沿道のコラム

(2)三鷹連雀散歩(三鷹駅−野崎八幡前3.2Km)

 三鷹駅の開業は昭和5年。この新開地には、多くの文学者たちが移り住み、美しい自然や素朴な街並を描写した。

    1. 三鷹の文学者たち
    2. 太宰治
    3. 江戸の色

1.連雀の由来

 三鷹通りを挟んで西が上連雀、東が下連雀。同じ連雀だが成立の経緯は異なっている。
 連雀のそもそもの由来は神田連雀町。吉祥寺村同様、話は明暦3年(1657)の大火にさかのぼる。現在の神田須田町、淡路町の辺りがかつての連雀町。行商人たちの多く住む町であったというが、彼らは大火で焼け出されたうえに、新たな都市計画に基づく強制移転で住居も召し上げられてしまった。代わりに与えられたのが現在の下連雀の地。開発初期の頃は連雀新田と呼ばれた。
 ちなみに連雀とは行商人が荷を背負う際に用いる背負い紐(ひも)のことといわれるが、また荷を背負ったその姿が鳥の連雀(つぐみに似た小鳥)に似ているところから、彼らを連雀行商人と呼んだとの説もあり、はっきりしない。
 とにかく農作業に不慣れな商人たちがにわかに武蔵野の原野に土地を得てしまったのである。「武蔵野や行けども秋の果ぞなき いかなる風の末の吹くらん」とは当時の歌。連雀新田の名主を代々勤めた松井家の文書には、万治2年(1659)、作づけの失敗が多く食べてゆけないので幕府に借金を申し入れたこと、その後5年間で苦労して返済したことなどが記されている。
 一方の上連雀は、関村(現在の練馬区関町北)の名主井口家によって開発された。初め連雀前新田と呼ばれたことから分かるように、開発は連雀新田よりやや遅かったようだ。やがてこの両新田は上・下の区別で呼ばれるようになった。井口家一族は連雀通り沿いに多く住んだといわれるが、現在もこの通り沿いには旧家が残っている。井口家は村の繁栄に意欲的に取り組み、村人に石高の増大を奨励したという。そのため上連雀の村人の間では、上連雀では月に35日働かねばならない、下連雀では30日、だが境(現在の武蔵境駅付近)なら25日で生活が成り立つ、だから嫁をやるなら境がいい、などともいわれていたという。
 上・下連雀村は近隣8ヵ村とともに明治22年(1889)に合併され三鷹村となった。なお、三鷹の名の由来は、「三」については諸説あるが、この付近一帯がお鷹場であったからという点では一致している。三鷹は将軍家と尾張家のお鷹場の境界に当たり、その境を示すお鷹場の碑が現在も残っている。

2.お鷹場

 お鷹場とは鷹狩を行う場所のこと。飼い慣らした鷹を握り拳に止まらせ、乗馬で山野を駆け巡り、鷹を飛ばして野鳥や兎を捕獲する…、鷹狩は武道の鍛錬とレクリエーションを兼ねた一種のスポーツであった。家康の頃は特にお鷹場を指定することはなかったが、三代将軍家光の頃から江戸から5里(20km)以内の村々は将軍の、5里から10里の村々は御三家の鷹場と指定されるようになった。指定された村人たちはたまらない。鉄砲は撃つな、鳥は捕まえるな、お鷹様が驚くからカカシは外せ、猫や犬は結わえとけ、家の新築は騒音がするからいかん等々とうるさいうえに鷹狩一行の接待から餌の調達までしなければならなかった。
 江戸時代の間、鷹狩が行われなかったのは、生類憐れみの令の29年間だけ。享保元年(1716)吉宗が八代将軍になるとたちまち解禁された。鷹狩りには領内の民情視察という政治的な意味もあったからである。お鷹場の管理に当たる鳥見役は一種のスパイの役も兼ね、武家屋敷でも寺社領でも自由に出入りできる特権を持っていた。
参考:埼玉新聞社刊「御鷹場」他

