沿道のコラム

(4)本郷文学散歩(菊坂−神田小川町2.9Km)

 菊坂名所、菊富士ホテルの看板は自由で大らかなその気風。文人・学者が好んで止宿し、日本文壇史に一時代を画した。

    1. 神田祭
    2. 『銭形平次捕物帖』
    3. プロ野球のメッカ、後楽園・東京ドーム
    4. 江戸の医療環境
    5. 麻酔の発明者

1.かねやすまでは江戸のうち

 寛文年間(1661〜73)にはすでに中山道(現本郷通り)に沿って、一丁目から六丁目までの町並が続いていたという本郷界隈。だが、川柳に「本郷もかねやすまでは江戸のうち」とある通り、本郷三丁目交差点に今も開業する老舗「かねやす」より北側は、江戸の繋華も途絶え、加賀藩邸(現東京大学)等の武家屋敷地や農村地帯が広がっていた。川柳は、三丁目を境に急激に変化する景観の妙を表したものであろう。「かねやす」までが朱引内(御府内を示す線)であったとする説もあるが、朱引内は実際にはもっと広い範囲にわたっていたという。
 明治に入っても、北側方面の開発は遅れ、明治末期に本郷三丁目を起点とする市電が開通したが、三丁目以北に路線が拡張されたのは大正以降であった。
 東京大学正門に面した旧森川町や菊坂の界隈には本郷館等の下宿屋も多く、学生・文人の集う閑静な町として知られ、樋口一葉、徳田秋声、石川啄木等が住んだ。

2.菊富士ホテル物語

 菊坂沿いに崖を背にして聳えていたのが、大正・昭和初期の文壇史に特筆される高級下宿、菊富士ホテル。
開業は明治30年(1897)。大正3年(1914)内国勧業博覧会を訪れる外人客をあてこんで、洋式の新館を増築した。地上3階地下1階、塔屋上には電飾が輝いていた。止宿した文人達は、宇野浩二、正宗白鳥、谷崎潤一郎、尾崎士郎、宇野千代、直木三十五、広津和郎、坂口安吾、石川淳といった錚々たる面々。他に大杉栄、三木清、竹久夢ニ、伊藤大輔、近江俊夫等、各界の著名人が名を連ねた。
 大家である羽根田夫婦の経営方針はいたって大まか。月末には、部屋代を払うどころか、借金の無心に茶の間を訪れる止宿人も多く、鷹揚な羽根田夫人は「なんぼかいなあ」と貸し与えてしまうのである。共同の食堂にはいつでもお膳が置かれている上、新聞代や洗濯代、出前の払いまでホテルが立て替えておくという結構な方式。深夜、食堂に忍び込んで翌日分の食物をたいらげようが、止宿人から逮捕者が出ようが、夫人は「まあええがな」と一向に動じないのである。
 もっとも台所は火の車。部屋代を催促するのはもっぱら羽根田氏の役割だが、めっばう押しが弱く、大杉栄がまるで現金を支払うかのように堂々と借用書を手渡すと、思わずお辞儀をして受け取ってしまうのである。気のいい主人もある日、遂に癇癪を起こし、積もり積もった借用書を火にくべて燃やしてしまった。
 竹久夢二はといえば、油絵の美人画を一枚、部屋代の代わりに描いただけ。夢二が転居した後、主人は再び癇癪を起こし押入に詰まった夢二のデッサン画をまとめて風呂場の釜に放りこんでしまった。後年、値が張ろうとは思いもしなかったのである。このおおらかな経営者とルーズな止宿人達の生み出した“ずぼらで混沌”(宇野浩二)とした雰囲気は、瀬戸内晴美(寂聴)の「鬼の栖」に詳しい。菊富士ホテルは昭和19年に廃業。建物も大空襲により焼失した。

