見どころ紹介

(1)数寄屋橋ふれあい散歩(日比谷公園−歌舞伎座1.5Km) 

●数寄屋橋
 昭和27〜29年に放送された菊田一夫のラジオドラマ『君の名は』で、主人公春樹と真知子が再会を約したのが、この数寄屋橋。放送時刻の8時半には全国の女湯がカラになるといわれたほどの人気ぶりで、数寄屋橋は一挙に東京新名所となった。左図に見る通り、戦前の銀座八丁は外堀、京橋川、汐留川、三十間堀(現昭和通りと銀座中央通りの間を流れていた)の4つの水路に囲まれた地域だったが、いずれも戦後埋め立てられた。外堀の埋め立ては昭和34年。同時に数寄屋橋も姿を消した。

●日比谷見附跡
 日比谷御門の設置は、寛永6年(1629)頃のこと。明治6年(1873)に取り壊されたが、見附の石垣は日比谷公園の設計に取り入れられ、現在も残っている。

●旧日比谷公園事務所
 明治42年(1909)に日比谷公園の事務所として建てられた木造2階のバンガロー風建築。一階部分を煉瓦造で外壁を玉石積とし、二階を木造軸組に下見板張りとした構造は当時としては斬新なもの。永らく東京都公園資料館として活用されてきたが、老朽化を理由に現在は中に入ることはできない。平成2年都の有形文化財に指定された。

●日比谷公園
 面積約16万u。もとは「外桜田」と呼ばれ、長州藩毛利家等の屋敷地であった。明治4年(1871)頃、陸軍用地と定められたが、同25年の練兵場廃止に伴い、翌年公園に指定された。開園は同36年。本多静六博士の設計による日本初の洋式庭園である。クス、シイ、ケヤキ等、緑深い樹木におおわれ、今日ではオフィス街の憩いの場として親しまれている。野外音楽堂は昭和58年に改築された。

●島崎藤村・北村透谷記念碑
 泰明小学校は、銀座煉瓦街の一角に明治11年(1878)開校。透谷は明治15年、藤村は17年に同校を卒業した。校舎入口脇に、「幼き日ここに学ぶ」の記念碑がある。なお、透谷というペンネームは当時住んでいた数寄屋橋の“すきや”からきているという。現在の校舎は大震災後の再建。シャワーバス・電気スチーム完備という豪勢な小学校であった。卒業者には他に近衛文麿、岡田嘉子らがいる。

●帝国ホテル
 帝国ホテルの開業は明治23年(1890)。渡辺譲の設計による木造3階建ては、明治期の代表的ホテルとされ、近くの鹿鳴館とよく調和したという。有名なフランク・ロイド・ライト設計の新館は、大正11年(1922)の完成。旧館は新館建設中に焼失した。この新舘は、古代メキシコ風の意匠を取り入れるなど装飾的に大変凝っているばかりでなく、関東大震災にも負けぬ強靱な建築物であったが、ライトは工事完了前に契約を切られていた。彼は極度の凝り性で、工期をどんどん延長させてしまったからである。建物は昭和42年、改築のため、愛知県犬山市の明治村に移築。現在の建物(本館)は昭和45年の竣工である。

●石川啄木記念碑
 24歳の啄木が北海道より単身上京したのは、明治42年(1909)。12月、東京朝日新聞社に校正係の職を得、小説家として身を立てるという悲願を抱きつつ、夏目漱石『それから』、『門』、泉鏡花『白鷺』、永井荷風『冷笑』、長塚節『土』などの校正を手掛けた。だが、彼の小説は遂に認められず、明治45年、27歳の著さで他界した。「京橋の瀧山町の新聞社 灯ともる頃のいそがしさかな」。瀧山町の東京朝日新聞社跡(銀座6丁目、朝日ビル)にこの歌を刻んだ記念碑がある。

●商法講習所碑
 明治8年(1875)8月、後の初代文部大臣森有礼は、銀座尾張町2丁目の鯛味噌屋の二階(現銀座松坂屋デパートの一角)に商法講習所を開き、簿記・商業算術・経済学などの授業を行った。これが一橋大学の起こりである。現在、松坂屋前の植え込み内に碑が残されている。

●旧新橋停車場跡
 日本最初の鉄道ターミナルとして明治5年(1872)に開業した新橋停車場は、西洋建築がまだ珍しかった当時、銀座通りに向かって威容を誇っていた。永らく文明開化の象徴として親しまれた駅舎も関東大震災で焼失、昭和9年から始まった改良工事によってプラットホームや諸施設も解体された。平成3年(1991)から開始された発掘調査により駅舎やプラットホームの遺構が出土、開業直前の写真と平面図をもとにした三次元解析により、新橋ステーションが甦った。
 館内の鉄道歴史展示室は、日本の鉄道の基礎を築いたエドモンド・モレル、井上勝の紹介や往時の新橋停車場の様子を伝えるプラズマディスプレイなどの展示がある。入口裏手の「0哩標識」は最初の鉄道建設の際の新橋側の起点にあたる。国指定史跡。
開館時間:11:00〜18:00 入館無料 月曜休館 
問合せ:03-3572-1872

●銀座発祥の地
 銀座は幕府勘定奉行の管轄下で銀貨の製造を独占して請け負った組合。伏見、駿河、大坂に設けられた後、慶長17年(1612)駿河の銀座が江戸に移された。江戸の銀座は京橋から南四丁の土地を有し、座人の宿舎や両替商など、出入り商人の住宅までも含む大がかりなものであった。享和元年(1801)、銀座は時の老中松平定信によって日本橋蠣殻町に移転。この時、以前の座人は全員罷免。不正があったといわれるが、その真相は不明である。

●京橋記念碑
 慶長年間(1596〜1615)の創架と推定され、東海道を京都に向かう際、最初に渡る橋として京橋と命名されたという。現存する擬宝珠付親柱は明治8年(1875)の建造。この擬宝珠は江戸時代、城外では日本橋、京橋、新橋に限って許されたものであったという。橋は京橋川が首都高速道路と化したのち、姿を消した。

●江戸歌舞伎発祥の地
 古くはこの辺りを中橋南地といい、寛永元年(1624)猿若勘三郎の猿若座(後の中村座)によって、最初の江戸歌舞伎が興行された。碑はこれを記念して、昭和32年、江戸歌舞伎旧史保存会が建設したもの。中橋は、日本橋と京橋の中間点に位置し、橋下には、紅葉川(現八重洲通り)が流れていたが、正保年間(1644〜48)の埋め立てで川とともに姿を消した。

●京橋大根河岸青物市場跡
 京橋から比丘尼橋(現八重洲6丁目)までの京橋川北岸に青物市場が立ったのは延宝3年(1675)頃といわれ、日本橋の魚河岸に対して大根河岸と呼ばれた。明治時代には京橋食品市場となり、震災後、築地の中央卸売市場に合併、移転した。

●歌舞伎座
 福地桜痴らによって、明治22年(1889)11月に開場された。地上3階、洋風建築の大劇場で、定員1,800人、立見300人を収容したという。9世市川団十郎、5世尾上菊五郎、初世市川左団次などの活躍で、歌舞伎界随一の舞台となった。建物は、震災・戦災などで幾度か焼失・再建を繰り返し、現在の劇場(設計、岡田信一郎)は昭和26年1月に開場した。

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