沿道のコラム

(1)上野お山散歩(湯島天神−根津神社4.1Km)

 上野の山は江戸八百八町第一の桜の名所。明治6年わが国第一号の公園となる。歴史文化ともに有数の都立公園。

    1. 明和のアイドル、笠森お仙

     

1.上野の森と寛永寺

 寛永2年(1625)幕府は江戸城の守りとして、上野に東叡山寛永寺を創建し、多くの伽藍が造営された。寛永寺は寺格高く、その規模は壮大であったが、慶応4年(1868)5月、彰義隊の戦争でほとんど娩失し、その面影は失われた。
 明治6年(1873)太政官布達により、旧寛永寺境内地のほとんどが日本最初の公園に指定された。明治年間その公園内では、種々の展覧会が開催され、さらに博物館・美術館・動物園などの文化施設がつくられ、やがて上野は文化・芸術の森と呼ばれるようになった。

2.彰義隊と日本初の号外 

 日本ではじめて号外が出たのは慶応4年(1868)。「中外新聞」が上野の山にたてこもった彰義隊の戦闘を報道したもので「別段中外新聞」といった。「別段」とは本紙の別刷り付録と号外速報の意味で一部一匁、和紙の袋とじであった。
 これには「徳川遺亡の悪徒共上野山内へ屯集し警衛を名とし僧侶を威靡し暴激の所業・‥」とある。
 この事件こそ会津若松の白虎隊と並んで、あくまでも佐幕派として徳川の世を守ろうとし、勤王派と上野のお山で最後の決戦に臨んだ彰義隊の戦いをさす。明治の誕生に先立つわずか数カ月前(同年2月)、徳川の旧家臣が“徳川に恩義のあるものは来れ”と同志を募った。募集に応じたのは3,000名。このうち1,500名が彰義隊の名のもとに、大村益次郎が率いる官軍2万名と対戦した。5月15日早朝、強い風雨のなかで火ぶたは切って落とされたが、戦いは半日で終わり彰義隊の戦死者は266名を数えた。遺体を集め葬った場所に「戦死之墓」(墓碑銘は山岡鉄舟の筆)が建っている。

3.上野公園の生みの親 

 上野公園の生みの親はオランダ人のボードワン博士。幕末、上野の山は戦火にさらされ、荒れ果てていたので、文部省は大学東校(現東京大学医学部)の病院建設用地にすることに決めた。
 その頃、長崎で医学の教べんをとっていたボードワンを招き、予定地の視察をさせた。視察を終えた彼は「かかる景勝閑雅の由緒ある地はよろしく西欧都市の例にならって公園とすべきである」と強く主張した。
 この言葉は大学病院建設を予定していた政府の意図とは大いに異ったが、彼の忠告を受け入れ、政府は、明治6年(1873)に日本で最初の公園を誕生させた。博士の像は昭和48年10月上野公園開園100年を記念して、公園中央広場、大噴水横に建てられている。

4.文化の森のルーツは博覧会 

 JR上野駅から上野公園にはいるとすぐにあるのが、音楽の殿堂として名高い東京文化会館。さらに木々の間を抜けると、ロダンの「考える人」と外壁を緑の玉砂利で化粧した建物が見える。これがル・コルビジェ設計の国立西洋美術館で、ロダンと印象派を中心とした松方コレクションが収められている。
 この美術館横にあるのが国立科学博物館。恐竜の骨やロケット等が展示され、子ども達に人気がある。
 他にも東京都美術館など上野公園に多くの文化施設があるのは、たびたびここで博覧会が開かれたことと大いに関係がある。
 最初に開かれたものは、明治10年(1877)の第一回内国勧業博覧会。政府主催のこの博覧会には、美術・機械・農業・動物など様々なものが陳列され、文明開化の風潮にのって多くの人が訪れたという。
 第二回は明治14年。この時に美術館に使われた建物が翌年東京国立博物館となった(現在の本館建物は昭和12年完成)。ここには古代から現代までの美術・歴史的遺品が8万5千点も収蔵されている。
 博物館に隣接する国際子ども図書館は、平成14年(2002年)5月5日に全面開館。平成12年(2000年)に国立国会図書館の支部図書館としてわが国初の国立の児童書専門図書館として設立され、国内外の児童書とその関連資料を収集、利用に供するとともに、電子図書館機能を活用した情報の提供を行い、児童書のナショナルセンターとなることをめざしている。
 上野公園はまた、芸術家の活躍の場でもあった。公園のはずれにある東京芸術大学は、明治20年に設立され東京美術学校(現実術学部)と東京音楽学校(現音楽学部)とが昭和24年に合餅したもの。美術学校初代校長の岡倉天心は、校長退職後も日本美術発展につくし、明治31年には谷中に日本美術院を創設している。岡倉天心記念公園はその跡地にある。

5.明和のアイドル、笠森お仙

 浮世絵に美人画家多しといえど、春信ほど多くの画家に影響を与えた者もいない。今にも消え入りそうな風情をたたえた春信美人は、明和期(1764〜1772)のシンボルであった。その大きな特色は、少女の魅力を存分に描き得たということである。古典を好み多分に夢想癖のあった春信にとって、少女の汚れなさは永遠のテーマ。
 笠森稲荷社前の茶屋娘お仙との出会いは、運命的なものであった。当時お仙は18歳。春信描くお仙モデルの錦絵は飛ぶように売れ、彼女は当代随一のアイドルとなった。歌に芝居に人形になり、お仙の手まり歌は昭和初期まで歌われた。明和7年(1770)2月、お仙は幕臣倉地政之助の許に嫁ぐ。人々の落胆たるや相当なものであった。
 同年6月に春信46歳で没するも、偶然であろうか。

