沿道のコラム

(1)島根六月寺めぐり散歩(大師前駅−竹の塚駅4.4Km)

 六月の地名は、平安時代、奥州征伐に向かう源義家がこの地で豪族と戦ったのが、旧暦六月だったという伝説に由来している。

    1. 足立の紙漉き農家
    2. 郷土のマルチタレント・竹塚東子
    3. 東武伊勢崎線の開通と大師線
    4. 宇都宮釣天井の予言
    5. 島根ばやし
1.西新井大師

 「お大師さま」の名で親しまれる西新井大師の正式名称は、五智山遍照院総持寺。弘法大師の創建と伝わる古刹である。
 この地で疫病が猛威をふるっていた天長3年(826)のこと、東国へ旅行中の弘法大師が、十一面観世音菩薩のお告げにより、自作の十一面観音像と自像を本尊として祀り、厄難消除を祈念すると、疫病はたちまち消え失せたという。その時疫病を封じ込めた自像を井戸に沈めたところ、やがてそこから美しい水が湧き出た。その井戸が寺の西にあったことから、「西新井」の地名が起こったと伝えられている。
 寺が現在に近い規模になったのは、鎌倉時代末期ごろから。江戸時代に入ると、将軍の鷹狩りや遊行の際の御膳所となった。また堂宇はたびたび火災で焼失したが、本尊は常に無事であったことから、「厄除け火伏せの大師さま」として、名を馳せるようになった。昭和41年には江戸中期再建の本堂を焼失したが、この時も本尊は無事であった。現存の本堂は昭和46年に完成したものである。
 文化・文政(1804−30)のころよりぼたんの名所となり、「ぼたん大師」の愛称でも親しまれている。ぼたんは本山の奈良の長谷寺から移植されたといわれるが、もともと西新井は花の栽培が盛んな土地でもあった。境内のぼたん園には4500株余りが植えられ、4〜5月の花の季節には、大輪の花が境内を埋めつくす。

2.六月の由来と源義家伝説

 炎天寺の東側を北上していたとされるかつての奥州街道沿いには、源義家にまつわる伝説が数多く語り継がれている。「前九年の役」(1051〜62年)の際、源頼義・義家父子は、安倍氏征伐のため奥州に向かい、この地で安倍氏側の地元の豪族と衝突し、苦戦を強いられた。進退きわまった父子は、兵を集め、鎌倉鶴ケ岡八幡社に勝利を祈願した。その後形勢は逆転し、太陽を背にして戦った父子が勝利をおさめた。旧暦六月、炎暑の季節のことであった。
 奥州平定の後、父子は再びこの地に立ち返り、戦勝を記念し、八幡宮と戦死者の霊を祀る別当寺を建立した。炎天下の戦いであったことから、寺の名は「炎天寺」、村の名は「六月」(現在は六月町)と呼ばれるようになったという。

3.やせ蛙負けるな一茶是にあり

 「武蔵国竹の塚といふに、蛙たたかひありけるに見にまかる四月二十日なりけり。
 やせ蛙負けるな一茶是にあり」(『しだら』)
 小林一茶がこの句をつくったのは、文化13年(1816)、54歳のときである。このころの竹の塚は、初夏の田植え時期には蛙が騒がしく鳴き交わす水田地帯で「かわずの里」とも呼ばれていた。「蛙たたかひ」とは、繁殖期におびただしい数の蛙たちが繰り広げる恋人の争奪戦のことを言った。当然、体の小さい弱い蛙は競争からはじき出されてしまう。そんなやせ蛙に自分の姿を重ねて声援を送った一茶も、実は結婚が遅く、52歳で初めて妻を迎えたばかりであった。
 一茶が足立方面にしばしば足を運んだのは、当時竹の塚の竹塚東子(たけのづかとうし)、千住関屋の建部巣兆(たけべそうちょう)といった文人たちと交流があったためといわれている。特に炎天寺を好んで訪れたようで、
「蝉鳴くや六月村の炎天寺」(文化13年)
「むら雨や六月村の炎天寺」(文化14年)
などの句が残されている。境内には昭和37年建立の一茶の句碑がある。毎年11月23日には全国小中学生俳句大会の表彰式、蛙相撲などの行事を盛り込んだ「一茶まつり」が行われる。

