見どころ紹介

(2)築地江戸前散歩(歌舞伎座−佃島2.5Km)

●浴恩園跡
 寛政の改革で名高い老中松平定信が隠退後、余生を週ごした隠居屋敷。一橋家下屋敷の一部を頂戴したところから“浴恩園”の呼び名が付けられたといわれる。

●軍艦操練所跡
 軍艦操練所の開設は安政4年(1857)。向井将監、勝海舟らが頭取を務め、航海術、砲術、オランダ製軍艦の操縦法などの講習を行った。慶応2年(1866)海軍所と改称。同年火事により浜御殿(現浜離宮)に移転。跡地に築地ホテル館ができた。

●かちどきの渡しの碑
 明治38年(1905)1月、日露戦争時の旅順陥落を記念して京橋区有志が東京市に渡船施設を寄贈。戦勝にちなんで“かちどき”と命名された。以来、昭和15年6月の勝鬨橋開通まで築地の海幸橋と月島の勝どき1・2丁目の境との間を運航した。

●勝鬨橋
 昭和15年6月竣工のはね上げ式可動橋。全長246mのうち中央部44mが電動で八の字型に開閉、大型船が通行できた。往時の開閉数は1日5回。そのダイナミックな景観が見物客を喜ばせた。戦後は道路交通量の増大等により開閉数が減少。昭和45年11月の機能テストが最後の開閉となり、同55年4月、送電も断たれた。

●桂川甫周屋敷跡
 蘭方医の桂川家は、将軍家奥医師を代々勤めた家柄。『解体新書』翻訳に参加した甫周は4代目で、寛政6年(1794)には医学舘教官となり、顕微鏡普及に努めるなど、桂川家でも屈指の活躍を示した。

●築地小劇場跡
 大正12年(1923)の大震災直後、ドイツ帰りの土方与志が小山内薫等と創設。ヨーロッパの最新舞台機構を備えた新劇の常設舘として注目され、開幕を告けるドラの音と、ホリゾントに照らし出された青空が観客を興奮させたという。当初の定員は400名。劇団としても、歌舞伎役者に頼らざるを得ない従来の状況を打破して、演技者の養成に努め、演劇の実験室を標榜した。昭和3年の小山内の死で劇団は分裂、劇場はやや東寄りに移転し、同9年の改築を経て、上演は戦災による焼失まで続いた。劇団出身者には、千田是也、滝沢修、宇野重吾、山本安英、杉村春子、東山千栄子らがいる。

●新富座跡
 明治5年(1872)、浅草猿若町の守田座が新富町に移転。同8年、新富座と改名したが、翌年焼失。11年、ガス灯を使用した近代的劇場に生まれ変わった。一時は付近に茶屋40数軒が立ち並ぶほどの隆盛を誇ったというが、22年の歌舞伎座開場後は衰退。大震災で焼失した後は映画館となり、東京の大劇場のひとつとして長く親しまれた。
 なお、江戸三座のうち中村座は維新後も浅草で興行を続けたが、名称を幾度も変更した後、明治26年類焼、断絶。市村座も改称を重ねた後、明治11年興行権が市村家から離れ、同25年下谷に移転。昭和7年、焼失した。

●築地本願寺
 元和3年(1617)日本橋浜町(現在の日本橋3丁目付近)に創建。明暦の大火で類焼し、現在地に移った。現在の古代インド風建築は伊東忠太の設計で昭和10年に完成(伊東忠太は東洋建築の研究者で、雲崗の石窟寺院発見という世界的偉業で知られる)。昭和5年には別院として和田堀廟所(杉並区永福)が設けられ、墓のほとんどはそちらに移された。現在境内には赤穂浪士のひとり間新六の供養塔、光琳派の画家酒井抱一。シーボルト事件に連座した眼科医土生玄碩、日本橋魚河岸の起源となった出店を設けた摂津佃村の漁師森孫右衛門らの塞が残るのみ。

