1.池袋の変遷
昭和62年9月池袋西口に完成したテーマ広場には、池袋の地名の由来が記されている。池袋村の東北部が袋状の窪地になっていたから、付近一帯に大小無数の池があったから、池(丸池)から袋を背負った亀が現れたからという3つの説。
幕末から明治にかけての池袋周辺は、田畑の間に雑木林の散在する典型的な農村地帯であったという。池袋駅の開設は、明治36年(1903)のこと。大正2年(1913)には私営武蔵野鉄道(現西武池袋線)、翌3年には東上鉄道(現東武東上線)が相次いで開通。
だが、池袋駅がターミナル駅として飛躍的な発展を遂げるのは、震災後、郊外居住者が激増してからのことである。交通の整備にともなって明治41年には、学習院と宗教大学(現大正大学)、大正8年には立教大学などの教育施設が移転。また明治42年、西口に東京府立尋常師範学校(現東京学芸大学)が開設され、池袋は、学生の街という新しい顔を獲得した。
以後、この界隈にはモダンな喫茶店や飲食店が軒を連ね、池袋は、郊外からの通勤客や学生、芸術家たちで賑わう華やいだ街として成長を遂げたのである。長崎町に日本のモンパルナスと呼ばれたアトリエ村が生まれたのもこの頃のことである。
昭和20年、度重なる大空襲により、池袋はそのほぼ全域を焼失した。当時「私の家から七八丁もある池袋駅が見通しになり」、それまでは見えなかった遠くの山々が遥かに望見できたと後に探偵作家の江戸川乱歩は記している。現存する乱歩邸(西池袋5丁目)周辺と、隣接する立教大学のみ奇跡的に羅災を免れたのである。
終戦後、焼け跡と化した池袋には、駅の東口及び西口周辺に巨大なヤミ市が形成された。小説家小林信彦によれば、ヤミ市はまるで「開拓時代の西部」の様な寡囲気で、異常な熱気にあふれていたという。昭和34年前後、池袋の再開発にともないヤミ市は撤去。現在は、東京裁判で有名なスガモプリズン(旧東京拘置所)跡地に建てられたサンシャイン・シティが、新たに池袋副都心の中心的存在となる、はずだったが…。
2.鬼子母神と寺町
子授け、安産で知られる雑司が谷鬼子母神は入谷と同様、ツノのない「鬼」の字を用いる。その起こりは永禄4年(1561)、雑司ヶ谷村の農民が土中より、一体の鬼子母神像を発掘したことに始まる(発掘地は現在の清土鬼子母神)。天正5年(1577)、これを盗み帰郷した安房の僧侶が、突如「みな人とく我をもとの所に送り還すべし」と
口走り出したため、仏像はすぐさま村に返還され、惣鎮守として厚く奉られたという。
鬼子母神信仰が広く普及した江戸期、特に寛文年間(1661〜73)には門前町も生まれ、多く婦人の参拝者で賑わいをみせた。鬼子母神堂(都文化財)は寛文6年の建立。豊島区に残る最古の建築物である。
境内近くでは、現在も名物「すすきみみずく」が売られている。この質素な郷土玩具は、天保年間(1830〜44)頃の境内を示す『江戸名所図会』の中ですでに描かれている。
鬼子母神のやや北に位置する威光山法明寺は、池上本門寺、堀之内妙法寺と並ぶ日蓮宗の大寺。江戸時代は、蓮光院、真乗院、木立寺等多くの塔頭・末寺を有し、付近一帯がその寺域だったという(現在、日蓮宗に塔頭・末寺の制度はない)。毎年10月18日には、法明寺、鬼子母神双方で開祖日蓮を供養するお会式が行われ、子供を中心にした練行列が繰り出される。
3.まんが道、トキワ荘の青春
のちに“漫画家の梁山泊”と異名をとったトキワ荘の誕生は、昭和27年12月。番地は旧椎名町5丁目2253(現南長崎3-16-3)。木造モルタル二階建てのアパートで、部屋はすべて4畳半。炊事場、トイレは共同だった。竣工と同時に入居したのが、当時27歳の“漫画の神様”手塚治虫。以後、寺田ヒロオ、藤子不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二夫等、志を同じくする新人漫画家がここに住み、足繁く訪れるつのだじろう達と「新漫画党」を結成、談論風発、彼らは大いに青春を謳歌したのである。
赤塚らが炊事場を風呂代わりにした話は有名だが、映画や書物には仕事がら支出を惜しまず、テレビを持っている者もいた。映画への興味は8ミリ制作にまで及び、藤子は住人総出演で、編集者と漫画家の壮絶な戦いを描いた「彼奴をねかすな」なる映画を作っている。こうした生活も昭和36年、石ノ森の転出を最後に終わりを告げた。トキワ荘は57年に解体、現在の建物は二代目である。
