沿道のコラム

(3)ハケの道・玉川上水散歩(国分寺駅−小金井公園5.8Km)

 清冽な湧き水で知られるハケの道。湧水を巧みに取り入れた名園「滄浪泉園」は『武蔵野夫人』のモデルともなった。

    1. 国分寺崖線と「はけ」
    2. 小金井の桜
    3. 幕末の大侠客、小金井小次郎

1.玉川上水

 三代将軍家光から四代将軍家綱にかけての時代、江戸は深刻な飲料水不足に悩まされていた。これは当時の江戸を襲った急激な人口増加によるものであった。このため、幕府はすでに整備を終えた神田上水につぐ新たな水対策を急務とした。かくして承応2年(1653)、多摩川の水を市中に引き込む新上水の建設計画が具体化し、江戸の町人、加藤庄右衛門、ならびに清右衛門の兄弟が幕府の命に応じて工事に着工した。
 兄弟は、まず戦国忍者が用いたという夜間測量法を用いて、武蔵野の地形を徹底的に調査した。ところが最初の水路は、測量ミスから途中で挫折。コースを変えて作業を再開すると、今度は流水をすべて吸い込む「水喰土(みずくらいど)」なる土壌に出くわしてしまった。たび重なる失敗に一時は計画中止も検討されたが、老中松平伊豆守信綱の肝いりで辛くも工事を再開。再度の綿密な調査の結果羽村から始めるコースが最適なことが判明した。おかげで工事も順調だったが、今度は肝心な資金の方が底をついてしまった。追い詰められた兄弟は、ついには先祖伝来の土地まで売り払い、資金を調達。見事、羽村の堰から四谷大木戸に至る全長43kmの上水道を完成させた。
 着工からわずか1年強の突貫工事。その規模は当時の水道としては世界一のもので、幕末から明治にかけて日本を訪れた外国人達を驚嘆させたと伝えられる。幕府は「玉川」の姓と帯刀を賜り兄弟の業績に厚く報いたという。

2.境界としての多摩川

 奈良から平安時代にかけて、多摩川中流域の丘陵・台地は、南北両岸にわたる共通の文化圏を構成していた。このことは、武蔵・相模の国境が、多摩川よりはるかに南に設定されていたことにも窺える。北岸には国庁(府中市)が、南岸には落川遺跡(日野市)等に代表される大規模集落群が位置し、流域の生産力が集積されていたのである。
 この多摩川が軍事上の境界としてクローズアップされるのは、鎌倉時代から。鎌倉に幕府を置いた源頼朝は、多摩川を鎌倉の防衛ラインと目し、南岸の守りを固めたのである。頼朝の読みは正しく、事実、後の分倍河原の合戦で潮田勢にこのラインを突破されたわずか5日後、鎌倉は炎上している。
 さて、時代は下って徳川氏の世になると、多摩川にも橋が架けられた。隅田川の千住大橋、両国橋と並んで江戸の三大橋と称された六郷大橋である。創架は慶長5年(1600)。多摩川の下流、東海道の渡河点(大田区東六郷)に位置し、全長は109間(約200m)に及んだという。この大橋は元禄元年(1688)に流失、以後再架されることはなく、多摩川の横断は上流地域を除いて渡船が主流となった。幕府のこの処置は従来江戸防衛の観点から説明されていたが、既にこの当時、多摩川の軍事的意義は低下していたと考えられる。その意義が再びクローズアップされるのは、一揆・打ちこわしを渡船場で阻止した幕末期であった。むしろ多摩川は、江戸市民の行動圏の拡大につれて、東の隅田川同様、江戸の境界(品川宿の南)に位置する遊興空間としての役割を果たすようになる。
 多摩川流域には、御嶽神社(青梅市)、高幡不動(日野市)、大国魂神社(府中市)、川崎大師(川崎市)等古社名刹が多く、参詣に訪れる人々にとって、多摩川治いの開放的な水辺の空間は、格好の行楽地となった。

