見どころ紹介

(1)帝釈天門前散歩(京成高砂駅−矢切の渡し3.1Km)

●柴又帝釈天参道
 江戸時代から、庚申の日には、多くの参拝客でにぎわう柴又帝釈天。今は寅さんの故郷を見ようと、日本各地からだけでなく、海外からも観光客が訪れる。草ダンゴ、せんべい、災いをはじくというはじき猿の玩具などを売る店が並ぶ参道には、今も下町の風情が漂う。

●邃渓園
 題経寺の邃渓園は、関東の名造園師、永井楽山が昭和41年につくった庭園。奥の院にある「南天の床柱」は、滋賀県の伊吹山麓に自生していた樹齢1500年と伝えられる南天の木。植物学者、牧野富太郎は、日本一の南天と太鼓判を押したという。この床柱は、昭和31年に記念切手になった。

●柴又七福神
 柴又七福神を祀る寺社には、観蔵寺(真言宗、寿老人)、良観寺(真言宗、布袋)、万福寺(曹洞宗、創建年は昭和3年、福禄寿)、宝生院(真言宗、昭和2年に池の端から移転、大黒天)、医王寺(真言宗、創建年は応永14年(1407)、恵比寿)のほかに、真勝院(真言宗、弁財天)と題経寺(日蓮宗、毘沙門天)がある。

●天祖神社
 鎌倉幕府の重臣として源頼朝につかえ、葛西一帯の領主でもあった葛西清重が創建したといわれる。祭神は大日霊尊。雨乞い図絵馬は社宝の一つで、天保10年(1839)10月に東西の葛西領24力村の有志が天祖神社で行った雨乞いの様子が、横2m60cm、縦75cmの板に描かれている。

●源照寺
 関東大震災の後、昭和初期に浅草から移転してきた浄土宗の寺。琴曲山田流の始祖山田検校の墓がある。検校は宝暦7年(1757)生まれ。幼いころに失明したが、山田松黒について琴を習った。後に従来の琴に蝕き足らず、新しい曲を創作して独自の流派を築いた。文化・文政(1804〜30)のころ、山田流の流れを汲む者は数千人にもなり、彼の曲は子どもも口ずさむほどだったという。

●鎌倉公園
 桜の名所で、春には花見客でにぎわう。公園の奥にはプールや町なかでは見られない野草を集めた野草園がある。入場無料。

●八幡神社
 大同元年(806)創建の真勝院と同時期の創建ともいわれている。柴又一帯の氏神で、誉田別命(ほんだわけのみこと)と建御名方尊(たてみなかたのみこと)を祀る。毎年10月の例祭で行われる獅子舞いは有名。昭和41年の社殿改築の際に、埴輪、鉄刀、人骨などが出土し、古墳があることがわかった。古墳の形は竪穴式石室をもつ直径30mの円墳で、築かれた年代は6世紀後半。現在、社殿下には石室が再現され、埴輪などが展示されている。社務所に申し込めば見学できる。社務所前には柴又勧農事績碑がある。これは、名主を中心に村人たちが一丸となって農作業に励み、天明6年(1786)の水害などで荒廃した柴又村を復興に導いたことを記念して文政9年(1826)に建てられたもの。境内にはこの他に、明治の初めに完成した用水路を記念して明治6年(1873)に建てた柴又用水の碑がある。

●真勝院
 創建年は大同元年(806)。葛飾区内でも古い歴史のある真言宗の寺。柴又七福神の弁財天を祀っている。五智如来は、山門を入ってすぐ右に並んでいる五つの石仏のこと。仏の持つ五つの智を、薬師如来、宝生如来、大日如来、阿弥陀如来、不空成就如来の五仏にあてはめている。造立碑には、江戸時代初期の万治3年(1660)に柴又村の名主たちが村の発展を祈って建てたとある。

●新宿(にいじゅく)交通公園 葛飾区新宿3-23-19
 昭和44年開園。子どもたちが遊びながら交通ルールを学べる公園。1万1千uの園内には、本格的に舗装された幅2〜7mの小型のハイウェイがあり、交差点などの要所には信号機や交通標識が取り付けられている。子どもたちは、このハイウェイをゴーカートなどで走ることができる。ミニサイズの新幹線やSLが走り、大人でも乗ることができる。
休園日:月・火曜日・第4週は日・月曜日
運転日:新幹線・DLは金・土曜日 SLは日曜日祝日(毎月第4日曜日は休み)
運転時間:午前10時〜12時 午後1時〜4時
乗車料:中学生以上70円 小学生20円 幼児は無料