3.三鷹の文学者たち

 「私がミタカ村に越したのは、二・二六事件の直後であった。その翌年に日支事変がおこり、その三年後にミタカは町になった」(山本有三『ミタカの思い出』)。有三が下連雀の森の中の洋館に転居したのは昭和11年。翌年には白樺派の巨匠武者小路実篤が牟礼に越して来る。大正12年の関東大震災以降、東京郊外の中央線沿線は次第に発展しつつあった。そんな風潮の中で、三鷹の地には文学者が多く移り住んだのである。
 昭和14年には太宰治が、昭和16年には詩人の吉田一穂が、さらに翌年には一穂の弟子であり、また太宰の親友であった今宮一が越して来る。また、すでに昭和3年には「赤とんぼ」で知られる詩人の三木露風が北海道から牟礼に移住していた。この頃はまだ三鷹駅も開かれず、辺りは桑畑や雑木林の点在するのどかな農村であった。露風は自宅を「遠霞荘」と名づけ、昭和39年に不慮の事故死を遂げるまで、周囲の自然をこよなく愛し、飽かず散策しては詩作に没頭していたという。
 さて戦時下の昭和17年、出版物の欠乏を憂えた有三は、自宅の洋間を閲覧室として子供たちに蔵書を開放した。これがミタカ少国民文庫である。有三は自ら読書指導にもあたったというが、戦況の緊迫から昭和19年、ついにその門を閉じた。敗戦後の昭和21年、有三の家は洋館であったばっかりに占領軍に接収された。「もし、家を接収されなかったら、私も市民として、ミタカにとどまっていたことであろう。ミタカに住んでいたのは、11年ほどだが、ミタカは私にとって忘れがたい土地である」。
 昭和26年には瀬戸内寂聴がこの地に転居した。太宰の入水自殺、三鷹事件等と事件が相次いだのはその前年。三鷹が町から市になったのも同じ昭和25年である。彼女の下宿先は下連雀四丁目の下田商店。三谷晴美の筆名で少女小説を書いては編集部を訪ね歩く日々だった。「縁側の前の庭をこえて白っぽい街道が見える。街道には何百年も昔から、そこにそうしてあったらしい欅の大木が並木になってどこまでもつづき、武蔵野の大空を支えている」(自伝『いずこより』)。下田商店が面していた小金井街道(現在の連雀通り)には、当時まだ往時の江戸往還の面影が残っていた。

4.太宰治

 新婚間もない太宰治が下連雀に家を借りたのは、彼が30歳の時だった。住所は現在の下連雀二丁目14番9号。太宰が流行作家となるのは戦後のことだから、この時分の暮し向きは、故郷津軽からの仕送りがあったとはいえ、いたって簡素だった。新開地三鷹はまだ家賃も安かったのである。もっとも井戸は隣と共同で一日に何回も水を運ばねばならず、ガスもないから来客のたびに火を起こす。安い家賃のしわ寄せは新妻の美知子の方に回ってきた。太宰は家事には一切手を出さず、ひたすら小説の構想を練っていたという。
 この家から数分のところに玉川上水が流れていた。太宰の作品には風景描写が少ないが、『乞食学生』(昭和15年)では珍しく玉川の情景が描写されている。「玉川上水は深くゆるゆると流れて、両岸の桜は、もう葉桜になって真青に茂り合い、青い枝葉が両側から覆いかぶさり、青葉のトンネルのようである。(略)この辺で、むかし松本訓導という優しい先生が、教え子を救おうとして、かえって自分が溺死なされた。川幅は、こんなに狭いが、ひどく深く、流れの力も強いという話である。この土地の人は、この川を人喰い川と呼んで、恐怖している」。
 太宰が玉川で入水自殺を遂げたのは昭和23年。すでにその前年、『斜陽』を完成させた頃から被害妄想が昂じてむやみに人を恐れたり、行方をくらましたりするようになっていたという。遺体は奇しくも太宰の満39歳の誕生日(6月19日)に発見された。美知子は森鴎外を敬愛し続けた太宰の気持をくんで、禅林寺の鴎外の墓の傍らに彼を葬った。毎年、太宰の誕生日には「桜桃忌」が催され、多くのファンが禅林寺を訪れる。
参考:津島美知子『回想の太宰冶』

