沿道のコラム

(1)帝釈天門前散歩(京成高砂駅−矢切の渡し3.1Km)

 今は寅さんで有名な柴又帝釈天。江戸時代、柴又は庚申の日だけ参拝客でにぎわうのどかな農村だった。

    1. 国府台の合戦
    2. 八幡神社の獅子舞い
    3. 柴又七福神めぐり
    4. 水戸佐倉道と新宿
    5. 江戸川
    6. 金町小かぶ
    7. 野菊の墓
    8. 矢切りの渡し

1.柴又帝釈天

 柴又帝釈天は、正式には経栄山題経寺(きょうえいざん だいきょうじ)という名の日蓮宗の寺。寛永8年(1631)、日忠上人の草創と伝えられているが、墓地から出土した板碑により起源は室町時代初期まで遡ることができる。
 題経寺が柴又帝釈天と呼ばれるわけは、帝釈堂に安置されている板に彫られた仏法の守護神、帝釈天の像にある。これは日蓮聖人自刻と伝えられるもので、右手に剣を持ち、左手をカツと大きく開いて怒りの相をあらわした帝釈天の姿が、力強いタッチで彫られている。
 不思議なことに、この寺の宝ともいうべき帝釈天像の板本尊は、長い間、どこにあるのか不明であった。それが発見されたのは安永8年(1779)のこと。帝釈堂の改築のときに、梁の上から見つかったのだが、ちょうどその日は庚申の日であった。そこで、以後60日おきにめぐってくる庚申の日を縁日とすることになった。
 その後、天明3年(1783)、江戸の庶民は疫病と飢饉に苦しめられた。惨状を見かねた住職の日敬が板本尊を背負って江戸市中に出かけ、人々に御利益を授けたことから、題経寺は柴又帝釈天として世に知られるところとなった。
 ちょうどそのころ、江戸では庚申信仰が盛んであった。柴又帝釈天はこの庚申信仰と結びつき、庚申の日になると、江戸市中から参拝に訪れる人でにぎわうようになった。柴又帝釈天には厄除け、延寿、商売繁盛のほかに、お参りすると小遣い銭に不自由しないという言い伝えがある。その御利益にあやかろうと、人々は庚申の日の朝早くにご開帳に出かけ、庭先からあふれでる御神水をいただいて帰路についたという。このころは題経寺の周りはほとんど田畑で、庚申の日だけ、農家が臨時に出店を出すくらいだった。柴又名物の草団子ももとは農家の副食であったという。
 明治以後、題経寺は「彫刻の寺」として評判になる。入口の二天門に安置されている持国、増長の二天像は、明治29年(1896)に泉州堺の妙国寺から贈られたもので、藤原時代の仏工、定朝の作といわれている。帝釈堂の外側には、緻密な細工の「日蓮聖人御一代記」と「十二支」の彫刻がある。これらは昭和9年に石川信光、山本一
芳ら一流彫刻家が15年かけて完成させたもの。今は上下二段のガラス張りの回席を歩いて鑑賞できるようになっている。このほか、寺の奥には名造園師、永井楽山が昭和41年につくった庭園、邃渓園(すいけいえん)がある。
 門前参道に、草タンゴ、せんべい、川魚料理などの店が並び、今の姿に近い景観ができあがったのは、明治の終りから大正にかけてのこと。このころの柴又は新しい行楽地として多くの小説に取り上げられた。夏目漱石の『彼岸過迄』もその一つで、主人公が江戸川を散歩したあと、帝釈天に寄るくだりがある。また谷崎潤一郎の『羮(あつもの)』や尾崎士郎の『人生劇場』には、江戸川でボートを練習したあとに柴又の料亭で遊ぶ大学生が登場する。これは当時の大学生の間ではやった風俗だった。今日では寅さんの故郷としてあまりにも有名になったが、古くからの下町門前町の情緒が残されている。

