沿道のコラム

(1)品川宿場散歩(品川駅−浜川橋3.9Km)

 かつては海に面していた東海道。室町期以前より港町として栄えた品川には、豪商たちの庇護を受け、寺社仏閣が集まった。

1.品川宿の繁栄

 品川が東海道第一の宿に指定されたのは慶長6年(1601)のこと。現在の旧東海道沿いに八ツ山から大井まで伸びる細長い宿場町で、目黒川を頓に北品川宿、南品川宿の2つに分かれていた。 だが、宿場町になったからといって、ただちに旅客で賑わったというわけで はない。上るにせよ下るにせよ品川宿は江戸に近すぎ、宿泊者も少なかった。おまけに伝馬の負担という重い義務がある。
 伝馬というのは、軍用荷物を運搬するために街道沿いの宿から徴収された幕府の公用馬。代わりに宿では地租が免除され、旅寵経営 の特権が与えられていたが、実入りが少ない宿は品川宿に限らずこ の負担に苦しんだ。しかも寛永14年(1637)に天草の乱が起こると、幕府はにわかに軍事輸送力を強化し、伝馬の負担も一気に跳ね上が った。
 そこで何とか客をつかまねばと登場したのが、飯盛女と呼ばれる遊女たちだった。表向きは給仕係だから飯盛。幕府も建前上は厳禁 で臨んだが、伝馬制維持のためにはどうやら不可欠とあきらめて、 享保3年(1718)、東海道では旅籠一軒につき二人までとこれを許可した。やがて品川宿は江戸吉原の北国に対して南国と呼ばれるほ どの遊興地となる。品川宿の北の入口にあたる善福寺や法禅寺の界 隈にはさらに人家が集まり、享保7年にはこの新町に徒歩(かち)人足の役を負う歩行新宿なる新たな宿も設けられた。北、南とこの 新宿で品川宿は計3宿の大所帯へと発展していったのである。
 かくして江戸への近さは品川宿の利点となり、旅客のみならず、見送りに来る人、迎えに来る人と宿場は昼夜を問わず賑わいを見せ た。旅寵の数はおよそ100軒、最盛期には180軒を数えたという。西に富士山、南東には房総や大島を望むといった具合いに風光にも恵まれ、御殿山の桜、品川浦(袖ヶ浦)の汐干狩り、海晏寺の紅葉狩りと、品川宿は江戸市民が気軽に足を伸ばす行楽地ともなったのである。

2.品川湊と海苔養殖

 中世の頃の品川は品川湊と呼ばれ、江戸湊(東京湾)の海上交通を支えた要衝だった。明徳3年(1392)の史料には、1〜8月までに品川湊に入港した船数は30隻にのぼったとある。太田道灌も江戸築城(1457年)以前、一時品川に居館を構えたという。当時の江戸湊の活況は「北は浅草観音の“巨殿・宝坊”の美は数十里の海に映えてそびえ、南は品川まで人家が続き(略)、海陸のにぎわい、舟車の合すること他州異都の比ではない」と謳われた(鈴木理生者『江戸の川・東京の川』)。船は鎌倉の六清から品川を経て房総方面を行き来していたという。なお、この頃の江戸湊は、現在の皇居外苑辺りまでが日比谷入江といわれる海だった。
 さて江戸湊の名産といえば浅草海苔。天慶年間(938〜947)の頃、 浅草観音の霊験によって海苔が生えたのが始まりとされているが、一方、海苔の養殖方法を発明し、大量生産を可能にしたのは品川の漁師だったという。江戸時代初期に生簀(いけす)の防波用に設けた木柵に海苔が生えているのを発見したことから、「ひび」と呼ばれる 木の枝を海中に差し並べ海苔を付着させるようになったとされ、この「ひび」が日比谷の地名の由来という説もある。品川は海苔の養殖地として製造元の浅草に原料を提供していたが、養殖地が大井、 大森、羽田と広がるにつれ、独自に「品川海苔」の製造も行われるようになった。もっとも江戸では浅草海苔のブランドは強く、品川産の海 苔もだいぶ浅草名で出回ったらしい。以降、江戸城への御膳海苔の献上などをきっかけに品川海苔は急速に発展し、文化10年(1813)にはその売上高が5万両に達したとしいう。「ひび」を用いた養殖方 法は、大正末期に木ひびから汀ひびに代わるが、昭和10〜20年代に海苔養殖綱が普及するまで使用され続けた。

3.改良を重ねた東海道

 慶長5年(1600)、関ケ原の合戦に勝利した徳川家康は、江戸 を中心とした諸街道の整備にとりかかった。真っ先に着手したのが 江戸と京・大阪を結ぶ幹線路、東海道である。
 東海道なる道筋はもとより古代からあったが、朝廷が重視したの は太宰府に通じる山陽道。東海道は二等国道であった。東海道の重要性が増すのは、鎌倉幕府の成立以降。幕府は静岡・神奈川県境の足柄を経由していた従来のルートを、藤沢・大磯を経由する海岸沿いに変更して新たに箱根路を切り開き、距離を短縮した。
 江戸幕府はさらに近江・美濃の内陸部を経由していたルートを伊勢よりに改め、現在の形が出来上がった。街道沿いには品川から大津まで順次宿場が設置され、道路の構造を企画化したり、沿道に木を植えたりなどした。これがいわゆる東海道五十三次である。その名残は、少なくなったが今でも東海道の各地で目にすることが出来る。

 天下太平となって、庶民の生活にもゆとりができると、東海道の通行量は増大した。道路は平坦でよく整備されており、女一人でも 旅できるほどに治安の維持も行き届いている。また貨幣がどこの地方でも通用するほど貨幣経済も発達していた。17世紀末に東海道を旅行したオランダ人ケンペルは街道筋の賑わいは時にはヨーロッパの大都会を上回ると報告している。
 さて、では当時の旅行者たちはどのような日程で東海道を歩いたのか?江戸日本橋から京都の三条大橋までは126里6丁1間、つ まり約492キロ。これを広重の『参宮上京道中一覧双六』では11泊12日で歩いているから、1日平均10里(40km)の計算になる。もっともこれはロクに見物もせず、ひたすら歩いた場合。ではのんびり歩いた場合はと、滝沢馬琴の旅行記を調べると、それでも1日平均6里半(25.5km)は歩いている。駕籠や馬はせいぜい疲れた時に乗る程度であったという。

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