沿道のコラム

(2)柴又コース近隣散歩

 コース終点の矢切りの渡しから、北へ足をのばして、祭ばやしで知られる葛西神社、水郷の里、水元公園などを訪ねる。

    1. 江戸の下肥と葛西船
    2. 映画に描かれた「下町」

1.祭りばやしの発祥地

 葛西ばやしは祭りばやしの元祖で、葛飾方面の農村に伝わる郷土芸能。戦前までは単に「おはやし」、あるいは「和歌ばやし」「馬鹿ばやし」と呼ばれていた。普通は大太鼓1、しめ太鼓2、笛1、鉦1の五人組で演奏するが、予備の手替りを三人加えて八人組となる場合もある。葛西神社の境内には、この葛西ばやし発祥の碑がある。言い伝えによると、葛西ばやしが生まれたのは享保12年(1727)。葛西神社の神主能勢環(のせたまき)が敬神の和歌に合わせて音律を工夫創作し、和歌ばやしと名づけて村の若者たちに教えたのが始まりだという。
 葛西ばやしは、金町村の農民たちが近郷の祭礼に出かけて演奏するうちに、天下泰平、国家安全、五穀豊穣の奉納ばやしとして、江戸市中で流行するようになった。宝暦3年(1753)、関東代官伊奈半十郎は各地で今でいう「おはやしコンクール」を開催し、優勝チームには、神田明神の上覧祭で将軍を前に演奏する機会を与えた。これは若者の善導と一家の和合を目的に開かれたもので、庶民はおはやしの練習に熱中し、一時期は遊郭に足を向ける者も減るほどだったという。
 現在、葛西ばやしは、毎年9月中句の例祭、10月1日の都民の日に近い日曜日、11月の酉の市のときに葛西神社の神楽殿で演奏されている。
住所:葛飾区東金町6-10-5

2.常磐線開通

 常磐線(旧日本鉄道)は、日本鉄道株式会社により、常盤炭田の石炭を太平洋岸沿いに東京へ輸送するために計画され、明治29年(1896)にまず田端〜土浦(茨城県)間が開通された。
 その後、日本鉄道は新宿(にいじゅく)に駅を設置する計画であったが、地元の住民からの強い反対を受けた。反村の理由は二つ。一つは、汽車の吐きだす煙と火の粉が火事や稲を枯らす原因になるということ。もう一つは、駅ができると、通行料を徴収していた中川橋の利用者が減り、町の財政に響くということだった。そこで、明治30年(1897)9月に、新宿ではなく、亀有に駅が開設され、亀有は町として次第に開けていった。
 同年12月には金町に駅が開設された。これにより上野〜金町間は40分で結ばれ、柴又帝釈天への参拝客も常磐線を利用するようになった。常磐線は明治39年(1906)に国有となった。昭和11年には上野〜取手間が電化され、45年には地下鉄千代田線との相互乗り入れが始まって以降、都心へ向かう通勤通学者の重要な足となっている。
 平成17年に開通の予定の常磐新線(つくばエクスプレス)は、従来の常磐線とは路線が異なる新しい鉄道路線であり、その開発手法も異なっている。これまでのような鉄道を敷いた後から沿線開発を進める方法の弊害を無くし、鉄道敷設と共に一体的に土地の区画整理事業も進められている。鉄道が開通する頃には、区画整理の方針に沿った新しい街もその姿を見せることになっている。

