沿道のコラム

(1)成蹊けやき並木散歩(井の頭公園−三鷹駅4.6Km)

 ケヤキは武蔵野のシンボル。かつて昼なお暗いと称された五日市街道のケヤキ並木は、防風林の役目も果たしていた。

    1. 武蔵野の紫染
    2. 野口雨情

1.井の頭池と神田上水

 江戸は飲み水に不便な土地柄であった。天正18年(1590)7月、徳川家康は江戸入りに先だって、家臣大久保藤五郎忠行に水源確保の実地調査を命じた。忠行が白羽の矢を立てたのは、武蔵野の名もない湧き水池。家康本人も数回この池に立ち寄ったといわれ、泉水を飲むのに用いた茶臼が現在も中ノ島の弁財天神社に宝物として保存されている。
 江戸市中に水を引き込むべく、水路の開削工事はただちに開始された。同年10月には善福寺の池水や妙正寺川などを合流して、目白台下関口の大洗(現在の大滝橋)を経て小石川辺りまで完成させたというから大変なスピードである。忠行はこの功によって「主水」の名を与えられたわけだが、こうした経緯には異説もあり、慶長年間(1596〜1615)に内田六郎なる人物が開削したという説、寛永年間(1624〜43)、三代将軍家光の命による説など、史家の間でも定まっていない。
 いずれにせよ、水路はその後も延長され、小日向台下を通って水戸家上屋敷(現在の後楽園)内を抜け、水道橋で神田川を懸樋で越えて城内や町方に給水された。これが江戸最初の上水道、神田上水である。家光は鷹狩りの際にこの水源を訪れ、泉水の第一等の池という意味で「井之頭」池と命名した。池を見おろす雑木林は、家光がこの鷹狩りで仮御殿を設けたところから御殿山と呼ばれ、池の水源を養うための幕府の御用林であった。安藤広重画「名所江戸百景の内井の頭池弁天の社」にも、「池中に清泉湧出する所七ヶ所ありて旱魃にも涸る事なし。故に世に七井の池と称ふ」とある。

2.吉祥寺新田の開発

 吉祥寺駅付近はかつて吉祥寺村と呼ばれていた。吉祥寺なる寺院もないのに何故こんな名前がついたのか?その背景には新田開発の歴史がある。
 江戸市中の大半を焼き払った明暦3年(1657)の大火の頃、江戸の人口は増加の一途にあった。当然、野菜等の食料も不足してくる。幕府は防火対策として市街の改造に踏み切り、大寺院や武家屋敷を移転させる一方で、人口問題と食料難を一挙に解決すべく、万治2年(1659)、江戸市民の郊外地への入植政策に着手した。代替地とともに向こう5年間は扶持米(ふちまい=給与に替わる米)を与え、造宅費用も貸し付けるから、希望者は申し出よというのである。この時、やはり大火で本郷元町から駒込に移転していた吉祥寺門前の浪人たちが中心となって新田開発の名乗りを上げた。かくして彼らは五日市街道沿いに短冊型の整然とした地割で土地をもらい、これが吉祥寺村の起こりとなったといわれる。
 しかし、新田開発といえば聞こえはいいが、そもそも正保元年(1644)の調査によれば、現在の武蔵野市周辺には一軒の家もなかった。もちろん古代・中世の遺跡もあり、街道も通じてはいたが樹木も生えない見渡す限りの原野であったことは間違いない。おかげで風が強く、草刈に行くにも杭を打って籠を結わえておかないとたちまち吹き飛ばされてしまう。強風の日にはそもそも立っていられない。開発も初期の頃の住居は、穴を掘って建てられた。おまけに3〜4月の頃は天も地も関東ローム層の赤い砂に覆われる「赤っ風」が吹き荒れる。幕府が好条件をつけたのももっともで、開発は容易ではなかったという。
 “四軒寺”の一つ安養寺門前には寛文5年(1665)の庚申塔が建てられており、入植より数年を経て、この頃からやっと村人の生活にも余裕が生じてきたことをうかがわせる。庚申塔には開発に当たったと思われる浪人たちの名が記されている。

3.武蔵野の紫染

 夏になると白い花を咲かせる紫草は、その根が紫色をしていることからムラサキと呼ばれ、万葉集の時代から紫染の原料として用いられてきた。
 紫染の製法が大陸文化の伝来とともに中国よりもたらされると、紫草は各地で盛んに栽培され、奈良時代には豊後国で紫草園の経営も始まった。奈良・平安期を通して紫は重要な日本の伝統色となり、単に「いろ」といえば紫を指すほどであった。
 また紫草の根は紙や布に色を移すことから、紫は男女の恋心を移す「ゆかりの色」として親しまれた。「紫のひともとゆえに むさし野の草はみながらあはれとぞみる」(よみ人しらず/古今和歌集)は、一本の紫草を見つけたために、武蔵野に生える草全部が愛する人につながるという恋の歌である。しかし、恋の色、高貴な色と愛好された古代の紫も、「侘」「寂」の彩りが主流となる中世には、注目されなくなっていった。
 紫が再び脚光を浴びるのは、江戸時代。「古代紫」または「京紫」の名で呼ばれる古代染の紫にかわって、えび染という新しい手法による紫染が生まれ、それは「京紫」に対抗して「江戸紫」と名づけられた。この江戸紫は18世紀中ごろから江戸の名産として流行し、それとともに武蔵野の紫染も隆盛を極めた。特に井の頭の池の水で染めた紫染は何度洗っても色落ちしないと重宝されたという。井の頭池の弁財天のそばには、江戸の紫染織人や商人たち91人が連名で寄進した一対の「紫灯籠」が今もたたずんでいる。

4.野口雨情

 「十五夜お月さん」「赤い靴」「青い目の人形」等々と野口雨情の作詞になる名曲は数知れない。「からすなぜなくの」「シャボン玉飛んだ」「あの町この町日が暮れる」「黄金虫は金持ちだ」と雨情の歌詞はいずれも平明でなじみ易く、今日にいたるまで広く親しまれている。
 「枯すすき」(船頭小唄)の大ヒットは大正11年(1922)。今ではあまり見かけない光景だが、当時の人々は道を歩きながらよく歌った。「おれは河原の…」と歌いながらやって来た酔漢に雨情本人がどやしつけられたこともあった。その翌年が関東大震災。あんな退廃的な歌が流行るから天罰が下ったとの流言が飛び交い、雨情は大いに困惑したというが、人々は復興のさなかも愛唱し続けた。
 長い放浪の半生を送った雨情が吉祥寺に居を構えたのは大正13年。現在の吉祥寺北町一丁目25番である。庭には好みの草木を植え、あけびの棚を作って故郷茨城の山野を偲んだ。雨情は酒好きで、興がのると腰に手を当て「ソソラソラソラ兎のダンス」と踊りだす。かと思えば、独特の節回しで自作の詩を歌い悦に入る。まことに天衣無縫の人柄であった。声は森繁久弥にそっくりだったという。「雨降りお月さん」「俵はごろごろ」「証城寺の狸囃子」等の名作はこの地で書かれた。
 昭和19年、雨情は療養のため宇都宮に転居し、翌年没した。書斎の「童心居」は現在、井の頭自然文化園内に移築され、句会や読書会に利用されている。また雨情が愛した井の頭池畔に立つ雨情碑には、雨情作詞「井の頭音頭」の一節が刻まれている。
参考:金の星社刊「みんなで書いた野口雨情伝」他

 

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