見どころ紹介

(2)たけくらべ千住の大橋散歩(鷲神社−北千住駅5.0Km)

●根岸の里
 三ノ輪・根岸は江戸市民の絶好のリゾート地であった。日光街道(現旧道)が通じ交通の便も良く、多くの寮・別荘がここに建てられた.特に根岸は“根岸の里”と呼ばれ、閑静な雰囲気を尊ぶ文人墨客が好んで住んだ。
「呉竹の根岸の里は上野の山蔭にて幽趣ある故にや、都下の遊人多くはここに隠棲す、花になく鶯、水になく蛙もともにこの地の産するもの、其声ひとふしありて世に賞愛せられはべり…。」(『江戸名所図会』より)
 これらの人々は「下谷組」と呼ばれた。代表的なところでは、画家の酒井泡一・北尾重政、儒者の亀田鵬斎、著述家寺門静軒などがいる。彼らは俗世と切れていたわけではない。武家出身の変り種酒井泡一などは、仏門に入った身でありながら吉原通いを欠かさなかった。その泡一が住んだ雨華庵も、今はない。明治に入ってからも多くの文化人が根岸に集まった。鴎外もかかわった根岸党、そして正岡子規の根岸短歌会が特に有名である。

●樋口一葉旧居跡碑
 樋口ー葉は明治26年(1893)から10カ月、小さな雑貨店を営み、そこでの体験をもとに『たけくらべ』を書いた。この石碑はその旧居を偲んで地元の人々が昭和35年に建てたものである。

●一葉記念館
 昭和36年に台東区が開設した樋口ー葉の文学資料館。推敲の跡がにじむ『たけくらベ』の草稿、雑貨店の仕入帳、師・半井桃水に宛てた書簡、身につけていた着物やかんざしなどが陳列されている。

●見返り柳
 江戸時代、吉原遊郭で遊んだ客が帰り道に振り返って見た柳ということで、この名がついた。「廻れば大門の見返り柳」という『たけくらベ』の書き出しでも有名。
関東大需災や戦災などで何度か焼失し、現在の柳は六代目にあたるものらしい。

●吉原弁財天
 正式名は敷島弁財天。昔は弁天池(現在の吉原電話局)の中の島にまつってあったが、昭和8年、近くの吉原神社が合祀した。横には花吉原名残碑や関東大震災の時に溺死した人々のために作られた吉原観音がある。

●梅林寺
 天正か文禄年間(1590〜1596)に創建された曹洞宗の寺院。境内には、江戸中期に幕府の採薬使として諸国をめぐって薬草を採集し、小石川薬園を開設した阿部友之進の墓がある。

●薬王寺
 境内にある正平7年(1352)2月の銘が刻まれた板碑と3メートルもある背面地蔵で有名な寺。背面地蔵の名は約220年前の故事に由来する。故事には、街道に面した地蔵の後を通るように街道筋が変ったため、向きを逆にしたのだが、神のおつげにより再びもとに戻したとある。

●永久寺
 鎌倉時代末期に創建された天台宗の寺院。ここにある目黄不動は慈寛大師の作で、徳川家光が天下泰平・国家安穏を祈願して指定した江戸五色不動の一つである。

●三ノ輪橋跡
 三ノ輪橋は石神井川の支流・音無川と日光街道が交差するところにかけられた橋である。鉄道開通とともに埋めたてられ現在は橋名柱だけが残っている。

●浄閑寺
 浄土宗の寺院で、吉原の遊女がここに投げこまれるように葬られたので俗に投込寺と呼ばれた。本堂の裏にはそうした遊女の供養のために「生れては苦界死しては浄閑寺」という句壁がはめこまれた新吉原総霊塔が建てられている。浄閑寺境内には他に、しばしばこの寺を訪れた永井荷風が遊女たちの死をあわれんで書いた詩を刻んだ石碑と、荷風の歯2本、小筆1本を納めている筆塚とがある。

●鷲神社(おおとりじんじゃ)
 酉の市で有名な浅草鷲神社。この神社の鷲の宮はもともと長国寺境内にあったもの。地の利もあって江戸中期以降、本酉の花畑神社(足立区)をもしのぐ賑わいをみせ、新酉と呼ばれている。酉の市は「とりのまち」が本義。「まち」とは祭りのことで、「神を掻き込む」「酉は取り込む」という縁起から、熊手を求めて商売繁盛を願う祭りとなった。11月の酉の市に、人々は冬の訪れを感じ取る。