●三つ橋跡
 この付近にはかつて桜川(八丁堀)・楓川(現首都高都心環状線治い)・京橋川・三十間堀の四つの河川が交差して流れていた。楓川には弾正橋(現在の元弾正橋跡の位置)が、京橋川には白魚橋が、三十間堀には真福寺橋が架かり、これを指して ”三つ橋”と呼んだ。三つ橋は、寛永9年(1632)にはすでに架けられていたという。真福寺橋は明治末年、白魚橋は昭和34年に、いずれも河川埋め立てのために消滅。弾正橋は大正2年(1913)現在の弾正橋の位置に新しい橋が架橋されてから元弾正橋と呼ばれたが、昭和4年、江東区に移築された。都内最古の鉄橋である。現在の弾正橋は、昭和37年の高速道路建設により空橋となった。

●安藤広重住居跡
 『東海道五十三次』等で知られる浮世絵の初代安藤広重は、嘉永2年(1849)からコレラで亡くなる安政5年(1858)までの最晩年を中橋狩野家の屋敷内にあった住居で過ごした。

●芥川籠之介生誕の地
 龍之介の生家はこの地にあった耕牧舎という牧場。経営者新原敏三の長男として明治25年(1892)に誕生した。生後7ヶ月で母の長兄芥川道章に引き取られ、12歳の時、その養子となる。芥川家は本所小泉町(墨田区両国3丁目)にあった。

●聖路加国際病院
 聖路加国際病院の母体は、英国人医師ヘンリー・フォールズが築地居留地内に開いた築地病院。米人宣教師R・B・トイスラーがこれを整備、明治43年、聖路加病院を開設したが、関東大罪災で焼失。昭和7年、現在の聖路加国際病院が誕生した。アール・デコ風の本館に続いて昭和11年、近代ゴシック様式の荘厳な聖ルカ礼拝堂が併設された。病院建物は強く保存が望まれたが、礼拝堂のみを残して改築され、病院のイメージを変える近代的な医療施設が誕生している。

●浅野内匠頭邸跡
 播州赤穂藩5万3千石の城主浅野家の本邸跡。敷地面積は約2万9千があったという。二の辺りはかつて築地鉄砲洲と呼ばれていた。元禄14年(1701)浅野内匠頭長矩の起こした松の廊下刃傷事件により、お家断絶、領地は没収となった。

●蘭学事始の地・慶応義塾開塾の地
 聖路加国際病院、明石町保育園、中央区保健所の一帯は、豊前中津藩奥平家の中屋敷地であった。藩医前野良沢は中屋敷内の役宅に住み、明和8年(1771)から安永3年(1774)まで『ターヘル・アナトミア』の翻訳作業をここで行った。後年同じ中津藩士の福沢論告は、慶応義塾の母胎となった蘭学塾を安政5手(1858)同屋敷内の長屋に開き、慶応4年(I868)芝新銭座に移るまでここで授業を行った。「蘭学の泉の碑」「慶応義塾開弘の地の碑」はともに建築家、谷口吾郎の設計。

●電信創業の地
 日本最初の電信局は、築地居留地の運上所(居留地管理所)に設けられた“電信機役所”。明治2年(1869)10月、横浜裁判所の伝信機役所との間に32kmの電信線が張り渡され、日本初のモールス信号が発信された。後に“伝信局(電信局)”と改称。幸田露伴は明治17年(1884)7月から1年間、この築地電信局に勤めていた。

●ガス街灯柱
 もとは築地居留地内にあったものだが、震災後、中央区立第二中学校、及び区立明石小学校入口の現在地にl基ずつ移設した。頂上のランプは後に補修されたもの。煉瓦銀座之碑脇のガス街灯柱と比べて、コリント風の装飾が多い。東京の都市ガス事業は明治6年(柑73)、煉瓦街完成を機に、京橋から芝の金杉橋まで銀座中央通り沿いに85基のガス街灯柱を建て、翌年12月に点火したのが最初である。