3.都立水元公園

 都立水元公園は、都内唯一の水郷地帯に昭和40年に開園した。釣仙境と呼ばれる遊水池を中心として、春は桜、梅雨は花菖蒲など四季折々の草花が楽しめ、面積が約75万uもある葛飾区内最大の公園。
 釣仙境の名は、昭和27年に一般公募でつけられたもので、もとは小合溜(こあいだめ)といった。小合溜は、享保14年(1729)、紀州藩の土木技術者で勘定吟味役の井沢弥惣兵衛が計画した治水事業の一つで、江戸川の増水時にここに水を導いて、江戸の町を洪水から守った。普段、ここの水は東葛西領の50余力村の水田をうるおすために使われていたという。
 小合溜周辺の水郷景観は、大正から昭和にかけて活躍した日本画家鏑木清方の作品の題材にもなった。昭和14年、「紀元2600年記念事業」の一環として、小合溜周辺の自然を活かした公園をつくる計画ができた。公園は都民の運動、休養、保健などの場、非常災害時の避難場所として計画され、小合溜が潅漑用の水源地だったことから「水元緑地」という名がつけられた。用地の買収は昭和17年から進められた。しかし、ほぼ土地の買収が終わったところで戦争が始まり、計画は一時中断。買収した田畑は都民の食糧増産農場として開放された。
 終戦後もしばらくは公園の予定地は耕作に利用されていた。公園をつくる計画が再開したのは昭和32年。1億2千万円の費用を投じた大工事を経て、昭和40年、水元緑地という名称を水元公園にあらためて開園した。
 釣仙境から引いた大小の水路が走る圏内の12カ所に植えられた104品種、約20万本の菖蒲園は、都内最大の規模で、毎年6月には堀切の菖蒲園と共に菖蒲祭りが開かれる。公園の北側にある水生植物園では、スイレン、マコモ、アシ、クワイ、トクサなど9科、22種類の水生植物を見ることができる。このほかに、ポプラ、メタセコイアなどの水辺を好む樹木が園内に植えられている。また圏内の施設としては中央広場、フィールドアスレチックス、バードサンクチュアリー、青年の家、涼亭(集会所)などがある。釣仙境は釣り場として有名で、園内には舟を貸し出す釣りの家がある。
入園時間等:終日入場可 無料
駐車場:(24時間 年中無休)
普通 2時間 400円(30分毎100円加算) 大型 2時間 1000円(30分毎500円加算) 自二 1日 200円
水元青年の家 03-3600-0245
少年キャンプ場 03-3607-8321(公園管理事務所)
水元かわせみの里 03-3627-5201

4.江戸の下肥と葛西船

 
葛西船は、江戸時代に下肥を江戸から東部の村々へ運んだ肥船のこと。農家が副業で始めたものだが、中でも葛西の農民権四郎は、江戸城本丸の汲み取りを引き受けていたことで有名だった。このため、江戸の人々は、肥船はすべて葛西から来るものと思い、肥船を葛西船と呼んだ。
 農作物の肥料に下肥を使うようになった歴史は、中世まで遡ることができる。だが、下肥が売買されるようになったのは、江戸時代に入ってからである。江戸近郊の村々は江戸へ出荷する農作物をつくるために、大量の下肥を必要としていた。そこで農民たちが目をつけたのが出荷先の江戸から出る下肥。享保(1716〜36)から幕末にかけて江戸の人口は百万人以上もあり、そこから下肥の量を推計すると、年間300万石にもなった。この膨大な量の下肥を運ぶ汲み取り業者は、江戸の衛生問題を解決する役割も担っていた。
 下肥の汲み取りは汲み取る側が謝礼を出し、武家屋敷には野菜、町家には金銭または野菜で支払われるのが普通だった。時代や地方によっても異なるが、大根なら150本、ナスなら150〜200本、金銭なら一分二朱前後が一人1年分の相場であったという。また、農村では「船一艘は一町株」といわれていた。これは、肥船を一艘持っていれば、田畑一町(約1ha)分の儲けがある、という意味。だが、農民たちにとって、下肥の値が年々あがることは深刻な問題だった。事実、寛政元年(1789)には、野菜の値にひびくとの理由から、江戸周辺の農村は町奉行所に下肥の値下げを要望している。町奉行所はこれを受けて値下げを指導したが、あまり効果はなかったという。
 ちなみに、東京の下肥運搬業は大正時代まで続けられていた。