●平賀源内の墓
 もとは総泉寺内にあったか、関東大震災後にこの墓を残して寺は移転した。土塀に囲まれた墓域には家来・福助の墓や源内顕彰碑もある。

●橋場のお化け地蔵
 松吟寺内にある約3メートルの地蔵専。はじめは子育地蔵と呼ばれていたが、鉄製のカサをかぶせたところ、それが横になったり取られたりするので、お化け地蔵と呼ばれるようになったという。白井権八がこの地蔵のかげに隠れて辻折りをやった後、地蔵に向って言った「知らんふりをしろ」という言葉に地蔵が「お前こそ人に言うでないぞ」と答えたという伝説もある。

●俳優学校跡
 俳優学校は、昭和6年から同10年まで歌舞伎俳優を養成するために六代目尾上菊五郎が開設した学校。第一回試演会は東京劇場で『仮名手本忠臣蔵』などが上演された。

●石浜神社・真先稲荷
 かつてこの一帯は千葉常胤の石浜城があつたところ。石浜神社はこの他の総領守で神亀元年(724)創建。塊内には隅田渡津の碑や伊勢物語の歌碑がある。隅田津の碑は亀田鵬斎が橋場の渡しをうたった詩を刻んだ碑で文政7年(1824)に建てられた。伊勢物語の歌碑は文化2年(1805)に建てられたもので、在原業平が東くだりの時に今の白髭橋のあたりでよんだ隅田の川越えの歌「名にしおはばいざこととはん郡鳥 わが思ふ人ありやなしや」が刻まれている。真先稲荷は石浜神社に付属し、千葉常胤がこの稲荷に戦場での先陣さきがけの願をかけたことから、「まっさき」ともよばれた。

●妙亀塚
 妙亀塚は謡曲『隅田川』で知られる梅若伝説に由来する、梅若丸の母は貞元元年(976)人買いにさらわれたわが子を追って隅田川のほとりでその死を知る。そして妙亀尼と称し霊を弔うが、悲しみのあまり鏡ケ池に身を投げて死ぬ。妙亀塚はその妙亀尼の墓である。

●日本玩具資料館
 明治通りと隅田川が交差する白髭橋、橋場1丁目バス停そばのビルの中に日本玩具資料館はある。昭和56年9月11日に設立されたこの資料館は、わが国における雑貨輸出の重要な位置を占めながら、その「使いすて」性故に今まで顧みられて
こなかった、おもちゃの整理収集を目的としたもの。
陳列の対象は販売を目的に工場で生産されたものに限り、郷土玩具や美術的なものは極力避けてある。それだけに、その時代に育った子供達が自分の手で遊んだおもちゃが多くとりあげられている。蒐集品の数は12,000点に及び、約7,500点を常時陳列。
カラフルな豆本型のパンフレットが館内で売られ、戦後のおもちゃの歴史を写真人りで紹介している。わずか80円のこの小冊子は、それ自体立派なおもちゃのようだ。米軍のジープを供したブリキの車からテレビのキャラクター人形、ケン玉やメンコに至るまで見る者の心を童心にかえして楽しませてくれる。ビー玉やヨーヨーなどは今でもテレビで正義の味方の武器として描かれており、基本的に好まれるおもちゃの傾向は昔から変わらないようだ。玩具資料館は、時代を超えたおもちゃの魅力を、大人にも子供にも伝えてくれる場所である。
休館日は毎週月・火曜日 第3水曜日、開館時間は9時30分から17時まで。
東京都台東区橋場1−36−10 
03-3874-5133

●小塚原刑場跡
 江戸時代のお仕置場(刑場)は、品川の鈴ケ森と千住の小塚原の2力所。小塚原刑場は間口60間余(約108m)奥行30間余(約54m)、2千坪程(約7千u)であつた。明治初年に廃止されるまでにここで処刑された者の数は実に20万人にのぼるといわれる。刑場の一角に首切り地蔵と呼ばれる延命地蔵がある。高さ1丈2尺(約4m)の寄せ石造り。寛保元年(1741)に刑死者の菩提を弔う為に建てられた。

●小塚原回向院
 常盤線と陸羽街道(通称コツ通り)が交差する所に小塚原回向院がある。コツは骨に通じ、小塚原刑場で処刑された鼠小僧次郎吉、高橋お伝、片岡直次郎、安政の大獄の吉田松陰、橋本左内等がここに葬られている.明和8年(1771)には杉田玄白等が刑死者の腑分けに立ち会っている。これを記念して、大正11年(1922)境内に「観臓記念碑」が建てられた。

