1.一葉日記
「十七日晴れ、家を下谷辺に尋ね、邦子のしきりにつかれて行く事をいなめば母君と二人にてなり……。」明治26年(1893)、21歳の樋口一葉は台東区(当時は下谷区)龍泉寺町に移り、荒物を売る小店を開いた。これはその時の日記、邦子とは3歳下の妹である。父に先立たれ兄たちとも別れた一葉は、ただひとりで家計のきりもりをせねばならなかった。
「何事もわれ一人はよし、母は老ひたり邦子はいまだ世間をしらず、そがおもひわづらふ景色を見るも哀れ也……。」(日記より)
当時一葉は、生活の面だけではなく精神的にもスランプ状態にあった。長年の夢であった小説家になること、それは一流文芸誌「都の花」に『うもれ木』等が掲載されたことで一応、果たされた。しかしながら同時に一葉は、失恋の痛手を味わう。師匠である朝日新聞の小説記者、半井桃水との仲を疑われ、交際を断たねばならなかった(この時の桃水あての書簡が一葉記念館に保存されている)。
傷心の一葉の心を慰めたのは、下谷の子供たちであった。店では駄菓子も扱っていたのである。龍泉寺町での一年間、筆を折っていた一葉だが、のちに執筆を再開した時まず心に浮かんだのは、この子供たちのことだった。こうして名作『たけくらべ』が生まれたのである。
2.通い馴れたる土手八丁
「火事と喧嘩は江戸の花」−−しかし江戸は成立当初より、火ばかりでなく水の災害にも悩まされてきた。河川により作られた沖積低地の宿命である。特に千住・浅草近辺には川も多く、洪水にあうことも多かった。元和3年(1617)4月には入間川が増水、同5年8月にも洪水で民家が流され、町には餓死者があふれた。翌年幕府は諸侯に命じ、水防のための土手を構築。浅草聖天町から簑輪(三ノ輪)に至る、高さ3メートル長さ1.4キロに及ぶ長大なものであった。日本中の大名の普請による故に「日本堤」といったとも、待乳山聖天で2本にわかれるから「二本堤」といったともいう。
明暦3年(1657)の新吉原移転後は、日本堤は遊客の通う道となった。俗にいう「通い馴れたる土手八丁」とは、このことである。ある者は駕籠で、ある者は土手沿いに流れる山谷堀を船で吉原に向った。土手も堀も今はない。また現在の日暮里駅北口から三ノ輪へと旧王子街道沿いに流れた音無川も暗渠となっている。音無川は石神井川の分水。根岸付近には田圃が広がり、文人墨客が好む閑静な土地であった。
3.橋場と対鴎荘
浅草北部、隅田川に沿う一帯を橋場という。文禄3年(1594)の千住大橋建設以前、この辺りには奥州街道が通り、人々は船で下総団に渡った。いわゆる「橋場の渡し」である。閑静な土地柄が好まれ、江戸から明治にかけて橋場は別荘地であった。『新撰東京名所図会』に「静なる土地にして。其の東方一帯は隅田川の流に沈み。風光甚だ愛すべきを以て、諸名家の別邸相連なれり。小松宮廷、伯爵有馬頼万邸、三条家別邸…」とある。「三条家別邸」とは明治の元勲三条実美の対鴎荘のことで、明治6年(1873)病に伏した実美を見舞いに明治天皇がこの地を訪れた。対鴎荘は現在、京王線聖蹟桜ケ丘駅そばに移されている。震災に焼け残った対鴎荘を購入した炭問屋石井久太郎氏が、明治通り開通による取り壊しが決まった際、初めて荘の歴史を知り驚嘆、移転・保存に冬力したのである。対鴎荘跡には「明治天皇行幸対鴎荘遺跡」の石碑が残されている。
4.玄白、腑分を見る
明和8年(1771)3月4日早朝、小浜藩藩医杉田玄白は千住骨ヶ原(小塚原)への道を急いでいた。この時玄白は、1冊の西洋解剖書をたずさえていた。本の名は『ターヘル・アナトミア』、江戸に釆たオランダ商館の一行から藩の公用金で買い求めたものである。ぜんたい小浜藩主酒井忠用は開けた人で、京都所司代の職にあった時最初の公認の人体解剖−−腑分を認めた人なのだ。以来腑分はたびたび行われ、この日も骨ヶ原で公開されるのである。途中玄白は浅草三谷町出口の茶屋で数人の仲間とおちあった。うちひとり、長崎帰りの前野良沢がふところより1冊の本を取り出した。これがまた『ターへル・アナトミア』。偶然に驚喜した玄白に更なる驚きが待ちうけていた。腑分に際して照しあわせたところ、本の記述はごく小さな器官に至るまで事実に異なることはなかったのだ。帰路玄白は仲間たちに切り出した−−。
「何とぞこのターへル・アナトミアの一部、新たに翻訳せば、身体内外のこと分明を得、今日治療の上の大益あるべし‥‥‥。」
こうして彼らは4年の歳月を費し、江戸蘭学の金字塔『解体新書』を完成させたのである。
5.「奥の細道」へ
延宝8年(1680)、芭蕉は賑やかな江戸市中を離れ深川の芭草庵に移り住んだ。しかしここもまた、芭蕉の「漂泊の人生」の中の仮の宿に過ぎなかったのだ。元禄2年(1689)には芭蕉は芭蕉庵を売り払い、『奥の細道』旅行のための旅費を稔出している。芭蕉46オ、芸術家として油の乗り切った時期であった。
