見どころ紹介

(4)下町深川散歩(清澄庭園−門前仲町駅2.4Km)

●深川寺町
 万治元年(1658)、明暦の大火(1657)で焼失した浄土宗霊巌寺が、隅田川を隔てた深川の地に移転された。同じ年日連宗浄心寺が創設され、天保3年(1832)浄土宗雲光院がやはり焼失のため移転されてくると、次々に多くの寺院が深川に建立されるようになり閑寂な寺町を形成した。霊巌寺塔頭成等院には、豪商紀伊国文左衛門の墓がある。

●間宮林蔵の墓
 江戸時代後期の探検家であり、幕府隠密でもあった間宮林蔵(1775〜1844)は、幕命によって北海道、樺太を探検し、文化6年(1809)後に間宮海峡と呼ばれる海峡を発見した。彼は晩年を蛤町(現門前仲町1丁目)で過ごし、弘化元年(18
44)逝去した。

●木更木橋・仙台堀川
 木更木橋の下を流れる仙台堀川は、元禄時代から開さくが繰り返されてきた。排水、舟運用水路としての利用価値が高く、木場堀としても利用された。

●冬木弁天堂
 茅場町の材木豪商冬木屋三代目弥平次が、宝永2年(1705)幕府から買いうけこの地に移転してきた際に、弁財天を祀り堂をたてた。この弁財天は深川七福神の1つとなり、今でも参詣者は多い。

●干鰯場跡(江川場)
 鰯を干した干鰯は江戸時代の重要な肥料・食品だった。干鰯場江川場は 永代場(佐賀町)、銚子場(白河町)とともに、千葉方面から運ばれてくる大量の干鰯をさばいていた。

●和倉橋(あぜくらばし)跡
 かつて油堀川という運河が隅田川と旧木場間に通っていた。石造の親柱は油掘川に架かっていた和倉橋の名残りである。

●富岡八幡宮
 隅田川河口東岸の埋立は江戸の町づくりの課題の1つだった。富岡八幡はその鎮守社。寛永元年(1624)、長盛上人が夢のお告げにより葦の中に白羽の矢を発見、その他に八幡宮を勧請したのがおこりとされる。当時南側は一面の海だった。

●木場角乗りの碑
 元禄14年(1701)永代島から移転されて以来300年の歴史を持つ木場は木場角乗りと呼ばれる伝統芸を生み出した。川波(筏師)が 堀川に浮かぶ材木を回転させながらその上で曲芸をする角乗りは、昭和27年都の無形民俗文化財に指定され同39年八幡宮内に記念碑がたてられた。

●横綱の碑
 富岡八幡では貞享年間に勧進相撲が開かれた。境内には24トンの横網力士の碑をはじめとして相撲にちなんだ多くの碑が残されている。相撲の興行は天明元年(1781)、本所の回向院に移された。

●歌仙桜の碑
 富岡八幡宮前に住んでいた芭蕉の弟子度会園女は、正徳元年(1711)三十六歌仙にちなんで36株の桜を八幡宮境内に植えた。二世園女が記念碑を建て、以来戦災にみまわれるまで桜の名所となっていた。

●永代寺
 富岡八幡宮の別当寺院として創立された永代寺は、明治維新の神仏分離令によって廃寺され、跡地は深川公園となった。現在の永代寺は、永代寺塔頭吉祥院が、明治29年(1896)に改称したものである。

●深川不動堂
 元禄16年(1703)に始まった成田山新勝寺の出開帳が深川不動の起こりである。明治14年(1881)不動堂完成。参詣者には芸能関係の人が多く、名優五代目尾上菊五郎も熱心な信者だった。

●八幡橋
 明治11年(1878)に鋳造された都内最古の鉄橋。関東大震災後の復興計画で中央区の楓川から移されてきた。長さ16m程の小橋だが、橋梁史上貴重な橋である。

●三十三間堂跡
 京都の三十三間堂を模して建造されたという。もとは浅草にあったが焼失した翌元禄11年(1698)この地に再建された。明治5年(1872)廃寺。広重の錦絵や江戸名所図会に当時の姿が描かれている。

●黒船稲荷
 応徳3年(1086)、浅草黒船町に創立され、享保17年(1732)に移転された。この地は嘉永2年(1849)江戸絵図に「雀の森」と記された閑静な一角で「東海道四谷怪談」の作者鶴屋南北が晩年を過ごしたところでもある。

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