沿道のコラム

(1)新宿超高層街散歩(新宿中央公園−新宿駅1.2Km)

 新宿駅西口に広がる超高層ビル街は、淀橋浄水場のあったところ。新宿と水の関わりは江戸時代の玉川上水にまで遡る。

    1. 水のターミナル、淀橋浄水場
    2. 明治のコレラ騒動

1.超高層ビル物語 
 
  「さあ町と塔をたててその項を天に届かせよう。そして我々は名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう」(旧約聖書創世記12章)
 空間的に上昇したいという人間の欲求は、太古の昔からあったようだ。ルーブル美術館所蔵の粘土板(タブレット)によれば、聖書に名高いバベルの塔とも思われるバビロンの巨大な塔は高さ90メートル程だったという。
 現在世界一高いビルは、マレーシア・クアラルンプルにあるペトロナスタワーで、452メートル88階。今後は上海や台北、韓国でこれを上回るビルが生まれるという。高層化の競争は、アジアに移ったかのようだ。これまでは、摩天楼といえばニューヨークが代名詞だった。その歴史は今世紀初頭に遡る。当時のニューヨークにおける摩天楼建設ラッシュは、資本主義拡張期のアメリカを誇示した。1931年建設のエンパイヤ・ステート・ビルは、コンクリートに石張り、ルネサンスの様式を模した塔のような形をしていたが、第二次大戦後には鉄とガラスによる箱型建築が登場し、日本にも導入されて戦後の都市づくりに貢献した。
 新宿に初めて高層ビルが建てられたのは、霞ヶ関ビル完成から3年後の昭和46年。170メートル47階の京王プラザホテルである。高層ビルが必要とされた理由としては、限られた土地を最大限に利用でき、
広場や公共的な空間も得られること、オフィス集中による企業活動の能率化などがあげられるが、企業イメージというのも大きな意味を持つようだ。1970年代の西新宿では、あらたに建設される高層ビルの軒高は、そのほとんどが年をおって少しずつ高くなっていった。ほかより高いビルを建てることは、企業の威信のほどを示し、そこに働く人々の士気を高める役割も果たしたに違いない。
 2001年9月11日の出来事は、その意味でも上昇することだけが平和を維持する方策ではないことを目前に突きつけたのではないだろうか。

2.新宿副都心計画 
 
 戦後の都市計画によって新宿は大きな変貌をとげた。終戦直後332万に減った東京の人口は、昭和29年には775万に増加し、経済の高度成長は都心部の拡張を必要とした。
 そこで昭和29年、新宿区綜合発展計画促進会が発足。地下鉄(丸ノ内線、東西線)の敷設、新宿駅舎改造、淀橋浄水場移転などの促進運動が開始された。昭和33年に具体化した新宿駅西口の副都心計画は、浄水場跡地だけでなく、駅西口を中心に北は青梅街道、南は甲州街道、西は十二社通りで囲まれる三角地域に高度な都市計画を実施しようというものだった。昭和40年に淀橋浄水場は東村山へ移り、翌41年世界で初めての「駅前立体広場」が西口に完成。丸の内の約2倍の面積を持つ浄水場跡地には、まずは京王プラザホテルに始まり、以降丸の内から移転した都庁も含め次々と高層ビルが建てられた。