 一茶は宝暦13年(1763)、信濃(長野県)の柏原の農家に生まれた。3歳で母を亡くし、継母との仲もうまくいかず、15歳で江戸に出る。転々と渡り奉公を重ねるうちに俳諧を習い覚え、房総の下総方面に地盤をもつ葛飾派に入門。30歳で7年にわたる西国行脚の俳諧修行に出る。俳諧師としての夢と野望をもって江戸に戻ったが、寛政(1789〜1801)末期の俳人番付では東方の56番目に名を連ねるにすぎなかった。
 一茶が転々とした本所・柳橋界隈は、「かつしかや月さす家は下水端」の句にあるように、市井の人々が身を寄せ合って生きている所であった。業俳も成り立ちがたく、生活に窮した一茶は、本行寺の一瓢(いっぴょう)や札差の成美(せいび)といった有名な俳人の庇護を受けたり、同門の知友をたよって房総を渡り歩いたりした。そうした孤独と貧窮の中から生まれた彼の句は、命あるものへの旺盛な観察眼とユーモアに満ちている。
 一茶が生涯に詠んだ句は約2万句。芭焦が約千句、蕪村が約3千句というから、たいへんな多作家であった。その内の7千句を収める「七番日記」は、四十代末から五十代半ばにかけて書かれた。このころがちょうど作品の質量ともに充実した時期であった。
 漂泊三十余年を経て、故郷に戻った一茶は、江戸帰りの宗匠として迎えられる。50も過ぎて若い妻を娶り子も得るが、その幸福も長くは続かず、妻子を次々と失ってしまう。晩年は、中風を患いながら、大火で焼け残った土蔵に暮らした。だが65歳で亡くなる間際まで、彼の句はユーモアを失わない。
「やけ土のほかりほかりや蚤さはぐ」

4.足立の紙漉き農家

 西新井周辺の村で、農閑期の副業として「浅草紙」の製造が盛んに行われていたことが、文政5年(1822)の『新編武蔵風土記稿』に記されている。「浅草紙」とは和紙の屑、古紙などを漉き返してつくる再生紙のこと。後水尾天皇(1611〜28)の代に、宮中で年末に処分していた書類を漉き直して再年したのが民間に広まり、やがて江戸へ伝えられた。当初は浅草で生産されていたことから「浅草紙」と呼ばれ、やがて近郊の足立に生産地が移ってきたのである。
 浅草紙の主な用途は「落とし紙」、すなわちトイレットペーパーであった。その製法は、まず古紙、紙屑などを大釜で煮、さらに紙漉き舟(漕)に移して水を張り、ほてい葵の根の絞り汁を入れる。その後すくい上げて水を切り、板に張りつけ乾燥させる、というもの。足立では、寒さを防ぎ身体の安定を保つために、穴瓶(あながめ)に入って紙漉きをしていた。
 文化・文政年間(1804〜30)以降、足立の漉き返し紙の生産量は、江戸市中の使用量の大半を占めるほどになった。俗に「一舟一町」といわれ、紙漉き道具一式から生まれる収益が田一町歩(約1ha)の生産高に匹敵したというから、莫大な収入であった。文政10年(1827)の『経済要録』には、紙漉き農家の贅沢な暮らしぶりを戒める記述も見られる。
 明治の初めから中ごろにかけて、足立の紙漉き農家は、伊興や竹の塚あたりまで広がった。製品の種類も増え、下駄や・草履の鼻緒の芯や西新井大師のだるまなどに使われる「張り子紙」、襖の下張り紙、袋用の厚紙なども生産されるようになった。
 だがその後、紙漉き機械の導人や大資本による製紙工場の出現により、紙漉き農家は減少していった。西新井では、関東大震災前には260余戸で手漉き紙をつくっていたのが、昭和7年ごろには50戸ほどに減少している。現在では下駄の鼻緒や酉の市の飾り物用などに、注文のある時だけ紙を漉く家が区内扇に一軒残るのみである。

5.郷土のマルチタレント・竹塚東子

 竹の塚に生まれ竹の塚に骨を埋めた江戸の文人。農家に生まれ育ったというが生年は不詳である。竹塚東子は今でいうマルチタレント。酒屋を営むかたわら、生け花の師匠をし、俳諧をよくし、また戯作者としても名を馳せ、
そのうえ落語家でもあり、弟子をかかえて一門を成していた。
 東子の俳譜の師匠だったのが、千住に住んでいた建部巣兆で、彼もまた俳譜師にして画家、生け花や茶道の教授もするという多才な人であった。東子は師の巣兆にならって奥州を行脚し、俳画帖をものしている。
 東子を一躍有名にしたのは寛政2年(1790)に刊行された洒落本「田舎談義」。江戸で流行の風刺的な娯楽読物「黄表紙」の一編で、序を山東京伝が書いている。東子はこの一作で戯作者としての地位を確立したといわれる。
 東子は師匠巣兆の死の翌年、文化12年(1815)に没した。竹の塚の常楽寺の墓には「冬川や瀬ぶみもしらず南無阿弥陀仏」という辞世の句が刻まれている。

