沿道のコラム

(1)お江戸日本橋散歩(大手町−鎧橋1.8Km)

 日本橋は江戸のシンボル。橋上からは江戸城と富士山が望め、ここが日本の中心であることを実感できたという。

    1. 渋沢栄一が夢みた兜町ビジネス街

1.日本橋界隈

  かつての日本橋は、いわゆる太鼓橋。そのそりかえったスタイルは、水上を運行する船の便宜をはかったもので、水運の重要性を物語っている。橋下を流れる日本橋川の正式な命名は明治16年(1883)。道三堀と連なって、江戸大手口と隅田川をほぼ一直線につなぐ川筋は、荷船、客船の上下が引きもきらず、河岸に並ぶ魚河岸は日に千両が落ちる所と称された。日本橋の大きさは、慶長見聞集に「大河なればとて川中へ両方より石垣をつき出してかけ給う。敷板のうえ三十七間四尺五寸、広さ四間二尺五寸なり」とあり、現在の橋よりも十間四尺五寸長い(一間は六尺、約1.8メートル)。大正8年頃、白木屋百貨店(東急百貨店跡、現再開発中)の基礎工事の際に石垣が発掘され、当時の川幅の広さが話題を呼んだ。
 日本橋は水運の要であるとともに五街道の起点。いやでも人と物とが集まるこの江戸の中心地は、江戸商業のメッカであった。現在の中央通りをはさんで両側には大店・老舗が北は八丁堀を越えて神田鍛冶町、南は京橋から銀座方面まで続いていたという。なかでも多かったのは江戸店と呼ばれる西国商人たちの出張店。江戸店の店員はすべて本店から送られてきた江戸派遣員で、けっして江戸言葉を話さなかった。これは、上方からの下り商品が江戸では上等とされていたため。「下らん」の語源もここにあるといわれる。関西弁がそのまま商品の品質を保証したのである。

2.日本橋を美しく見るためには

 幕末に撮影された日本橋には、魚河岸に魚を運んできた漁船の往来が見える。橋向こうには高札場。向かいの東側には晒し場が置かれ、橋南詰は幕府と市民の意志伝達の場所であった。高札場には幕府の触れ、町民への訓示などが貼り出されたが、時には幕政を批判する狂歌が庶民によって貼りつけられることもあったという。
 現在の日本橋は明治44年に竣工した。その設計者妻木頼黄は、工部大学造家学料(現東大建築学科)在学中フラリと渡米してしまった変わり種。橋の水面側にまで高価な花崗岩用いた設計は当時異端扱いを受けた。どうやら妻木は、水面の視点からこの橋をデザインしたらしい。設計に際して彼は大きな図を書いては物干竿にかけて眺め推敲添削を繰返したといわれる。

3.資本主義経済の拠点

 維新後、日本橋地区は近代資本主義経済の拠点となった。明治12年(1879)までに13の国立銀行があいついで設立される一方、兜町の河岸には、渋沢邸、東京海上などモダンな建築物が立ち並んだ。また駿河町(現室町)には三井銀行、小舟町には安田銀行(現UFJ銀行)の二大私立バンクが開業する。日本銀行が北新堀町から現在地に移転してくるのは明治25年のこと。
 江戸以来の大店も明治2〜30年代には、専門店から百貨店の形態をとりはじめる。明治41年には三越呉服店が、三階建てのルネッサンス様式の新館を落成。以後他のデパートもこれに続いて建物を近代化していった。

4.渋沢栄一が夢みた兜町ビジネス街 

 兜町の名が起こされるのは明治4年(1871)。新政府は三井家のすすめに従い、この地を新しい経済行政の拠点に選んだ。明治6年、独占を狙う三井を斥け、株式公募により第一国立銀行(現みずほ銀行)を創業したのは、時の大蔵大丞渋沢栄一。彼は官を辞し、33歳の若さで自ら初代頭取に納まった。渋沢の理想は、株の自由な売買を前提とする合本主義。 その旗印のもと、兜町には東京株式取引所をはじめ幾多の企業、経済機構が集まり、日本最初のビジネス街が誕生した。
 兜町に地の利を約束したのは、旧大名家の敷地と水運の便。水運論者であった渋沢が夢見たものは、自由貿易都市ヴェニスの再現であったといわれる。彼はさらに、田口卯吉の提唱する東京築港論を支持、兜町を横断する港湾道路の計画に着手した。しかし東京築港計画は、横浜港の猛反対により挫折する(姿を変えて実現を見るのは昭和16年)。水運の便もまた、明治20年代を境に陸路に座をあけ渡してしまった。新たに注目を集めたのは、広大な陸軍用地、丸ノ内である。政府の一括払い下げに対し、渋沢ら7名の実業家が名のりをあげた。だが全地買い占めを強行した三菱の前に、渋沢は敗北を喫する。自由貿易都市の夢は、こうしてアメリカ式の巨大オフィスビル街にとってかわられていった。
 

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