沿道のコラム

(2)松陰太子堂散歩(淡島通り−上町駅4.6Km)

 吉田松陰が眠る松陰神社を経て豪徳寺へ。井伊直弼が眠るこの寺は、かつての世田谷領主、吉良氏の居城跡の一部である。

1.太子堂と三軒茶屋
 
 太子堂の名は、円泉寺境内にある聖徳太子像(伝・弘法大師作)を安置した太子像に由来する。文禄4年(1595)、大和国の久米寺(今の奈良県橿原市)より太子像と十一面観世音像を背負って関東に下った真言宗の賢恵僧都は、この他の民家に一泊した際、夢に太子のお告げを受けた。いわく、「この地に霊地あり円泉ヶ丘という。つねに霊泉湧き、長くここに安住せん。汝も共にとどまるべし」。こうして太子堂と十一面観一世音像を安置した本堂が完成し、その翌年円泉寺が開かれた。以後、この地は太子像を参詣する人で賑わい、一つの村(太子堂村)にまでなった。昔はお告げ通り、泉も湧いていたということである。
 三軒茶屋の名は、江戸中期以後、今の世田谷通り・玉川通りの分岐点の三叉路にできた「しがらき(のちに石橋楼)」「田中屋」「角屋」の三軒のお茶屋に由来する。民衆の間で、大山阿大利神社に参詣する「大山詣」が盛んになった頃の話である。赤坂から青山、世田谷新宿(今のボロ市通り)、用賀を経て大山に至る道は、「大山道」と呼ばれた。不動明王座像を乗せた三叉路の道しるべは、今も同地に残されている。

2.世田谷吉良氏 
 
 今の世田谷城址公園にあった世田谷城は、周囲を堤と堀で囲んだ平城で、いわば守りの固い屋敷だった。その世田谷城に住み、世田谷を支配していたのが、室町幕府の将軍家足利氏の一門、吉良氏で
あった。忠臣蔵で有名な吉良上野介義央の吉良氏と同様、三河国吉良庄(今の愛知県幡豆(はず)郡と西尾市)に出自する一族である。
 吉良氏が世田谷を領有したのは、南北朝時代のこと。永和2年(1376)に吉良治家が世田谷の一部を自分の領地として鶴岡八幡宮に寄進した書状が残されており、八代二百数十年に渡って支配が続いた。世田谷城を築城したのも、治家といわれている。
 その治家から数えて六代目に当たる吉良成高は、文武に優れた戦国大名であった。江戸城の合戦(1477〜79)では太田道灌を助け、五山文学の後期を代表する詩人である禅僧、万里集九(までのしゅうく)を招いて講義
を受けたという。
 成高の跡を継いだ吉良頼康は、後北条氏の二代目(初代は北条早雲)で小田原城を拠点に関東地方に勢力を張っていた北条氏綱の娘を正室に迎えた。この頃から吉良氏は、実質的に後北条氏の支配下に入りつつあった。頼康の次の代の氏朝は天正18年(1590)、秀吉の攻略により後北条氏の小田原城が落城すると、所領を没収され、世田谷弦巻の実相院に隠居。世田谷の吉良氏の最後は、後北条氏と命運を共にするものであった。
 吉良頼康の側室、常盤御前には鷺草に関する伝説が残されている。無実の罪で追われて自害した常盤は、父母に向けて辞世の句をつけた白鷺を放った。不運にも白鷺は射落とされ、そのあとに鷺草が咲いたという。鷺草は世田谷区の花になっている。

3.林芙美子と太子堂
 
 無名時代の林芙美子の生活の記録『放浪紀』が出版されたのは、昭和5年のこと。その中に、20才の芙美子が大正14年(1925)、新進詩人の野村吉哉と共に太子堂で過ごした日々が描かれている。貧乏のどん底で、結核を患った野村との生活は、不幸なものであった。 「・・・・・・泥沼に浮いた船のように、何と淋しい私たちの長屋だろう。兵営の屍室と墓と病院と、安カフェーに組まれたこの太子堂の暗い家にもあきあきしてしまった」。
 当時、隣には壷井繁治・栄の夫婦が住んでおり、近くには平林たい子が政治活動家の飯田徳太郎と同棲していた。またプロレタリア作家の黒島伝治、前田河広一郎とも親交を探めている。皆貧しく、女達はわずかな米を分けあったり、男連は連れだってたけのこ泥棒に出かけたりする生活だった。「‥‥‥貧乏をしていると、皆友情以上に、自分をさらけ出して一つになってしまうものとみえる」。当時の様子は、壷井栄の『はたちの芙美子』にも描かれている。芙美子は作品を売り込みに行く時、自分より大柄の栄の着物を借り、苦労して着つけた。そして手に入ったわずかな金で今川焼を買い、飢えをしのいだという。
 米を五升、まとめて買うことが夢だったという芙美子だが、『放浪紀』がベストセラーになってからは一躍流行作家となり、富と名声を手に入れたのである。

4.代用教員時代の坂口安吾
 
 大正14年(1925)、19才の坂口安吾は、荏原尋常高等小学校分教場(今の代沢小学校)に代用教員としてやって来た。後にその時のことを『風と光と二十の私と』に書いている。「‥‥‥その頃は学校の近所には農家すらなく、まったくただひろびろとした武蔵野で、一方に丘がつらなり、丘は竹薮と麦畑で、原始林もあった」。
 受持ちは、分教場の最上級生の五年生。「男女混合の七十名ぐらいの組であるが、どうも本校で手に負えないのを分校に押しつけていたのではないかと思う」。片仮名で「コンニチハ一つ書くことのできない子供」が20人もいた。喧嘩ばかりしている問題児達だが、「本当に可愛い子供は悪い子供の中にいる」というのが安吾の考え。彼らの「あたたかい思いや郷愁」を持った魂を愛し、無理に勉強を強いることはなかった。
 当初安吾は学校近くの下宿屋に住んだが、そこの娘に「猛烈に」惚れられて、代田橋にある分教場の主任の家に転居。4km余りの道を歩いて通った。子供達の半数は同じぐらいの距離を通学しており、「私が学校へくるまでには生徒が三十人ぐらい一緒になってしまう」。安吾が遅刻した時などは、夕べはどこに泊まったのかと冷やかすませた子供もいた。
 教員時代は約一年続いたが、武蔵野の自然と子供達に囲まれた生活は、後にデカダン派と称される安吾にしては健全なものだった。「私は青空と光を眺めるだけで、もう幸福であった。麦畑を渡る風と光の香気の中で、私は至高の歓喜を感じていた」。

  

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