6.西郷隆盛の謎の顔

  「うちの人はこげな人じゃなか」明治32年(1899)、上野で西郷隆盛像の除幕式があった時、婦人はこう言った。
西郷隆盛は維新の英雄だというのに、意外にもその肖像画は死後に描かれたものばかり。おまけに彼は写真が嫌いで一枚も撮らせなかったという。
 だが、明治5年(1872)からお土産写真ということで勤王の志士達の写真が流行したし、西郷隆盛の写真も随分と売られたらしい。もちろんそれらは皆、捏造されたもので、京都の伏見稲荷の宮司が町でお土産写真を見てみると、自分や同じ神社の神主の写真に、西郷隆盛やら西郷の部下やらの名前が付いて売られていたという。戊辰戦争から西南の役まで戦いの時には、部下の永山弥一郎が影武者となり、味方にすらあまり姿を見せなかったという西郷隆盛。一体どんな顔であったのか?未亡人が驚いた上野の銅像は、顔の上半分は弟に似ていて下半分が従弟に似ていたという噂に基づいて作られたといわれる。高村光雲の作である。
参考:NHK出版協会 「歴史への招待」29

7.怪談の名手・円朝

 「なに、牡丹燈籠なんか怖くありませんよ」速記の活版本で多寡をくくっていた私は、平気で威張って出て行った。ところが、いけない。円朝がいよいよ高座にあらわれて燭台の前でその怪談をはじめると、私はだんだんに一種の妖気を感じて来た−と、岡本綺堂が回想する三遊亭円朝の名調子。
 その円潮の墓は、上野の森と谷中の寺町の間、全生庵の境内にある。「真景累ヶ淵」「怪談乳房榎」など円朝自作自演の怪談話は、庶民の人気を集めていたばかりではなかった。その速記本は二葉亭四迷らの言文一致運動に影響を与えたというし、ドイツのランケは「怪談牡丹燈籠」をローマ字に直してドイツの大学で日本語のテキストにしていたという。だが、江戸時代に自分の芸を完成させていた円朝にとって、文明開化の明治は住みやすい時代ではなかったようである。「累ヶ淵」で彼はこう言っている。「今日より怪談を申しあげまするが、怪談ばなしと申すは近来大きに廃りまして、あまり寄席で致す者もこざいません、と申すのは幽霊というものは無い、全くの神経病になりましたから、怪談は開化先生方はお嫌いなさる事でございます。」
 幽霊を信じていたかった円朝は生前にお化けの絵を集めており、そのコレクションは毎年8月11日の円朝忌に本堂に展示されている。
参考:関山和夫「落語名人伝」

8.弥生式土器

 昭和42年、サトウ・ハチローら地元の人々の訴えが効を奏し、根津3丁目は再び弥生の名を取り戻した。我が国考古学史上意義のある弥生の町名を消してはならぬ、という訳である。向ヶ岡弥生町といわれてきた一帯は、江戸時代、徳川御三家のひとつ水戸家の下屋敷(現東大農学部の位置)など武家のお屋敷があった土地だが、明治政府に公収され大学用地となっていた。向ヶ岡の貝塚から有坂?蔵らによって壷形土器が発見されたのは、明治17年(1884)のことである。「私がふと貝塚の表面に壷の口が貝殻の中から露われているのを見出しましたから杖で貝を押しのけて引き出して見ると、たやすく赤焼の壷が出ました。…これが後に(明治29年)縄文式土器と異式のものであることが認められたものです。」(有坂?蔵『過去50年の思いで』より)その後日本各地で発見された類型の土器が弥生式土器と名付けられ、また弥生式土器を標式とする考古学上の時代を弥生時代(紀元前2世紀〜紀元後3世紀)と呼ぶようになったのである。それを顕彰して、昭和29年東大農学部の一隅が弥生式土器名称由来地と指定された。

9.鴎外の史伝「渋江抽斎」

 森鴎外は歴史小説執筆のため、上野図書館を利用して武鑑(江戸の武家便覧)を検索していた。その折、これはと思う武鑑には「弘前医官渋江氏蔵書記」という蔵書印が押してあることに気をひかれ、渋江なる人物に興味を覚えて調査を始めた。寺院に墓碑を捜し、その後裔を訪ねて、「知り得ていく段取りが直ちにそれを書いて行くことになる」(石川淳)といった形で新聞紙上に連載を開始したのは大正5年(1916)のこと。構成は極めて特殊で、いわゆる編年体ではなく、例えば推理小説を謎解きしながら読むような趣であり、これは当時としては画期的であった。
 その細部は生彩に富む。ある日抽斎の妻五百が風呂より裸のままで飛び出し、取り囲まれていた夫を救うエピソードは中でも高い。永井荷風が言葉を尽くして「渋江抽斎」を賛美したのは有名な話。この本格的な伝記物を契機として、晩年の鴎外は大作「伊沢蘭軒」等もっぱら史伝の創作に従事することになる。なお渋江抽斎の墓は谷中の感応寺に現存する。   
 

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