.東武伊勢崎線の開通と大師線

 東武鉄道会社の設立は明治28年(1895)。日清戦争後の鉄道ブームただ中のことである。明治32年(1899)には東武伊勢崎線、北千住〜久喜間42kmが開通した。
 当初伊勢崎線は、北千住から小菅村、花畑村を通って埼玉県の草加に抜けるコースが予定されていた。だが、花畑村では思わぬ鉄道反対運動が沸き起こった。「陸蒸気」が通ると、その轟音と煙に脅えてにわとりが卵を産まなくなってしまう……。住民の多くは、花畑の大鷲神社の氏神である「おとりさま」の祟りを恐れたのだった。花畑村では大鷲神社のお使いとされるにわとりを奉り、食用にすることも禁じていた。
 一方、西新井村では、熱心な鉄道誘致運動が起こっていた。そこで計画は変更され、伊勢崎線は現在のコースを通ることになった。
 開通当初は、客車3両に貨物1両がついた混成の列車が、一日7往復運行した。西新井駅に続いて、明治33年(1900)には竹の塚駅が開設。明治末ごろ、竹の塚駅で午前7時の一番列車に来る客はほんの数人程度だった。沿線には藁葺き屋根の家が多かったため、汽車の石炭の火の粉が飛んで、しばしば火事に悩まされたという。
 浅草(現在の業平橋駅)から伊勢崎までの全線が開通したのは明治43年(1910)のことである。

 西新井駅から大師前駅へ、約1キロの大師線が延びている。これはもともと伊勢崎線と東上線の連絡を図るため、大正11年(1922)に西新井〜上板橋間に計画された「西板線」の路線の名残である。この路線の予定地区は人家の密集地で土地買収がはかどらず、数度の工事延期ののち、計画は頓挫してしまった。だが、西新井では地元商店街や住民らの熱心な運動が起こり、お大師さまへの参詣の便のためにと土地や私財を提供する人も現れた。その結果、昭和6年、二両編成、単線運転、ひと駅だけの大師線が開通したのである。大師前駅は普段は無人駅だが、お大師さまの参詣客で混み合う年末年始には、西新井駅の駅員たちが応援に駆けつける。

.宇都宮釣天井の予言

 国土安穏寺はかつて妙覚寺と呼ばれ、江戸時代は将軍家の御膳所であった。三代将軍家光が日光参詣に向かう途中、当寺に立ち寄ったときのこと。住職の日芸上人より、不吉な予感がするので道中気をつけるよう、特に宇都宮では警備を厳重にするようにと忠告された。そこで家光は帰路一泊する予定だった宇都宮城に立ち寄ることをやめ、さらに公儀目付方を送り込んで城内をくまなく調査させたくすると家光が泊まるはずであった寝所に、就寝中の将軍を押しつぶすべく、釣天井が仕掛けられていることが発覚した。当時の宇都宮城主は二代将軍秀忠の第三子国松(駿河大納言忠長)の後見役であった本多正純。正純は、家光を亡きものにして国松を将軍にしよう
と陰謀をはかったといわれている。
 日芸上人の予言によって危難を救われた家光は、妙覚寺に寺紋として将軍家と同じ葵を使うことを許し、「天下長久山国土安穏寺」の寺号を与えたという。なおこの釣天井の陰謀は、家光ではなく、秀忠にまつわる事件であったとする説もある。

.島根ばやし

 島根町に残る島根ばやしは、200年以上の伝統を待つ江戸祭りばやしである。もともと豊作、悪疫退散祈願のための風習で、代々農家の長男だけに教え継がれてきた。明治の初め、島根町に流行した疫病をはらうために、おはやしと獅子舞いを鷲神社に奉納したところ悪疫はすっかりおさまったという。それ以降、この風習は西新井、六月、舎人など周囲の村々にも広まった。
 戦前は元旦から七草の日まで、町内全域を流して歩いたといわれるが、現在では、鷲神社の境内で祭礼の日などに行われている。近年、農家の激減で存続が危ぶまれたため、昭和49年以降は女性も参加するようになった。
 島根ばやしは、鉦が一、太鼓が三、横笛一の五人ばやし。演し物は、おかめひょっとこの踊りに合わせる「神楽ばやし」、獅子舞いのおはやし、悪魔払いの「まものばやし」など、江戸時代の農村らしい素朴な表現を今に伝えている。

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