●円通寺
 下谷広徳寺、入谷鬼子母神と共に下谷の三寺をなす箕輪円通寺は、また百観音と通称される。廷暦10年(791)坂上田村麻呂の創建と伝えられる。慶応4年(1868)上野戦争で官軍の猛攻についえ去った彰義隊士の遺骸266体を手厚く合葬した「死節の墓」がここにある。弾痕を今に残す上野東叡山の黒門が移されたのもこうした機縁による。また、24年前下谷で起きた誘拐事件の被害者吉展ちやんの霊を弔う地蔵がここと回向院の2力所にある。

●日本羊毛発祥の地
 富国強兵・殖産興業のかけ声のもとに官営千住整絨所が開業、明治12年(1879)の事である。荒川区の工業地帯への変貌の契機となる画期的なものであった。

●素盞雄神社
 創建は延暦14年(795)。当社の起りは「瑞光石」と呼ばれる石神信仰に基づく。「奥の細道」旅立ちの地にちなんだ芭蕉の碑は文孜3年(1820)の建立。

●千住大橋の碑
 江戸開幕の前、文禄3年(1594)隅田川に初めて橋が渡された。それがこの大橋である。千住大橋と呼ばれるようになるのは、万治2年(1659)両国橋が造られてから。橋杭には槇の巨木が使われ、明治18年(1885)の大浜水の時まで一度も流失しなかった。現鉄橋は昭和2年完成。

●奥の細道矢立初の碑
 元禄2年(1689)松尾芭蕉は門弟曽良と共に出でたち、「千じゅと云所にて船をあがり」旅を始めた。矢立より筆を取りて「行春や鳥啼魚の目は泪」と一句。

●稲荷神社
 土蔵造りの本殿内部には、左官の伊豆長八の鏝絵がある。長八は左官が使うコテで漆喰のレリーフを作ったが、東京の寺社にあった作品の殆んどか戦災で焼失。ここの男狐と母子狐の二枚は貴重な物である。

●新・旧日光街道分岐点
 道はここから二手に分かれる。旧道は天下の五街道のひとつで、直線である。日九東照宮造営後、宇都宮以南を日光街道、以北を奥州街道と定めた。

●河原稲荷
 かつては広大な境内を有し、源長寺ももとはこの境内地であった。明治39年(1906)、社務所わきに千住青物市場創立三百三十年祭記念岬が建立された。社中の千貫御輿は区内最大をほこる。

●源長寺
 付近一帯を開拓した石出掃部介が慶長15年(1610)に草創。掃部介や、有名な千住酒合戦の世話人の鯉隠、幕末の民心を支えた心静尼らの墓がある。

●高札場跡
 高札場とは、法度・掟書などを記した板札を立てておく場所。幅3間(1問は約1.8m)奥行1間半の高札場に尾州檜材を用いた高さ2間の高札が立てられていた。勝海舟の書いた高札が足立区立郷土博物館に残っている。

●一里塚跡
 街道筋で里程の目標とされた一里塚。古図によると、日光街道沿いのここの塚には定法通り榎が塚の上に植えられ「是より日本橋に二里八丁」とあったという。

●千住宿問屋場貫目改所跡
 宿場の中枢である問屋場。貫目改所には代官所から役人が一名派遣され、荷物の目方をきびしく改め、人馬に規定以上の負担をかけないようにした。

●森鴎外旧居跡
 明治14年(1881)から17年ドイツ留学まで、鴎外はここから人力車で三宅坂の陸軍病院へ通勤した。彼の父は明治25年までこの地で開業していたのである。

●金蔵寺
 建武2年(1335)創建と伝えられる。千住宿遊女供養塔や、天保8年(1837)の大飢鐘の餓死者を供養した無縁塔がある。

●千住宿本陣跡
 千住は、寛永2年(1625)、日光道中の初宿と定められ、江戸四宿(他に品川、板橋、内藤新宿)のひとつとして交通の要所となった。参勤交代が始まると、奥州・日光・水戸街道筋の諸大名(その数60余)は全て千住宿を通過したのである。

●千住神社
 当社の前身千崎稲荷は延長4年(926)勧請。大正4年(1915)千住神社となる。慶応2年(1866)奉納の芭蕉句碑は「ものいへば唇さむし秋の風 はせを」。

●勝専寺
 通称赤門寺。一説に千住の地名の起こりという千手観音像や、近在2町15村に聞こえたという時の鐘が有名。「おえんまさま」でも名高く、正月と7月15、16日が山門左手の閻魔堂の御開帳の日。

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