5.映画に描かれた「下町」

江戸の下町
 東京に山の手と下町という地域区分ができたのは、江戸時代のこと。多くの武家屋敷が建ち並ぶ西の高台のことを山の手といい、町人が住む東の低地のことを下町といった。文政年間(1818〜30)に幕府が編纂した『御府内備考』によると、下町の範囲は「日本橋川筋より北の方、神田内堀に属する」町々となっている。つまり、今の日本橋、京橋、袖田のあたりである。
 江戸の下町には二つの顔があった。一つは、大店や問屋が軒を並べる表通りが代表する、江戸の経済を支える商業センターという顔。そして、もう一つは庶民の町という顔。つまり、路地裏の長屋であった。職人や奉公人など、町人の多くは、長屋に家を借りて住んでいた。部屋の間取りは今でいう1Kで、井戸と便所は共同で使っていた。人情厚く、分け隔てなく人の世話をやく下町気質は、こうした長屋での共同生活によって育まれたものであった。
 昭和10年に山中貞雄が監督した「丹下左膳余話 百万両の壷」は、長屋を舞台にしている。この映画の左膳は、矢場の女将と長屋で暮らす浪人。左膳と女将は、ある日ふとしたことから孤児を一人預かるはめになる。最初、二人はことあるごとに「子どもは嫌いだ」と言うが、少年を放っておくことができない。結局、三人で実の親子のように暮し始めるあたりに、下町の人情を見ることができる。

戦前までの下町
 明治に入ってから、下町の範囲は広がった。明治33年(1900)の『大日本地名辞書』には、「下町、都内低地の総称にして、日本橋、京橋、芝、神田、浅草、下谷の数区にわたる」とあり、浅草、下谷、芝が加わったことがわかる。さらに大正時代には、深川、本所が下町に加わる。このころより、下町の特徴がはっきりしてくる。日本橋が商人の町、神田、浅草、下谷が職人の町なら、深川、本所は工場の町であった。
 昭和8年に小津安二郎が監督した「出来ごころ」は、深川、本所あたりの煙突やタンクの並ぶ工場の町を舞台にしている。主人公の喜八はビール工場の職工で、息子と二人で長屋に暮らしている。ある夜、彼は千住の製糸工場をクビになったという春江と出会う。彼は春江を気の毒に思い、近所の定食屋に住み込みで働けるように世話をする。
 昭和8年の東京には、世界恐慌の余波で失業者があふれていた。そうした暗い時代に、小津が「出来ごころ」で描こうとしたのは、下町に残っている人情であった。
 以後、小津は長屋ものと呼ばれる映画を何本か撮るが、登場人物のモデルについて、「僕は深川で生まれて、家の近所にああいうようなモデルになるような人間を沢山知ってましてね。それがやっぱしこの戦争後ああいう種類の人間はたいへんいなくなりましたね」と語っている。彼の目には、戦後の下町はよそよそしくうつったようである。

戦後の下町
 戦後の焼け野原からの復興のなかで、下町に二つの大きな変化が起きた。一つは、日本橋、京橋、神田といった旧下町が、ビルの建ち並ぶビジネス街、ショッピング街に変貌したこと。このため、人情豊かな庶民の町という昔ながらの下町のイメージは、これらの町には合わなくなった。そしてもう一つの変化は、下町の範囲がさらに東へ広がったこと。戦前までは農村の色が濃かった葛飾区、足立区、江戸川区が新たな庶民の町となったのである。
 今も下町情緒の残る代表的な町といえば、浅草、下谷などのほかに、柴又があげられる。この柴又を全国的に一躍有名にしたのが、昭和44年にはじまった山田洋次監督の「男はつらいよ」シリーズ。柴又は戦前まで下町の範囲内にはなかったのだが、スクリーンにうつる柴又帝釈天、帝釈天の参道、庚申の縁日などは、懐かしい下町の雰囲気を感じさせる。とりわけ、始終近所の人々が出入りする「とらや」の奥の間は、ちょうどかつての長屋の井戸端と同じような役割を果たしているのである。寅さんシリーズの人気は、戦前に小津たちが撮った下町の人情喜劇の伝統を受け継いでいるところにある。

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