2.柴又と寅さん

 柴又帝釈天の参道の入口には、山田洋次の筆で書かれた映画「男はつらいよ」の碑がある。「私、生まれも育ちも葛飾柴又です。帝釈天で産湯をつかい、姓は車、名は寅次郎、人呼んでフーテンの寅と発します」。
 車寅次郎は、昭和43年、TVドラマシリーズ「泣いてたまるか」の一挿話に登場した。このとき、脚本を書いた山田洋次は、渥美清演じる寅次郎に愛着を感じて映画化を強く望んだ。そして翌44年に映画「男はつらいよ」を監督した。
 父親とささいなことから喧嘩となり、家を飛び出した寅次郎は、香具師となって日本中を旅してまわっている。だが、そんな彼も桜の咲くころになると、柴又が恋しくなってくる。そしてついに20年ぶりに、矢切りの渡しで江戸川を渡り、庚申の縁日でにぎやかな柴又に帰ってくる……。この第一作のヒットにより、柴又は全国的に有名となって今日に至る。 監督の山田洋次氏は、寅さんの故郷に柴又を選んだ理由として参道をあげている。「柴又の参道は、こう、途中で何となくゆるやかにカーブしてるでしょう? 題経寺の山門の見え方が、遠くからポーンと正面に見えるんじゃなくて、カーブしてるために、こう途中から家並み越しに見えるのが、とっても風情があるんですね」。
 その参道にあるという設定の草タンゴ屋「とらや(現・くるまや)」に戻ってくる寅次郎を、叔父夫婦や妹のさくらは暖かく迎える。だが、毎回、寅次郎はマドンナに惚れては失恋し、柴又にいづらくなって旅に出てしまう。
 このどうにも憎めない寅さんのモデルは誰かということで、一時、柴又には自薦、他薦の寅さんがあちこちにあらわれたという。だが、山田洋次によれば、寅さんには特別なモデルはなく、強いて言えば渥美清のキャラクターに触発されて生まれたものだという。
 現在、寅さんシリーズは全部で47作。寅さんにちなんだ柴又名物はおよそ60種類ある。また平成9年には葛飾区観光文化センターの一角に寅さん記念館もオープン。館内は撮影スタジオのセット、歴代マドンナのプロフィール 、全48作のポスター、衣装、台本などが展示され、寅さんを懐かしむ人々で賑わっている。

3.人車鉄道

 人車(じんしゃ)鉄道はひとりの車夫が6人乗りの車両を後ろから押して動かすというもの。鉄道が走るようになった明治の終りに登場した風変わりな交通機関である。
 帝釈人車鉄道株式会社の設立は明治32年(1899)。3年前の明治29年(1896)に開通した日本鉄道(現在の常磐線)の金町駅から柴又帝釈天まで参拝客を運ぶことを目的に、地元の有志が出資してつくった会社だった。
 この人車鉄道が走る区間は金町―柴又間の約1.4km。料金は片道5銭、往復9銭。庚申の日には1万人前後の利用客があり、64両ある車両がフル回転しても、運びきれないことがあった。かきいれ時には、付近の農家から臨時車夫を雇ったという。
 だが、いくら忙しい日でも、車夫が車両を押して田畑の中を行く様は、のどかなものであった。発車時には若い男の客などに車両を押すのを手伝ってもらったり、動きだしてからは前方確認を乗客にまかせたりと、車夫と客の関係ものんびりしたものだったという。
 夏目漱石や尾崎紅葉も利用した帝釈人車鉄道は、大正元年(1912)に京成電鉄に買収され、廃止となった。今の京成線の柴又―京成金町間は、人事鉄道のルートを利用したものである。

4.国府台の合戦

 
国府台(こうのだい)の合戦は、戦国時代、小田原北条氏と安房里見氏が親子二代、二度にわたって交えた戦い。この合戦の場が江戸川の周辺、特に千葉県市川市の高台、国府台だったことから、この名がついた。
 最初の戦いは天文7年(1538)。北条氏綱は息子氏康とともに1万3千の兵を率いて葛西城(青戸7丁目付近か)に陣をとり、里見義尭と足利義明の連合軍を討つ準備をした。対する里見義尭は、6千の兵を率いて国府台に陣をひいた。10月7日の早朝、北条軍は金町と柴又から利根川(今の江戸川)を渡って国府台に攻めこんだ。この戦いで足利義明は戦死、里見義尭も安房に逃げ帰り、北条軍は勝利をおさめた。戦闘はわずか半日であったが、両軍合わせて約4千人が戦死したという。
 二度日の戦いは26年後の永禄7年(1564)正月。事の始まりは、太田道灌の孫、資正(すけまさ)が太田康資(やすすけ)と北条氏を討つ計画をたてたことにあった。この計画は北条方に漏れ、太田資正らは里見義尭の息子義弘に助けを求めた。父の無念をはらす絶好の機会と考えた里見義弘は、太田資正らの求めに応え、北条氏との合戦の場を国府台に定めた。義弘が率いる兵の数は前回をはるかに上回るものだったという。
 正月8日の早朝、北条軍は柴又と小岩から利根川を渡るが、里見・太田軍の猛攻撃に遭い、前線の指揮官を次々と失い、一時は劣勢に陥った。北条氏康は主力を立石・青戸方面に集結させ、からめきの瀬(今の金町浄水場の取水塔あたりか)から利根川を渡った。息子氏政も小岩から川を渡り、北条軍は国府台にいる敵を挟み撃ちにして、里見・太田軍を破った。結局、里見義弘は復讐を果たせぬまま安房に退き、下総・上総地域は北条氏の支配下に置かれることになった。
 戦場となった国府台周辺の農村では、多くの農民が兵として駆り 出されたという。大正7年(1918)の江戸川改修工事の際には、浄水場の取水塔あたりから多数の刀剣が出土している。