3.「婦系図」のモデル

 主税「お蔦、何も言わずに別れてくれ」。お蔦「切れるの別れるの、そんなことは芸者の時に言うものよ」。湯島天神の別れの場で有名な泉鏡花の『婦系図が「やまと新聞」紙上に連載されたのは、明治40年(1907)。もっともこの場面は新派演劇の創作で原作にはないのである。
 ところが主人公、主税とお蔦の関係は、鏡花自身がモデルであった。連載に遡る8年前、鏡花は芸妓すずと激しい恋に落ちたのである。だが、鏡花の師事した尾崎紅葉は、主税の恩師酒井先生そのままに二人の仲に猛反対。気の弱い鏡花に逆らえるはずはなかった。なにしろ修業時代の鏡花は、先生の原稿を投函した後、ポストの周囲を3度回って確認せねば気が済まなかったほどで、紅葉に対する崇拝の念は絶対であったのである。
 明治36年、紅葉の死によって、二人は晴れて結ばれたわけだが、師の命に反した鏡花の心中は複雑であったに違いない。「婦系図」では、お蔦の臨終の床に駆けつけた酒井にこう叫ばせている。「未来で会へ、未来で会へ、未来で会ったら、一生懸命縋(すがり)着いて居て離れるな。己のやうな邪魔者が入らないやうに用心しろ‥‥」。現実の鏡花夫婦はその後も仲睦まじく暮し、すず夫人は鏡花の死後も、夢で夫と語らったことを「あるじはかう申しました」とそのままに伝えたという。参考:巖谷大四「人間泉鏡花」他

4.神田祭

 山王日枝神社と並ぶ江戸の二大総社として名高い神田明神。天和元年(1681)以来、両者は毎年交代で大祭を催すが、これを天下祭といい、将軍家が、城内吹上御殿より上覧したことに由来する。天下祭の日だけは、庶民が江戸城内に入ることを許されたのである。
 神田祭の上覧は、元禄元年(1688)以来のこと。開催日は、9月15日(旧暦)。徳川家が関ヶ原の戦いに勝利した日である。神田明神は、悲運の武将として庶民の人気を集めた平将門を祀るとあって、祭礼は江戸随一の賑わい振りをみせた。
 特に山車の派手さは並ぶものなく、壮麗かつ勇壮な山車が続々登場し大向こうを唸らせたという。現在は、5月15日に近い日曜を中心に5日間にわたり開催される(隔年)。山車は廃止されたが、威勢のいい町神輿が大きな盛り上がりを見せる。

.『銭形平次捕物控』

 銭形平次は、ご存じ神田明神下の長屋住まい。作者の野村胡堂によれば、「町名をはっきり申し上げると、神田お台所町、もう少し詳しく言えぼ、鰻の神田川の近所、後ろに共同井戸があって、ドブ板は少し腐って、路地には白犬が寝そべっている」。お台所町は神田明神の男坂を下った辺り。実は明神下にあった作家、本山荻舟の家がモデルだという。
 『銭形平次捕物控」の執筆開始は、昭和6年。以来平次が手掛けた事件は383本に及び、西の名探偵ホームズの61本に比べてケタはずれに多い。岡本綺堂の半七、林不忘の釘抜藤吉、佐々木味津三のむっつり右門らの後をうけた、まさに捕物帳ものの集大成であった。「親分、大変だ!」の独特のセリフ回しは、胡堂本人の口癖から生まれたものという。
 ところでこの捕物帳の歴史上の解釈だが、江戸の泰斗、三田村鳶魚は、奉行所から、捕者のために出動した記録であって、同心や日明しの覚書ではなく、名称も捕者帳が正しいとしている。もっとも、八丁堀与力、最後の生き残りである原胤昭翁の手記には、心覚えの控えを残す同心のことが記されており、捕物帳があながち虚構のみの産物とも言い切れないのである。

6.プロ野球のメッカ、後楽園・東京ドーム

 後楽園球場が、小石川砲兵廠跡地に誕生したのは昭和12年。収容人数3万人。前年には上井草と洲崎にも新球場が完成していた。当時の職業野球団は、大日本東京野球倶楽部(現ジャイアンツ)、大阪野球倶楽部(現タイガース)など7球団、昭和9年12月に創立された大日本東京野球倶楽部は、選手のほとんどが、同年ベーブ・ルースらの全米軍と対戦した全日本軍のメンバーで、三原脩、水原茂、沢村栄治、ピクトル・スタルヒン等がいた。
 もっとも人気の方は大学野球に比べてさっぱり。野球を職業にするとはけしからんという声すらあったのである。一応スタンドは大入りになるが、これは入場料が破格に安く、婦人・子供は無料だったからだという。
 川上、水原らスター選手の活躍でどうにか人気も高まり、15年には87万人(戦前最高)の入場者数を記録した職業野球だったが、まもなく戦時に入り、後楽園は野菜畑と高射砲陣地に化した。
 プロ野球ファンが急増するのは、終戦以降。21年、青バットで有名なセネタースの大下弘は後楽園で20号本塁打をマーク。大下のホームランは、敗戦で打ちひしがれた人々に希望を与えたといわれる。セネタースは後、東急(東映)フライヤーズとなり、長く東京人に親しまれてきたチームとして、日本ハムファイターズの母体となった。現在、後楽園球場を本拠地とするチームは、このファイターズとジャイアンツ。
 63年3月にはわが国初のエアドーム型の新球場“東京ドーム”が完成。後楽園球場は、昭和62年11月を最後に、50年に及ぶ歴史を閉じた。日本ハムファイターズも平成15年のシリーズを最後に本拠地を札幌に移す。