3.国分寺崖線と「はけ」

 「土地の人はなぜそこが『はけ』と呼ばれるかを知らない」の一節で始まる大岡昇平の悲恋小説『武蔵野夫人』。その舞台となった小金井の界隈には、地理学上、国分寺崖線(がいせん)と呼ばれる崖地がある。この崖は、古多摩川が武蔵野台地を削ってできたもので、立川の北東から二子玉川まで連なり、崖下の河岸段丘(立川段丘)との高低差は十数mに及ぶという。特に小金井付近の崖下あたりは昔から水量の豊かな泉が多く点在することで有名であった。
 「はけ」とは武蔵野地方の方言で、こうした湧水のある崖地の周辺をさす言葉であるという(泉の湧く切り込んだ窪地との説もある)。戦前は「見晴らす多摩の流域と相模野の向こうに、岬のように突き出した丹沢山塊の上に」遠く富士山をも眺めたと大岡昇平が記したこの界隈には、現在もケヤキや樫などの巨木が残され、かつての武蔵野の面影を忍ばせている。また「はけ」の湧水は崖沿いに流れる野川にそそいでいるが、この野川は古多摩川が南に進路を変え現在の位置に至った際の名残川であるという。

4.小金井の桜

 小金井橋を中心に玉川上水の南北両岸を彩る桜並木は、江戸以来の桜の名所。上野に始まり、向島、御殿山、飛鳥山と花見名所の多い江戸の中でも、小金井堤は見回り役人の目が厳しい市中に比べて圧倒的に自由。鳴り物入りのドンチヤン騒ぎもOKだったようだ。小金井橋のやや上流に残る「小金井桜樹碑」によると、元文2年(1737)、当時、武蔵野新田開発に功あった川崎平右衝門定孝が、幕命により吉野をはじめ諸国の桜を取り集めて植えたのが始まりという。上水建設から十数年後の事である。また桜を植えた理由に、桜の根が地中深く張って土手の決壊を防ぐこと、桜の葉や花房が上水道に落ちて解毒の効果を発揮することなどによる、と述べている。
 しかし、大正13年(1924)には国の「名勝」指定まで受けたこの桜並木も環境悪化と老木化には太刀打ちできず、往時の面影は薄れるばかり。このため都では隣接する小金井公園に計画的な植樹を施し、桜並木の伝統を受け継ぐ新たな名所に育てあげている。

5.幕末の大侠客、小金井小次郎

 清水の次郎長からも「兄貴、兄貴」と持ち上げられたという幕末の侠客、小金井小次郎は、文政元年(1818)小金井村の生まれ。天保11年(1840)、玉川上水二塚明神前での大喧嘩でその名を売り出し、関東一円に3,000人もの子分を誇る大勢カとなった。安政4年(1857)、八王子の相撲興業にからんだ咎を問われて三宅島に流刑となった時には、見送り船が48艘も居並ぶ大物ぶりを示したという。流刑先でも持ち前の“男だて”を発揮して、飲料水の乏しいこの島のために、池をつくったり、泉から水を引いたりと大活躍。罪人だったはずの彼は、島民たちからたちまち救世主のように奉られたという。
 かくしで流刑11年目の慶応3年(1867)。兄弟分からの手紙で幕府転覆の危機を知った彼は、すぐさま官軍討伐を決意。島民2,500名を擁しての“島破り本土侵攻作戦”をぶちあげた。この知らせに大慌てしたのは幕府の方。いかに兵力不足とはいえ戦に罪人まで動員したとあっては徳川の名折れだ。なんとかこの計画を潰せないかととられた苦肉の策が、首謀者小次郎の「赦免」であった。翌年の明治元年(1868)に故郷の小金井村へ錦を飾った小次郎は、以後、地元の顔役として諸方面に尽力した。明治14年没。墓には山岡鉄舟の筆による追悼碑が建つ。
参考:朝日新聞社編『武蔵野むかしむかし』

 

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