5.八幡神社の獅子舞い

 八幡神社の御子舞いは葛飾に古くから伝わる郷土芸能の一つ。毎年10月の例祭のときに演じられ、獅子の羽毛に触れると厄病から逃れられるとの古い伝えがある。
 厄病を追い払う祈祷獅子は、昭和30年代まで行われていた。これは、獅子舞いの一行が村境で厄病に酒を饗した後、退散を祈願することから「道饗(みちあえ)の行事」と呼ばれた。実際には、門外不出の獅子頭を特別に神社の外に出して家々をまわり、病人の枕もとで獅子舞いを演じたあと、村境に酒をお供えして、太刀を十文字に切って厄病を追い払うものであった。

6.柴又七福神めぐり

 七福神めぐりは、1月1日から7日までの間に七福神を祀る神社や寺院を参拝する年中行事。各寺社には焼き物の小さな福神の像があり、これを七つそろえて宝船に乗せると、福徳をさずかるといわれた。柴又七福神めぐりの場合、京成高砂駅から次のようなルートを取ると、約2時間でまわることができる。
 勘蔵寺(寿老人)→良観寺(布袋)→真勝院(弁財天)→題経寺(毘沙門天)→万福寺(福禄寿)→宝生院(大黒天)→医王寺(恵比寿)。
 七福神は、中国の竹林の七賢にならって日本で生み出されたもの。七福神が日本の神(恵比寿)やインドの神(毘沙門天、大黒天、弁財天)、中国の高士(寿老人、布袋、福禄寿)と決まったのは江戸時代中期以後のことである。東京には、向鳥、谷中、山の手、麻布、品川、浅草、亀戸、武蔵野などに七福神がある。

水戸佐倉道と新宿

 水戸佐倉道は、五街道の一つ日光道中の千住宿から枝分かれし、新宿(にいじゅく)に至る。道はさらに新宿で二つに分かれる。一つは金町松戸の関所を経て水戸に至る水戸道、もう一つは小岩・市川の関所を経て佐倉に至る佐倉道である。水戸佐倉道は、千住宿から水戸道の松戸までと佐倉道の八幡までの、江戸時代に道中奉行が管理していた区間のことをいう。
 この道は、一説によると、中世、鎌倉から江戸を経て奥州方面に通じていた鎌倉街道の道筋の名残りともいわれる。
 新宿が発展したのは、江戸時代に入って幕府の直轄地になってからである。新宿は、水戸藩主をはじめ安房、下総、常陸や奥州方面に領地を持つ大名や旗本、一般の旅人など上り下りの人馬でにぎわった。幕府は水戸道と佐倉通が合流する新宿を重要視し、輸送のために宿駅に置く人馬の数を25人25頭と五街道なみに定めた。また元禄7年(1694)には近隣10里四方内の村々に、新宿に人馬を供出する義務(助郷)を課した。
 明治以降も、新宿は交通の要所であった。明治17年(11884)、中川に、新宿の渡しにかわって、中川橋が架けられた。これは明治天皇の行幸のための仮橋であったが、翌年、新宿、亀有の両町村で新しく架け替えられてからは、通行料を取ったので、賃取橋ともいわれた。この橋銭は町の主要な財源となった。しかし、明治30年(1897)に常磐線が新宿をはずれて通り、昭和8年に水戸街道が今の四つ木橋から松戸へ通じる国道6号線となってから、新宿は静かな町へと変わっていった。
 現在の新宿には、江戸時代以前の面影が今も残っている。「コ」の字に折れ曲がり、それぞれの角に寺社が建つ道筋もその一つ。これは戦国時代に戦いに備えてつくられたものだという。国道6号線沿い(新宿2-20-25)には、石の道標が残され、「さくらみち」「水戸街道」という分岐点を示す文字が今もはっきりと読みとれる。