5.江戸の色

「四十八茶百鼠」
 初めて流行色が生まれるのは、江戸時代中期のこと。明暦3年(1657)の大火をきっかけに、富裕な町人階級が台頭してくると、彼らは率先して自分の好みの色を求めるようになった。この時代に流行したのは、おもに茶・鼠系統の地味な色調のもの。桃山時代の絢爛豪華な色彩の影響を残した江戸初期とはうってかわり、江戸中期以降は俗に「四十八茶百鼠」といわれる多数の渋味の色が時代を彩る。当時の江戸っ子たちにとってこれらの色を「いき」に着こなすのが当世風であった。
 茶・鼠系統色の流行の影には、幕府による奢侈(しゃし)禁令がある。元禄時代(1680〜1709)は江戸時代を通じて庶民の服装が最も華美になった時代で、富豪の妻たちは贅をつくした衣装ではなやかさを競い合っていたが、このような風習を戒めるため、幕府はしばしば「奢侈禁令」を出し、ぜいたくで派手な装いを禁止していた。そのため町人たちは、禁制に触れない、安価で地味な色調である茶や鼠色を使って何とか好みの色を表現しようとした。その結果、〜茶、〜鼠と名のつく色が急増する。厳しい制約の中で、自分たちの個性を精一杯表現しようという試みが、流行色を生み出す原動力にもつながっていったのである。

奢侈禁令の裏をかくイミテーション色
 奢侈に対する締めつけの最も厳しかった綱吉の時代(1680〜1709)には、武家に対し15回、庶民に村し44回もの奢侈禁令が発せられた。しかしぜいたくな装いへの欲求を抑えることのできない庶民たちは、禁制の裏をかくさまざまな逃げ道を考えた。例えば、高価な染物であった紫と紅梅の着用が禁じられると、その対抗策として出回ったのが、安価な紛い(まがい)染めによるイミテーションもの。紅花のかわりに安価な茜草(あかね)を用いた代用紅と、本染めの紫根のかわりに蘇芳(すおう)を用いた似紫(にせむらさき)がそれである。これは禁制外の色であったため、中には本染の紫や紅梅をニセモノと称して公然と着ている者もいたという。「紫をどの目で見るかやかましい」という川柳には、このあたりの事情が皮肉っぼく歌われている。
 また、衣服の表は質素を装って、裏地に派手な色や柄のものを着るなど、庶民たちはまさにあの手この手を駆使してお洒落を楽しんでいたようだ。

女性たちの人気をさらった「役者色」
 江戸中期から後期にかけての流行色の一つに、人気歌舞伎俳優から出た「役者色」がある。当時、江戸の町では歌舞伎の役者絵が売り出され、ひいき客たちは競ってこれを買い求めた。絵には舞台で着た衣装が描かれており、その色や模様が一般の女性たちの間でも模倣され流行した。明和年間(1764〜72)の頃、とりわけその美貌で江戸中の女性たちの人気をさらった歌舞伎女形、二世瀬川路考(ろこう)から出た「路考茶」という役者色は、天保年間(1830〜44)まで約70年間も流行し続けたというから、かなり息の長い流行現象である。以来、「路考」は美人の代名詞となり、その町の美人を「〜町路考」と呼ぶようになった。鈴木春信の浮世絵にも路考茶の着物を粋に着こなした美人が多く描かれている。
 路考茶ほどの大流行とはならなかったが、安永・天明(1772〜89)の頃活躍した初代尾上梅幸の「梅幸茶」は、天保の頃まで歌舞伎通の間で流行した。彼の持ち味は主に演技力にあり、一般の女性たちの人気はいまひとつだったようだ。その他人気の高かった役者色には、升花色、璃寛茶、芝翫茶、岩井納戸茶、高麗納戸茶などがあるが、当時の流行色を反映してか「茶」系のものが圧倒的に多い。

 

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