沿道のコラム

(1)薬師平和の森散歩(新井薬師前駅−高円寺駅3.8Km)

 将軍綱吉が壮大な御犬小屋を築いた中野の地。その後も中野駅北側一帯は御鷹場、桃園、そして陸軍の街とめまぐるしく変貌した。

1.平和の森公園と中野刑務所

 平和の森公園は昭和60年に部分開園。平成14年に二期工事が完了し、ほぼ完成に近い。区民の憩いの場と災害時の避難所を兼ねた緑の防災公園である。妙正寺川にのぞむ付近一帯は古代から集落が形成された地域で、園内には弥生時代の住居が復元されている。
 ところで、住宅密集地にポッカリと広がるこの大緑地は、かつての中野刑務所の敷地であった。その前身である豊多摩監獄(後、刑務所と改称)が市ヶ谷から移転してきたのは明治43年(1910)。当時の野方村はまだ緑豊かな田園地帯であった。

名建築の刑務所
 この刑務所の名を一躍全国に高からしめたのは、日本近代建築史上の精華とされる総赤レンガ造りの優美な建築群。若き設計者後藤慶二は、この作品によって従来の和洋折衷型から訣別した独自のスタイルと空間を実現し、日本の近代建築の方向を決定づけたという。工事には5年の歳月を要し、中野駅から敷かれたレールの上を連日赤レンガがトロッコで運搬された。完成は大正4年(1915)。田園風景に忽然とそびえたつ姿は壮観であったという。

収容者の評価
 さて、この刑務所のもう一つの特徴は、当時の言論・思想弾圧の風潮の中で、数多くの思想家・文化人が収容された点にあった。大正8年に入所した思想家大杉栄は妻伊藤野枝に宛てた手紙の中でこう記している。「・‥・この監獄の造りは、今までいたどこのともちょっと違うが、西洋の本ではお馴染の、あのベルグマンの本の中にある絵、そのままのものだ。まだ新しいので気持がいい」と。他の刑務所と比較するあたりに、大杉の獄中生活の長さがうかがえる。大正14年の治安維持法制定後、思想家・文化人に対する取締りはいっそう強まり、荒畑寒村、亀井勝一郎、小林多喜二、中野重治、埴谷雄高、河上肇、三木清といった顔ぶれが収容された。
 この間、大正12年の関東大震災で壮麗な建築群の大半は失われた。亀井勝一郎は『幽閉記』の中で震災間もない昭和3年頃の様子を生々しく記している。「‥‥‥豊多摩刑務所は、関東大震災のとき剥離した壁をそのままにしてあったので、殊に古城らしい感じを与えた。内部の房も所々煉瓦がむき出しになり、崩れかけた壁も修理されず、廃墟に幽閉されたような思いを深めるように出来あがっていた」。

平和の森
 戦後、豊多摩刑務所は連合軍に接収され、軍の収容施設となったが、昭和32年に返還、この時名称を中野刑務所と改めた。その後、周囲の景観はかつての田園風景から都内有数の住宅密集地へと一変、
刑務所移転を求める住民運動が高まりを見せた。昭和50年に刑務所廃止が決定。折しも中野サンモール街とサンプラザが完成した年である。昭和58年廃庁。現在、平和の森公園予定地の南側には、70余年の歴史を物語る「中野刑務所跡地の門」が残されている。

2.御犬小屋

 元禄時代、中野村には世界でも例を見ない奇景が展開された。その発端となったのが、貞享2年(1685)五代将軍綱吉が生類、わけても犬を保護せよと厳命した生類憐みの令である(綱吉は戌年の生まれだった)。犬を食用とするなど当り前の時代。動物愛護の精神は大いにけっこうであったが、犬を害したものは即座に遠島・打ち首、やり方が極端だった。江戸市民は増加する野犬の群になす術なく、不満が募った。ついに幕府は元禄8年(1695)、中野村に一大収容施設の建設に取りかかった。これが御犬小屋である。
 現在の中野駅を中心にその広さはおよそ30万坪、日比谷公園の6倍に匹敵する。施設は一〜五の「囲」に区分され、「お犬様」たちはわざわぎ駕籠に乗せて運ばれた。その数はおよそ4万8000頭。駅のホームから見渡す西側一帯と東の線路沿いがすべて犬小屋、無数の吠え声に満ちていたというから異様である。食事は1日に白米3合干しイワシ1合、そして味噌と、人間並に豪華、出産の際には専属の犬医者が診察し、散歩も欠かさなかった。おかげで頭数はたちまち10万に急増、さしもの施設も満員となり、幕府は近隣の村々に養育費を与えて犬を預けるようになった。農家は思わぬ現金収入に喜んだというが、幕府の財政は大いに傾いたのである。
 宝永6年(1709)、綱吉の死により、22年間も続いた生類憐みの令は廃止、御犬小屋も撤去された。跡地には享保20年(1735)、八代将軍吉宗によって桃園が設けられた。現在、高円寺北一丁日の道路が南北にまっすぐなのは御犬小屋時代の名残リ。「囲」の名は中野区役所隣の囲町公園に残されている。
 ところで、これは余談だが、中野村には象もいた。安南国(べトナム)から吉宗に献上された象が中野村の農民源助にさげわたされたのである。源助は自宅の庭に象小屋を建て、人々に見物させたという。これもまた想像するに、何とも奇妙な光景である。

3.陸軍中野学校

 中野駅北側一帯には戦前、陸軍関係の施設が多かった。その一角に置かれていたのが諜報要員の養成を目的とした陸軍中野学校である。設立は昭和13年の春。当初は後方勤務要員養成所と称され、校舎も九段の愛国婦人会本部を間借りしていた。中野に移転するのは同年秋である。諜報活動の何たるかも十分に認識されていなかった時代のこと。頭の固い職業軍人におよそスパイは勤まるまいと、第一期生には一般大学で教育を受けたいわば半民間の幹部候補生20名が選抜された。いずれも秀才ぞろいだったという。
 教育方針の第一は軍人臭を除くことだった。敵地で軍人と見抜かれれば命に関わる。軍服・敬礼は現金、うるさい規則は皆無で外泊も自由。講師陣もユニークで、一流の学生たちに混じって、甲賀流忍術の使い手やスリの名人までが教壇に上ったという。もっとも秘密機関の性質上、学生たちは自らの所属を家族にも秘し、互いを偽名で呼びあわねばならなかった。
 一期生の卒業は昭和14年春。「半素人に何ができるか」と陸軍内部には批判の声も多かったが、一期生たちが示した優秀な成績にさすがに幹部たちも認識を改めたという。
 その後中野学校は敗戦にいたるまで、約1500〜1600名の卒業生を送りだした。
参考:畠山洋行著『陸軍中野学校』

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