江戸川
 江戸川はもともと利根川の本流として東京湾に注ぐ川だった。『更級日記』の中に「下総の国と武蔵の国の境にてある太井川」とあるように、中世には太井川または太日河と呼ばれていた。16世紀まで江戸川はたいへんな暴れ川で、大雨が降れば、下流の江戸はたちまち大洪水に襲われた。江戸入りした徳川家康は、まず伊奈備前守忠次に利根川の改修工事を命じた。これは、利根川の流れを埼玉県の栗橋あたりで二つに分け、本流を常陸川や赤堀川の流れを使って、銚子から太平洋に注ぐように変更するという大工事であった。
 寛永17年(1640)、数次にわたる改修工事が終了し、太井川は利根川の支流となった。このころより川の名も太井川から利根川に変わったが、一般には江戸への重要な水運ルートとなったことから、江戸川と呼ばれた。
 享保年間(1716〜36)以後、人口が百万をこえた江戸には、米、味噌、醤油などの生活必需品をはじめとしてあらゆる物資を大量に搬入する必要があった。改修後の江戸川は周辺地域の田畑の灌漑のほかに、これらの物資輸送にも利用された。江戸川を行き来する船が運ぶものは、関東の内陸部からのものだけではなかった。東北地方からの米も東廻り航路で銚子港に着いたあと、利根川と江戸川の水運を使って江戸に運ばれた。
 江戸中期から明治の初めにかけて、川沿いの金町や柴又あたりでは、瓦や植木鉢、鍋釜、七輪などの製造がさかんであった。これは、江戸川や中川の川岸からとれる粘土が瓦や土器類製造に適していたためだった。瓦は金町だけでも年間30万枚つくられ、その多くは江戸川上流にある野田の醤油醸造工場に売られた。もちろん、この瓦の輸送にも江戸川の水運が利用された。
 なお、江戸川は昭和5年に放水路ができ、本流は江戸川区篠崎町から千葉県へ流れるようになった

金町小かぶ

 春の七草の一つ「すずな」はかぶのことをさし、その根が鈴の形に似ていることからきており、「かぶ」も人のあたまの形に似ていることからつけられたように、まるい形に特徴のある野菜である。
 今日私たちが口にするかぶのほとんどは、金町系のかぶである。それまではかぶといえば、秋に収穫され漬物となる大きな聖護院蕪が代表であったが、明治の末年に東金町で早取りできる改良品が作られ、金町小かぶとして珍重された。金町系とは、金町小かぶの品種改良品である。金町小かぶの種は現在も種苗屋さんで売られている。
 金町小かぶは、葉菜類が秋で終わり漬物ぐらいしかなかった冬をようやく越して、春まだ浅い時期の貴重な野菜として、高級料亭に出荷されていたという。その後、とう立ちが遅い特徴を利用して、金町周辺では盛んに春先のかぶ生産が行われ、金町小かぶは次第に全国に広まった。
 昔からかぶは根も葉も栄養価の高いむだのない野菜であった。しかも品種改良されたかぶは、煮崩れせず、甘みもあり、なめらかなしたざわりは、様々な料理に利用できる。八百屋の店頭に積まれたみずみずしい豊かな緑の葉と真っ白な小ぶりのまるい根の束は小気味良く、いかにも東京産の野菜らしい。

10野菊の墓

 『野菊の墓』は、明治39年(1906)に歌人伊藤左千夫が発表した小説。昭和30年に木下恵介が監督した『野菊の如き君なりき』をはじめとして、何度も映画やドラマになった。矢切村の旧家の息子政夫の「民子さんはどう見ても野菊の花だ」、民子の「政夫さんはりんどうのようだ」という言葉が交わされるくだりがある。しかし、政夫と民子の淡い恋物語は大人たちによって終止符を打たれる。その二人の別れの舞台が矢切りの渡しであった。「小雨のしょぼしょぼ降る渡し場に、泣きの涙も人目を憚り、一言の詞もかわし得ないで永久の別れをしてしまったのである。無情の舟は流れを下って早く、十分間と経たぬ内に、五町と下らぬ内に、お互いの姿は雨の曇りに隔てられて了った」。対岸の西蓮寺境内には『野菊の墓』の記念碑がある。

11矢切りの渡し

 徳川幕府は、戦略上、江戸城を守るために、交通の要衝となる川には橋を架けなかった。そのかわり、川を渡るために設けたのが、渡しであった。元和2年(1616)、幕府は江戸川など利根川水系河川の15カ所に渡し舟場をつくった。柴又と対岸の矢切りを結ぶ矢切りの渡しもその一つ。ただし、この渡しは地元民専用で、耕作、日用品購入、社寺詣などの目的で利用を許されていた。一般の通行には、金町松戸関所の渡しを利用しなければならなかった。
 明治に入ってからも、矢切りの渡しは地元の人々に利用された。この渡しが有名になったのは、伊藤左千夫の小説『野菊の墓』(1906)によって。以後、矢切りの渡しは、悲恋物語の舞台として知られるようになった。昭和57年には、歌謡曲の『矢切りの渡し』の大ヒットによって、再び脚光を浴びた。
 矢切りの渡しは、今も東京近郊に残る唯一の渡し舟として運航している。
運行日:3月下旬〜11月末までは、毎日運行 その他は土・日・祝日・庚申日及び1月1〜15日
運行時間:午前9時〜日没まで 雨天・荒天は欠航
料金:片道 大人100円 子ども50円

 

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