4.ジョン万次郎の帰還
万次郎は、漁師の子。土佐国足摺岬の生まれである。出漁中台風に見舞われ、アメリカの捕鯨船に救助されたのは、天保12年(1841)、彼が14歳の時だった。人々から“ジョン万”と可愛がられ、アメリカの高校を主席で卒業した。
念願の帰国を果たしたのは、漂流してから11年目のこと。自ら購入し、“アドベンチュラー号”と名づけたボートで、上海行きの商船から沖縄本島(薩摩藩)に漕ぎつけたのである。
薩摩藩主島津斉彬は、海外文明の摂取に熱心な開明的な人物で、自ら万次郎を下問した。彼はアメリカの政治、教育、軍備を堂々と論じ、「米國では人才によって尊卑が定まると云ったときには、藩公は目に見えて大きくうなづいた」という(井伏鱒二著『ジョン萬次郎漂流記』)。
万次郎は国元の土佐藩預けとなり、家族との再
会を喜んだ。だが家にいたのは、わずか2、3日。大目付役の吉田東洋は、彼を武士として登用し、藩校の教授に任命したのである。武士の身分は万次郎にとってかえってありがた迷惑。人目のないところでは、大小をかついで歩いたというが、英語、数学、航海術から世界地理、天文学にまで及ぶ彼の講義は、評判を呼び、後藤象二郎、岩崎弥太郎らが生徒に名を連ねた。藩校に入れなかった坂本竜馬は友人を介して、その知識を吸収していたという。
万次郎が江戸に出るのは、ペリー来航の嘉永6年(1853)。幕府高官の前でアメリカの実情を説明し、その後は通訳として咸臨丸に乗船しアメリカを再訪した。同乗したアメリカ海軍中尉の日誌によれば、行きに操鑑の指揮をとったのは、勝海舟ではなく万次郎だったという。明治31年(1898)没。墓は雑司ヶ谷霊園にある。 参考:『人物探訪日本の歴史17異郷の人々』
5.都電荒川線
東京に路面電車の敷設が始まったのは、明治36年(1903)以降のこと。以後、その交通網は急速に拡大。乗合馬車や鉄道馬車に替わって新たな都市交通の要となり、明治44年市街地内の路線が公営化されて以後は、路面電卓は市電・都電の名で親しまれた。「東京の名物ボロ電車 何時まで待っても満員でたまに空いたのが来たと思や 駄目駄目と手を振ってそのまま停めずにいきやがる‥‥」。最盛期を迎えた大正時代には、こんな歌まで流行る人気ぶりであったという。
現在、東京最後の都電として知られる荒川線の歴史は、明治39年に遡る。この年、桜の名所、飛鳥山への行楽客誘致を目的として、王子鉄道株式会社が創立。明治44年にまず大塚−飛鳥山間、続く大正2年(1913)には飛鳥山下〜三ノ輪間が開通し、それぞれ大塚線、三ノ輪線と命名された。
長らく「王電」の名で親しまれたこの路線は、郊外電車としての性格が強く、市電への統合も昭和17年と遅かった。王電は、震災の被害も奇跡的に免れ、路線網の拡張・整備に着手してゆく。大正14年には、大塚〜鬼子母神前間が開通、昭和2年には王子柳田から赤羽へと通じる赤羽線が誕生した。残る問題は、大塚線飛島山と三ノ輪線飛島山下を結ぶ不通区間で、省線(現JR東北線)が両線を分断していた。距離は僅か151m。だが、これも東北線の高架化により、昭和3年、直通運転を実現した。大塚線が、現在の早稲田まで路線を延長したのは、昭和7年のことである。戦時体制化に入り、王電は市電を経て、昭和18年、都制の施行により都電大塚・三ノ輪線及び赤羽線となった。旧王電の路線は、戦災をまたもや奇跡的に免れ、戦後に至る。
時代は高度成長期に入り、自動車全盛の前に都電の廃止は時間の問題となっていた。各地の都電廃止に伴い、赤羽線は昭和47年に廃止。続いて大塚・三ノ輪線の廃止も検討された。しかしこの路線は軌道の約90%が専用軌道ということも幸いし、沿線住民等の要望に都が応え、昭和49年、保存が決定。新たに都電荒川線の名称が与えられた。
沿線には、雑司が谷の鬼子母神、お岩様の墓がある妙行寺、コンドルの設計で知られる旧古河邸、王子駅前の紙の博物館等、多くの名所・旧跡が点在し、車窓からは懐かしい風情が垣間見える。
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