見どころ紹介

(4)本郷文学散歩(菊坂−神田小川町2.9Km)

●昌平坂学問所
 寛永9年(1632)、上野忍岡の林羅山邸内にあった朱子学の私塾に、孔子、顔回等を祀った先聖殿(孔子廟)を創建したのが、そもそもの「聖堂」の名の起こりである。五代将軍綱吉の発案に基づき、より大規模な組織として湯島の地に移転したのは、元禄3年(1690)。聖堂前の坂を、孔子の郷里にちなんで昌平坂と命名したのも綱吉である。
 寛政2年(1790)に、老中松平定信が、「異学の禁」により聖堂内での朱子学以外の学問を禁止。同9年、幕府官立の「昌平坂学問所」となり、幕末にかけて多くの人材を輩出した。官学の伝統は、明治以降、東京大学へと受け継がれていった。

●樋口一葉宅跡
 明治22年(1889)17歳で父親を亡くした一葉は、翌23年、母と妹を連れてこの地に移転、針仕事等の内職で家族の生計を立てる困窮した生活が続いた(同25年に路地を挟んだ反対側に引越)。一葉が小説家として活動を始めたのはこの頃で、同人誌「武蔵野」等に作品を発表するかたわら多くの文人と交流した。その後2度にわたる移転の後、24歳で死去。終焉の地(旧丸山福山町)には記念の碑が建つ。

●本妙寺跡
 元亀2年(1571)創建。日蓮宗。明暦の大火の火元であったというが定かではない。明治44年(1911)豊島区巣鴨に移転。

●赤門(旧加賀屋敷御守殿門)
 文政11年(1828)、加賀藩前田家が11代将軍家斉の娘、溶(やす)姫を嫁に迎える際に、建造した朱塗りの門。明治以降は東京大学の一部として同校のシンボルとなった。

●かねやす
 享保年間(1716〜36)、兼康祐悦という口中医師(歯料医)が、現在地の向い側に開店。乳香敏なる歯磨き粉を売りに出し、祭りのような賑わいをみせたといわれる。

●石川啄木喜之床跡
 明治42年(1909)、朝日新聞に校正係の職を得た啄木は、新築間もない理髪店喜之床に間借りした。病苦に苦しんだうえ生活もかなり困窮していたが、同時に最も充実した作品を生み出した時期でもあったという。その後44年には、旧久堅町の借家(現在の小石川図書館の近く)に移転、翌年に死去した。現在、その地には、啄木終焉の地の記念碑が設けられている。

●求道会館 文京区本郷6-20-5
 浄土真宗大谷派の僧侶近角常観が自らの宗教体験を語り継ぐ場として、求道学舎を開いた。同時に、広く公衆に向けて信仰を説く場として、大正4年同じ地に求道会館を設立。設計は京都大学建築学科創設者の武田五一。キリスト教会かと思われる入口に対し、内部は日本の寺社建築のモチーフを用いるなど、西洋と日本の伝統の融合をめざした独特の宗教空間は、国内でも希有の建築物。平成14年に修復完成し、宗教活動以外に一般にも公開している。東京都有形文化財。

●出世稲荷(春日局屋敷跡)
 三代将軍家光の乳母、春日局の屋敷跡に祀られる稲荷社。大奥に権勢をふるった局にあやかり、出世稲荷と呼ばれている。

●野球体育博物館
 往年の名選手たちのユニフォームやパットなど尊重な品々を展示する野球専門の博物館。かつての好ゲームのビデオ上映も行われている。東京ドーム内に移転後、昭和63年3月新規オープン。

●小石川後楽園
 この周辺ほもともと沼沢地帯であったが、寛永6年(1629)に水戸藩上屋敷となり、水戸徳川家の祖・頼房が中屋敷として造園が開始、二代藩主光圀の代に完成した。造園方式は回遊式築山泉水庭園と呼ばれ、大小の池のまわりに、中国各地の名勝の縮景が配置されている。命名は光國で、中国『岳陽楼記』の一節に由来するという。現在の敷地面積は、約7万800u。昭和13年以降は東京都の公園として一般公開されている。全国でも3ヶ所しかないという国の特別史跡・特別名勝の二重の指定を受けている。他の二つは「浜離宮」と「金閣寺」。

●本郷座跡
 明治6年(1873)の開業。奥田座、春木座の名で、歌舞伎を主な出し物としたが、35年に本郷座と改称、川上音二郎一座が出演する等、新派の拠点となった。昭和5年より映画館となるが戦災により焼失。

●妻恋神社
 もとは旧湯島天神町にあったが、明暦の大火の後この地に移った。昔、日本武尊が東征の際に暴風雨に遭遇、妃の弟橘姫が自ら大海に身を投して海神の怒りを鎮めたと伝えられ、郷民が二人を祭神として祀ったのが始まりという。後に農耕神の倉稲魂神(稲荷明神)を合祀した。

●神田神社(神田明神)
 天平2年(730)武蔵国柴崎村(現在の将門塚付近)に創建。大己貴命を祀る。徳治2年(1307)将門の霊を合祀。江戸初期、一時駿河台へ移転、元和2年(1616)この地に遷座し、神田明神と称した。逆賊の将門を江戸の総領守として祀る背景には、尊王思想の流布を畏れた幕府の思惑もあったとされる。維新後、将門は合祀より外され、神田神社と改称した。

●聖橋
 昭和2年、大震災後の復興橋のひとつとして架設。湯島聖堂とニコライ堂の大聖堂をつなぐ橋なので、聖橋と命名されたという。全長92m、幡22mのモダンな鉄骨鉄筋コンクリート造りの橋である。

●蜀山人終焉の地
江戸中期の狂歌師、戯作者である蜀山人(大田南畝)は、文化9年(1812)よりこの地に住んだ。文政6年(1823)75歳で死去。辞世の句は「生き過ぎて七十五年くいつぶし 限り知られる天地の恩」。

●ニコライ堂
 正式名称は日本ハリストス正教会教団復活大聖堂。明治24年(1891)大主教ニコライにより開設。日本のギリシア正教の本山である。ニコライ主教は、文久元年(1861)に来日。世に大津事件として知られるロシア皇太子暗殺未遂事件の際には、明治天皇とロシア皇帝の調停役を務める等多くの功績を残した。現在の聖堂(設計岡田信一郎)は、震災後の昭和4年に再建されたもの。震災前の聖堂はコンドルの監督設計によるもので、江戸東京博物館にはコンドル設計の模型がある。

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