●指紋研究発祥の地
 明治7年(1874)宣教師として来日した英国人医師へンリー・フォールズは、日本滞在中の2年間、築地居留地内に居住した。築地病院を開設するなど医療活動に活碓する−方、指紋の科学的研究を開始。明治13年にはイギリスの科学誌「ネーチュア」にその成果を発表した。この論文は科学的指紋法に関する世界最初のものといわれ、指紋による犯人識別の有効性がいち早く報告されている。フォールズが指紋研究を始めたのは、日本人が行っていた指印の習慣に着目したのがきっかけであった。日本の警察で指紋法が採用されたのは明治44年からである。

●アメリカ公使館跡
 最初のアメリカ公使館は安政6年(1859)麻布の善福寺に置かれた。居留地に移ったのは明治8年(1875)。その後、明治23年、公使館はいまある港区赤坂に移転、跡地には同38年、メトロポール・ホテルが建設された。これは4年後にはあっけなく閉鎖と短命ではあったが、数少ないホテルの一つとして有名であったという。

●佃煮
 現在でこそ佃煮の種類も豊富だが、元来は、小魚やアサリ、昆布等を塩・醤油で煮染めたものであった。その起源は諸説あって定かでないが、佃島の住人が自家用に製造するうち、保存食または副食物として漁師や住吉神社の神主家等に伝わり、やがて江戸市中にまで広がって、名物となったと推定されている。今日佃島に残る佃煮屋の老舗は、佃源
田中屋、天安、丸久の3軒で、江戸以来の伝統の味を守っている。築地の佃茂も、戦前は佃島に店を構えていた老舗である。

●鉄砲洲稲荷
 創建年度不詳。もと湊稲荷ともいい、亀島川に架かる稲荷橋のすぐ南詰東側にあった。安藤広重の「絵本江戸土産」には、遠景に佃島を配した構図で描かれている。震災以後、そこから約100mの現在地に移転。現社殿は昭和10年に造営された。

●佃の渡し跡
 正保2年(1645)に始まるという佃の渡しは、佃島と対岸の築地明石町を結んだところから“築地の渡し”とも呼ばれた。大正15年(1926)東京市の運営となり、昭和2年には無料の曳船渡船となった。さらに昭和30年には運航回数l日70往復となったが、39年8月の佃大橋完成で廃止された。隅田川最後の渡しであった。

●住吉神社
 摂津(大阪)の住吉神社から祭神底筒男之命などを勧請して正保3年(1646)に創建。かつては諸国の海運業者らの信仰を集めた。境内には、佃島に住み5世川柳を継いだ水谷緑亭(1787〜1858)の「和らかでかたく持ちたし人こころ」を刻んだ句碑がある。
 海上の守神、住吉神社の祭礼は例大祭と呼ばれ、毎年行われる。この例大祭で3年に1度催されるのが、神事祭。この年の祭りを地元の人々は本祭りと呼び、かつては御輿の海中渡御で有名だった。広重の「名所江戸百景」にも描かれた五反幟も、寛政11年(1799)の許可以来続く、本祭りの名物である。江戸時代の祭礼は6月28、29日に行われていたが、現在は、例年が8月6、7日。神事祭のある年は、6、7日に近い日曜を含む3日間となっている。

●月島観音
 昭和26年に長野県善光寺より下付された開運観世音菩薩を祀る。よって善光寺別院木誓殿の称号を持ち、失せもの・病気平癒に霊験あらたかとされる。

●海水館の碑
 海水館とは、明治から大正にかけて多くの芸術家達が滞在した新佃島の下宿旅館である。なかでも、島崎藤村が明治40年(1907)秋から翌年夏まで滞在し、『春』を書き上げたことは有名。以後、小山内薫・市川左団次・三木露風・吉井勇・久保田万太郎・竹久夢二ら豪華キャストが集まり散じた。関東大罪災で焼け、現在は熱帯魚店をかねたアパートになっている。”冬の海見ればかなしや新佃海水館はわび住みにしで”(吉井勇)

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