7.江戸の医療環境

 現在、各地の寺院に残る江戸期の絵馬。そこには当時の庶民の様々な祈り、願いが込められている。中でも圧倒的に多いのは、やはり病気快癒の祈願であるという。
 ある推計によれば、江戸末期の市民に対する医師数の割合は、人口10万人に対して約86人。昭和51年時の統計が、同じく人口10万人に対して約118人であることを考えると、かなりの充実ぶりといえる。しかし中にはろくな知識も持たないニセ医者や悪徳医者もいた上、高額な診療を受けられるのは、ごく一部の特権階級に限られていた。そこで多くの庶民がたよりにしたのが、絵馬等に代表される信仰医療や、いわゆる「民間薬」だったのである。
 日本人の薬好きは江戸時代に始まった、とはよく言われることである。江戸期には、外国薬の輸入が急増し、人参の国産化も成功。薬草研究の隆盛もあって、薬の普及は目覚しいものがあった。徳川家康は、孫の家光が大病のおり、自ら調合した薬で治療にあたったほど、薬剤に精通していたという。
 しかし庶民は、「人参呑んで首くくる」といわれるほど値の張った朝鮮人参や、サイの鼻角を丹念に粉末化した鳥犀角といった高級売薬に手が出るはずもなく、もっぱら、駆虫のマクリ(海人草)、健胃のセンブリ、治瘡・利尿のドクダミ等、誰でも入手できるうえに危険の少ない民間薬に頼った。これらの民間薬をいろは歌に読み込んだ「妙薬いろは歌」なるものも、市井には流布していたのである。「急ぐ道歩いて息が切れるなら、はこべの汁に紫蘇入れてのめ 労咳や気うつの病には、はこべと榧の実を煎じのむべし、腹傷みあるいは下り渋るなら、芍薬の根を煎じのむべし」今でもよく耳にするこれらの薬草は、時として思いの他の効果を発揮したという。
 さて江戸期における成人の平均死亡年齢は、50歳程度。「人生五十」という決まり文句は的を得たものであった。近松門左衛門79歳、新井白石69歳、徳川光園73歳等の長寿は、例外的であったというべきであろう。なお平均寿命は驚くほど短く岐阜県大野郡宮村往還寺の過去帳に基づく須田圭三氏の研究によれば、男性28.7歳女性28.6歳と異常なまでの低数値が算出される。これは、乳幼児死亡率の圧倒的な高さによるものなのである。
 参考:立川昭二著『近世病草紙』(平凡社選書)他

8.麻酔の発明者

 麻酔の発明以前の外料手術が、どれほどの激痛をともなうものであったかは、思うだにゾッとさせられる。局部的な鎮痛効果をもたらす薬剤は、昔から洋の東西で知られていたが、本格的な外科手術に必要な全身麻酔となると話は別だった。日本における初の全身麻酔による手術は、欧米に先駆けること約半世紀、文化2年(1805)に行われた。
 漢方と蘭学の折衷を説いた紀州の外科医、華岡青洲が、通仙散なる麻酔薬を用いて前人未踏の乳癌手術に成功したのである。通仙散の主成分であるマンダラゲやトリカブトは、古くより鎮痛、麻酔の効能で知られていたもの。
 青洲がその調合方法を開発するにあたっては、実験台となった彼の妻が失明するなどの悲劇も引き起こされた。青洲の名声は日本中にとどろき、全国60余州のうち入門者のなかったのは、九州の壱岐と大隅の2ヶ国のみ。だが青洲は、全身麻酔法を秘伝として子孫や高弟にしか教えなかったため、一般への普及をみることはなかったという。欧米でエーテルやクロロフォルムの吸入による麻酔法が始められるのは、19世紀半ばのことである。

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