戸城下も、慶長8年(1603)、幕府による最初の大埋立て工事を経て、神田、日本橋などの市街地が形成された。当初は寺町、武家地が大きな比重を占めていた神田も、たび重なる大火と市街地拡張により次第に町人中心の町となっていった。
 埋立て後の奥州街道沿いには、町人町が碁盤目状につくられ、現在も名を残す神田周辺の北乗物町(駕籠職)・鍛冶町(鍛冶師)・紺屋町(染物)などは、職人町として各職種別に区画割がなされた。
 こうした商工業地域の町人たちは、多くが長屋に住んでいた。長屋は狭い露地を挟んで並び、一軒の広さが約4坪。障子を開けると、もう鼻の先が隣の障子というぐらい狭いこの長屋生活が、江戸っ子的な下町気質の舞台となった。“椀と箸 持って来れやと 壁をぶち”(『誹風柳多留』)といった句にみるように、隣人愛や連帯感のより支えられた生活であった。

江戸の銭湯
 江戸における銭湯の歴史は古く、家康江戸入府の翌年(1591)夏には、銭瓶橋(呉服橋と常盤橋の中間にあった)のほとりに江戸最初の銭湯が開かれている。この銭湯は蒸し風呂で、江戸時代、風呂といえばこの蒸し風呂を指した。一方、浴槽に湯を溜めて体を温める形式−現在、一般に風呂と呼ばれているものは「湯」と呼ばれていた。江戸時代の銭湯は、風呂から始まり次第に湯へと移行した歴史を持っているのである。江戸は、風が強く、また土地が火山灰質ということもあって埃が舞いやすいため、毎日入浴するのが習慣だったという。家に風呂を持つ者は少なく、裕福な町人の女房や娘でも銭湯へ出かけることを恥とはしなかったようである。ただ、当時の銭湯は男女混浴であり、採光も甚だ悪かったため、風俗的にはあまり好ましくなかったらしい。幕府はくり返し混浴を禁止したが、その効果はあまりなかったという。

江戸弁と共通語
 新興都市江戸は、時代とともに上方中心の文化より脱皮し、独自の町人文化を形成していった。これに歩調を合わせ、江戸後期には江戸語ともいうべき言葉が成立する。関東地方の方言を土台とし、江戸での勢力を誇った三河武士の言葉や、上方からの商人・職人の言葉が交わりつつできたものである。ただ、こうした江戸語は、日本橋や京橋の大商人たちよりも、神田界隈の職人など下町の一般庶民たちに通用する言葉であった。いわゆる「べらんめえ調」、江戸っ子の江戸弁である。一方、江戸の上流社会には、別の共有語が成立した。大名屋敷の奥方など、全国各地より集まった人々が上流社会で交流するうちに形成されていった言葉である。この共通語が、明治時代の知識人層に引き継がれ、今日の共通語(標準語)のもとになったのである。文化年間(19世紀初頭)には、大名屋敷に奉公した日本橋あたりのおかみさんが、現在の共通語とほぼ同じ言葉を話していたといわれる。

 

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