●俳人鈴木松什(しょうじゅう)と山本亭 葛飾区柴又7-19-32
 鈴木松什は寛政10年(1798)に柴又村で生まれた。若いころから俳諧の道に入り、敬愛する芭蕉についての研究書『芭蕉発句類題集』などを著した。松什自身も「うれしさの人にも言えず露の音」などの作で広く世に知られ、文政・天保(1818〜44)のころに関西で開かれた今でいう「全国俳句大会」で、江戸の代表に選ばれたほどの才人であった。
 松什は俳句の宗匠として、柴又村やその周辺の村の人々に慕われた。やがて彼を中心に文化サロンとでもいうべきものができあがり、その伝統は松什の子孫にも受け継がれ、明治時代になっても続いた。また松什は、柴又を水害から守るために人々を率いて江戸川の堤に土のうを積んだり、貧しい人に衣食を与え、病人を自ら治療したという。
 ところで、松什にとって俳句はまったくの余技であった。彼の本業は瓦の製造。現在、鈴木家のあった場所には、大正から昭和初期にかけての雰囲気を残す屋敷「山本亭」がある。この屋敷は、大正12年(1923)の関東大震災直後に、合資会社山本工場(カメラ部品製造)の創立者、山本栄之助が鈴木家から取得した建物を改築したもの。現在は葛飾区の施設として一般公開されている。茶室では茶会(無料で茶道具を貸し出し)を、日本間は句会などに利用できる(有料)。
開館時間:午前9時〜午後5時
休館日:毎月第4月曜日と12月28日〜31日(年始は1月1日から営業)
入館料:100円 中学生以下・65歳以上は、無料
その他:抹茶等サービス(有料)あり
問合せ:03-3657-8577

●けなし池
 明治6年(1873)の夏のこと。日照り続きの天気に困った農民たちは、けなし他の近くの青龍神社の宮司に雨乞いを依頼した。宮司の3日にわたる祈とうでやっと雨は降ったが、ひび割れた川畑には十分な量の雨ではなかった。宮司は再び一心不乱に折った。すると3日目の朝、東南と西北の二つの方角から黒雲があらわれた。二つの黒雲はみるみる空をおおい、けなし池の上で一つになると、稲妻を合図に大雨を田畑に降らせたという。
 このめぐみの雨により、けなし池は神池として人々にあがめられるようになった。そして以後、戦前まで、毎年、群馬にある本山の榛名山からいただいた御神水を池にそそぐという行事が行われた。
 さて、けなし池にまつわる不思議なできごとはその後も起こった。中でも昭和56年のできごとは新聞にも載り、話題になった。この年の3月、青龍神社が全焼するという事件が起きた。このとき、宮司たちは炊け跡の中からたった一つ無傷で残ったものを発見した。それは桐の箱に入ったかけ軸で、横山大観作の、黒雲に爪を立てた龍の墨絵だったという。

●葛飾納涼花火大会
 7月下旬に矢切りの渡し付近で行われる花火大会は、昭和28年以来の江戸川の風物詩。毎年40万人以上の人出がある。

●江戸川
 たびたび洪水を起こしていた江戸川が大きく変わったのは、江戸時代初期の改修工事によってだった。以後、東北の米をはじめ、様々な物資が江戸川の水運を使って江戸に運ばれた。現在、河川敷は公園や運動場となり、人々に憩いの場を提供している。

●金町浄水場
 金町浄水場は、東京東部の住民への給水を目的に、大正15年(1926)8月に操業を開始した。この地域は軟弱な地盤などが原因で昔から井戸水の水質が悪く、人々は水屋と呼ばれる業者から国府台あたりで汲んだ江戸川の水を飲料水として買っていた。だが、大正の中ごろから人口が増えだし、給水問題は切実なものとなった。そこで、南葛飾、南足立、北豊島3郡の12カ町は「江戸川上水町村組合」を大正8年(1919)に設立、金町に浄水場をつくることを計画した。
 だが、送水のために荒川や中川をまたぐ鉄管橋を30以上つくる必要があることや、資材の値上がりなどから、工事費は当初の計画の約2倍にもなった。工事は大正11年(1922)に開始されたが、震災後の人口急増により、工事中から拡張工事を計画しなくてはならなかった。
 大正15年の1日最大給水量は5万6千立米。昭和7年に東京市水道局の管理となってから7回にわたって拡張工事を行い、現在の1日最大給水最は160万立米、約250万人に給水している。平成4年には川の汚濁から生じるカビ臭を取り除くため、オゾンと生物活性炭を利用した高度浄水処理を導入、浄水方法にもさまざまな改良がなされている。
 平成11年には、巨大な自家発電施設がつくられた。この計画は、1995年の阪神淡路大震災の時、停電によって浄水場のポンプがストップして、数ヶ月にわたり水道が使えなかったことを教訓にして生まれたという。東京都では、災害時にも、安定して水を供給するために、すべての浄水場に自家発電施設を建設することに決め、事業の運営方式に民間企業の参入を図るPFI方式を導入し、その第1号が金町浄水場となった。安定的に安全でおいしい水を安く供給する。この浄水場の役割を実現する努力はこれからも続けられる。

 

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