3.江戸の水道

 長屋の一つの共同井戸に、女房たちが集まり、よもやま話の花を咲かせる。江戸時代の井戸端の様子はテレビや映画の時代劇でもよく見られる。水質のよさや薬効、伝説由来などで世に知られる井戸や湧水は、江戸にも少なくなかったようだが、大部分の井戸の水は飲用不適で洗たくや撒き水に使われることが多かったという。また江戸は埋め立てによって造られた市街地が多く、そうしたところでは井戸は役に立たなかった。
 都市の歴史は水の歴史でもある。家康は入国と同時に飲み水の心配をして、水道の開発を進めた。井の頭池を水源とする神田上水が引かれたのは、天正18年(1590)とも寛永年間(1624〜1644)ともいわれる。
 しかし年とともに開けていく江戸の町は、この神田上水だけでは間に合わず、赤坂の溜池をはじめとする所々の池が水源として利用された。
 それでも市民は水不足に悩まされたので、承応2年(1653)から3年にかけて、玉川上水開さくが行なわれた。この水道は、多摩川の水を羽村でとり入れ、四谷大木戸まで42.7キロの堀を開削し、そこから四谷御門、半蔵門を経て江戸城へは地下に水道管を敷設、堀の工事はおよそ8ヶ月という短期間で完成した。
 工事は、庄右衛門、清右衛門の兄弟が請負い、二人は上水完成後、玉川の姓を与えられた。更にこの玉川上水を分水して、青山、三田、千川の三つの上水が引かれる。青山上水は、四谷、麹町、青山、赤坂、麻布の水道として利用された。
 玉川上水は、水源から四谷大木戸まではフタのない水路のようなもので、雨水が流れ込むばかりでなく、ゴミの投棄の恐れもあった。幕府は要所に高札を立てて見廻りを行ない、四谷大木戸には水番所
を置いて水質管理や市中に供給する水量の調節をさせた。
 この四谷の水番所から先は、暗渠となる。石樋や木樋を地中に通し、枡を置いて、市中の井戸などに水を送る水道網がつくられた。当時は、貯水や浄化の設備がなかったので、晴天が続くと枯水し、台風になれば泥水が混じるといった具合。水質は決していいものではなかったという。

4.水のターミナル、淀橋浄水場

  「道路・橋梁及ビ河川ハ本ナリ、水道・家屋・下水ハ末ナリ」(明治17年東京府知事の市区改正草案)と考えられていた都市の近代化は、コレラ騒動を機にくつがえる。明治24年(1891)淀橋浄水場の設計案が出された。それ以前は千駄ヶ谷が候補地となっていたが、水路の迂回の問題と、沈殿池の高さの問題で、淀橋に変更された。淀橋の方が、沈殿池を約5メートル高くでき給水上の利点が高いとみなされたのである。淀橋浄水場の起工は明治26年(1893)。3000余名の来賓のため新宿に特別列車が運行され、音楽隊をまじえた式典が開かれた。木樋の水道管は、鋳鉄管にとってかわり、明治31年(1898)、神田、日本橋地区に最初の給水が行なわれた。明治34年には、水道の蛇口からヒルやミミズが出るという事件があったが、それも無事におさまり、66年間東京に住む人々の生活を支え続けた。

5.明治のコレラ騒動 

 明治19年(1886)に起こったコレラ騒動は、死者9,879名という被害を出した。日本橋浜町で患者が発生してから本所・深川・浅草に及び、やがて全国に広がったという。この事件のさなかに、患者を出した玉川沿岸の村で、川に汚物を流したというニュースが伝わった。玉川上水の水は皇居にも引かれていたため大きな問題となり、多摩川上流の管理は急務とされた。東京府管理外にあった三多摩地区は、明治26年(1893)、東京府下に入る。コレラは、当時「コロリ」と呼ばれて、激しい吐気と下痢をもよおし、重症になれば急速に衰弱して死に至る病として恐れられた。この伝染病は、明治12年(1879)にも大流行し、関西中心に約10万人の死者を出している。赤坂の氷川屋敷に住んでいた勝海舟も、明治19年のコレラの被害を受けた一人で、苦しい闘病の様子を書いた手記が当時の新聞に寄稿された。その中で彼は同病者に対しこう書いている。
 「・・・・一朝此病苦に遭遇せば唯大苦呻吟空しく死を待つのみ 何の暇か予防摂生に及ぶ予力あらんや 是を思へば惨憺の情我が衷心に感発しめ覚えず涙の潜々たるを・・・・・」
このコレラ騒動を機に水質実験が行われ、江戸時代から使われてた水道の改良工事が開始されることになる。
参考:「朝日新聞100年の記事にみる」シリーズ

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