沿道のコラム

(3)神田川川辺の路散歩(西永福駅−高井戸駅2.8Km)

 かつては神田上水の名で親しまれた神田川。川沿いに美しく整備された遊歩道には散歩やジョギングで訪れる人も多い。

    1. 環状7号線

1.甲州道中・高井戸宿

 
甲州道中(現甲州街道)が開かれたのは関ヶ原の合戦の翌年、慶長6年(1601)。いまだ政情不安なご時勢、甲州道中は江戸落城の折に徳川家直轄領の甲府へ逃れるための軍用路だった。かくして日本橋から四里(16km)の高井戸の地に第一の宿が置かれたのである。ちなみに甲州街道とは明治以降の呼び名、江戸時代は甲州道中と称していた。
 一口に高井戸宿といっても、宿場町は上・下のニヵ所に分かれていた。人馬を常備する義務など、地元に課される財政負担を軽くするため、上・下高井戸両村が半月交替で経営を分担したからである。現在の首都高速4号線と甲州街道の交差部、一里塚の残っている辺りが下高井戸宿、その西、環八通りと交わる辺りが上高井戸宿であった。
 実際、高井戸宿の経営は苦しかったらしい。参勤交代で甲州道中を通る大名は、諏訪・高遠・飯田の三藩のみ。旅人の数も甲州と信州行きにほとんど限られるため、五街道の中で一番少なかった。宿には半宿半農の者も多く、彼らは街道に面して便所を建て、旅人から下肥を集めていたという。元禄11年(1698)、新たに内藤新宿が設置されると、さらに客足は遠のいた。天明年間(1781〜1788)の紀行文は、内藤新宿から角筈村を抜けると、その先はうっそうたる路傍の樹木に昼なお暗く、「さらに打晴たる風色なし」と、当時の閑散とした様を伝えている。
 ところでこの宿を利用した変わり種といえば、お茶壷道中。将軍家使用の宇治の新茶を毎年江戸城に運ぶ行列のことで、元文2年(1737)までは、茶壷を甲州谷村(山梨県都留市)に預けて夏を越させるため、甲州道中や中山道を利用した。馬50頭、人足600余人という大集団。その格式は大名行列をしのぐといわれ、この時ばかりは高井戸宿も大入りの客で賑わったという。

2.高井戸杉丸太

 杉並の地名は、江戸時代初期、成宗村と田端村(現在の成田辺り)の領主が領地境の印として青梅街道に杉並木を植えたことに由来するといわれる。そもそも当時の武蔵野の一帯には杉の木が多く、江戸の建築用材をまかなう杉丸太の一大産地であったが、中でも高井戸産の杉の木は「高井戸杉丸太」と呼ばれ、良材として有名だった。
 その特徴は、節がなく、磨いた光沢が強く、根元と先端の直径の差が少ないこと。茶室などの数寄屋造りの材料に重宝されたほか、よくしなって折れないことから、旗竿や船竿は「高井戸ものに限る」とまでいわれ、高値で盛んに出荷された。その勢いは明治・大正に入っても衰えず、昭和9年には当時の皇太子の初節句を祝って、鯉幟用の竿が高井戸から献上された。
 もともと杉には、湿気を含んだ柔らかい黒土の窪地や傾斜地を好む性質があるが、神田川流域の低湿地帯である高井戸は、まさに良材の生育と植林に通した地であったといえる。だが、残念ながら、戦後の宅地化と空気汚染によって区内の杉林は急激に減少し、現在は数えるほどしか残っていない。

3.賀川豊彦と松沢資料館

 賀川豊彦は大正・昭和を通じて活躍したプロテスタントの社会運動家。大正9年(1920)32歳で発表した自伝小説『死線を越えて』は、神戸スラム街での伝道生活の体験を克明に描き、大正期最大のベストセラーとなった。この作品に感激した小説家徳富蘆花は、自ら神戸に赴き賀川を訪ねた。蘆花の初対面の挨拶は「僕の顔をおばえているか。親の顔を見ろ。親の顔を知らんものがあるか」という突飛なもの。どうやら子供のいない蘆花は若き賀川に自分の跡継ぎを見い出していたらしい。なお、賀川の文学作品はこの他に、奇想天外なSF小説『空中征服』(大正11年)が名高い。
 大正12年、関東大震災救援のために上京した賀川は、翌年、粕谷に住んでいた蘆花の熱心な勧めもあって、隣の松沢村に移り住んだ。賀川は近くの祖師谷に武蔵野農民福音学校を開設、ここで聖書の講読や農業技術の指導・協同組合の普及にあたった。一時期関西に居を移すが、再び松沢村に戻り、昭和6年、松沢教会と松沢幼稚園を設立した。木立につつまれた静かな自宅で著作に専念する一方、戦前戦後を通じて18回の海外伝道の旅に献身し、晩年にはノーベル平和賞候補とも目された。昭和35年自宅にて死去、71歳。松沢教会の隣には、賀川豊彦記念・松沢資料館が昭和57年に開館された。
開館時間10:00(日曜は13:00)〜16:30 月曜休館 有料
問合せ:03-3302-2855

4.環状7号線

 東京の町並みは、過去3度、大きな変貌を経験したといわれる。関東大震災と第2次大戦下の戦災という二度の大破壊と再生、そして戦後の高度経済成長期の大改造とである。 現在、都内で唯一全線完成している環状幹線道路である環七通り建設の歴史は、この東京の変貌の歴史と重なっている。
 環七が計画着工されたのは昭和2年。大正12年(1923)の関東大震災で東京の市街地の大半が焼失すると、その復興事業として従来より格段に道幅の広い道路や、公園等の緑地帯を備えた近代的な街路が建設された。昭和通り(幅43m)や靖国通り(幅33m)など、現在の都心部の街路の原型はこの時に造られている。市街地の郊外への急速な拡大につれ、この都市計画の延長として、何本もの放射道路計画と共に環六(山手通り)、環七、環八等の環状道路計画が生まれた。だが、その実際の工事はほとんど進まず、日本は戦争に突入、環七はわずか7.2km開通しただけで東京は再び焼け野原と化してしまった。
 戦災復興計画として立案された新しい東京の都市計画は、大震災後の復興計画を下敷きに、さらにグレードアップした壮大なものであった。広大な緑地帯に被われた市街地に幅40〜100mという広幅員の放射・環状線が縦横に走る道路網。だがこの一大都市計画も、敗戦直後の疲弊した国力では縮小に次ぐ縮小を重ねざるを得なかった。文京区小石川の環三通り(長さ500m)はこの時挫折した環状3号線計画の名残である。環七は、僅かずつ、しかも飛び石状に不連続にだが、建設が続けられた。
 昭和34年、オリンピックの昭和39年東京開催が決定すると、それに向けて競技場や首都高速道路などの建設が開始された。オリンピック関連道路として各競技場や選手村を結ぶ青山通りが大幅に拡幅され、環七の西半分が一気に整備されたのはこの時期である。
 環七は、その後のつくば博関連事業の整備などを経て、昭和60年、ようやく大田区から江戸川区にいたる全線57.2kmが開通した。昭和初期に計画、着工されてから、完成に半世紀以上もの歳月を要したのである。

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