沿道のコラム

(1)浅草寺町散歩(東上野五丁目−仲見世1.9Km)

 浅草寺町はまた、仏壇と厨房用具なら何でも揃う町。本願寺そばの巨大なコック像は、合羽橋道具街のシンボルである。

    1. 東洋唯一の地下鉄道

1.浅草新寺町
   
 江戸時代の台東区は寛永寺や浅草寺をはじめ寺院が多かった。また、寺院が密集した寺町も数ヶ所あった。上野山、谷中、浅草寺周辺、今戸・山谷付近、そして新寺町がそれである。
 新寺町とは、現在の浅草通り沿いの土地を呼んだ江戸時代の俗称で、浅草通りは新寺通りと呼ばれていた。そう呼ばれたのは、明暦の大火(1657)の後、神田方面からこの地に多くの寺院が移ってきて、新たな寺町を形成したためといわれる。
 もっともそれ以前からこの付近には寺院が多く、寺町を形成する下地はできていた。江戸市街が発展し、幕府は市街経営の一環として寺院を江戸中心部から周辺部へ、すなわち日本橋・銀座・新橋方面から外堀と神田川の外側へと移転する政策をとっていたからである。
 大火後にこの地に移転してきた寺院の代表として、東京本願寺をあげることができる。浅草本願寺・東本願寺・浅草門跡・東門跡などの俗称があり、仏具店が立ち並ぶ寿町一帯は、本願寺の門前町として発展した町。他に海禅寺、源空寺、報恩寺、幡随院なども大火後に移ってきた寺院である(幡随院は昭和14年、小金井市に移転)。

2.合羽橋道具街
 
 下町には、職人が多い。また職人たちは、材料等の条件から同業者が一定の区域内に集まる場合も多い。合羽橋道具街は、そういった町が卸売をメインにしながら小売の商店街としても発展した例のひとつである。言問通りから浅草通りに至る約800mの通りの両側ことごとく、飲食店用の道具を扱うお店が立ち並ぶ。調理道具や食器などから流し台、テーブル、看板・暖簾、パッケージ、氷削機からタコ焼器等まであらゆるものが揃っている。お店の人はプロ中のプロ、とことん客の要求に対応する製品を出してくれる。
 ショーケースに陳列する料理のサンプルは「プラスティック・フーズ」と呼ばれ、外国人観光客に人気があるという。
 浅草通りとの角にある洋食器店のビル屋上には、この通りを象徴するように巨大なコックの顔が町中にそびえ、テーマパークに慣れた目にもアピールしてくる。

3.幡随院長兵衛

 江戸時代初期の有名な侠客。本名を塚本伊太郎といい、殺人罪で死刑となるところを当時下谷池之端にあった幡随院の住職向導に助けられ、浅草花川戸で奉公人の周旋を業としていた(幡随院はその後、万治2年(1659)浅草神書町に移った)。
 正保・慶安の頃、旗本の不平分子で徒党を組んで江戸市中を徘徊する旗本奴と呼ばれる者たちが現れた。彼らの狼藉から町人たちを守るために立ちあがったのが男達(おとこだて)の町奴、幡随院長兵衛である。長兵衛は、旗本奴「神祇組」の首領水野十郎左衛門と対立し、最後には水野の邸の風呂場でだまし討ちにあった。源空寺にある長兵衛の墓は、舟形で延命地蔵を舟形にした風変わりなものである。
 ところで、長兵衛を謀殺した水野は、長兵衛の仲間唐犬(とうけん)権兵衛らの仕返しにあい、泣いて命乞いをして命だけは助けられたものの、散々な目にあわされたという。

4.東洋唯一の地下鉄道

 日本初、であると同時に東洋初でもある地下鉄は、昭和2年(1927)12月30日開通の「東京地下鉄道」上野・浅草間2.2kmで、浅草・田原町・稲荷町・上野の4駅が開業した。当時のポスターや絵ハガキは「東洋唯一の地下鉄道」と書きたてた。世界で最初のロンドンに遅れること64年である。
 東京地下鉄道はその後、昭和6年には神田、同9年には銀座を経て新橋まで開通した。開業当初は午前中だけで2万人の人出があり、長い行列ができたという。
 改札口は切符のいらない自動改札で、運賃10銭の白銅貨を穴に投入すると、自動的にドアが回転して、プラットホームに入れるというものであった。
 また、東京地下鉄道は浅草の興行街と提携して優待乗車券付の興行観覧券を発売するなどして乗客の人気を高めた。
 東京地下鉄道株式会社を創立して地下鉄の創業・発展に力を尽くしたのは「地下鉄の父」と呼ばれる早川徳次である。地盤の軟弱な東京に地下鉄は無理、といわれながら「必要なことは必ず実現する。必要は不可能のことすら可能に変えてゆくと信じていた」という不屈の鉄道マンであった。その情熱と心意気は、“地下鉄魂”として今も地下鉄職員たちに受け継がれているという。

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