同年春、芭蕉は深川から隅田川をさかのぼり、千住大橋の辺りで舟を降りた。
「千じゅと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそそぐ。」(『奥の細道』より)この時芭蕉が降りたのが隅田川のどちら側であるのか、はっきりしていない。そのためか現在では、句碑と記念碑が別々に建てられている。句碑は右岸(西側)にあたる、荒川区南千住の素盞雄神社にある。
「行春や鳥啼き魚の目は泪」
過ぎ行く春を惜しんで、人間ばかりか鳥や魚までが嘆き悲しんでいるという意味。勿論そこには、住み慣れた江戸を離れる芭蕉の悲しみが隠されている。記念碑は左岸足立区橋戸町の大橋公園内にある。このあたりには旧日光街道が通り芭蕉もまずは街道沿いに歩を進めたのであった。記念碑には次のような句が見える。
「街薄暑奥のほそ道ここよりす」
ホトトギス同人の為成菖蒲薗は、千住で青物問屋を経営していた。昭和の俳人の郷里に対する誇りが、この句に表われている。
6.近代工業のめばえ
都電三ノ輪橋駅より北に約500メートル、今の荒川総合スポーツセンターのあたりに日本羊毛発祥の地の碑がある。ここに官営千住整絨所が開業したのは、明治12年(1879)2月のこと。当時政府は富国強兵・殖産興業を2本柱に、各地に次々と官営工場を設立していた。千住製絨所の初代所長井上省三は、ドイツ仕込みの機械と技術をフルに活用した。広大な田地に芦生い茂る中、巨大な赤煉瓦の工場が蒸気機関で操業する様はまさに壮観であった。明治16、7年頃には区内初めての電灯が灯り、住民たちの目を奪った。
隅田川の流れは工業用水として大いに活用され、この一帯には次々と工場が建てられた。明治19年東京板紙会社、21年王子製紙千住工場、26年東京瓦斯会社千住製造所、39年東京毛織株式会社、42年大日本紡績株式会社‥‥。日本羊毛発祥の地は日本近代工業発祥の地でもあったのだ。
7.日光街道の初宿
千住は江戸四宿の1つ、日光街道の初宿として発展した町である。その歴史は文禄3年(1594)の千住大橋架橋にはじまる。架橋後間もなく付近に町並が形成された。旧日光街道の開通もこの頃のこと。慶長2年(1597)には人馬継立村に指定され、同9年には一里塚が設けられる。江戸日本橋よリ2里8丁、交通の要としての千住宿。その発展は日光街道を抜きにしては語れない。
日光は古来より関東修験の名山であった。元和3年(1616)、家康が久能山よりここへ改葬される。以来、歴代将軍は幕府をゆるがすような大事件が起きるたびに社参。家康=東照大権現への回帰を示すことによって、幕藩体制をひきしめている。いいかえれば日光東照宮は江戸城に並ぶ、幕府の権威の象徴であったのだ。街道としての整備は寛永12年(1635)、参勤交代制の定例化以来。旧日光街道が直線的なのは、ゆるやかに大名行列が進むこの制度に見合ったものであった。
参勤交代制が始まると、奥州・日光・水戸の街道筋の大名はすべて千住宿を通過するようになる。その数実に60余。当時千住宿とは今の荒川水除堤から北の一帯であった。そこに問屋場や本陣・脇本陣・旅宿が立ち並び、宿場町として飛躍的な発展をとげる。万治元年(1658)、寛文元年(1661)の2度にわたり拡大。既に青果市場が発展していた今の千住河原町あたりも含めた、千住宿八ヶ町が形成された。
宿の最大の任務は先にも述べた「人馬継立」、交通に必要な馬と人の補充である。幕府御用の継立ともなれば、すべて無料であった。千住市場の若者が御用札を立てて馬を走らせれば、武士もよけたという。問屋場では役人が幕府さげ渡しの秤により、規定以上の負担を人馬にかけぬよう検量していた。この貫目改所を初め、宿場町・千住の遺跡が今もいくつか残っている。
8.千住の酒合戦
文化12年(1815)10月21日、千住の飛脚宿中屋の隠居六右衛門は還暦祝に自宅で大規模な酒宴を開いた。その名も酒合戦。入り口には「下戸と理屈っぽい悪客の庵門に入るを許さず」と書かれた聯が掛けられた。それを承知で集まった客は総勢100余人。中には酒井泡一、亀田鵬斎、大田蜀山人、谷文晁といった文化人も多々見受けられた。1升以上の酒豪は番付に載せられ、その名も55人を数える。このときの様子は千住仲町内田家所有の『千住酒合戦絵巻』で、今にうかがい知ることができる。人々の飲みっぷりを鵬斎は、「狂える花の如き」とも「長鯨の百川を吸うが如」とも言い表わしている。これも内田家に残された酒盃「都鳥」は、直径46.3センチ高さ16.5センチの巨大なもの。鵬斎の言もあながち嘘ではなかったのであろう。それでいて蜀山人によれば「終日静かにして乱に及ばず」礼儀を失わなかったそうだから、あっぱれではないか。
9.語学ことはじめ
幕末の密航者、橘耕斎
鎖国の世では、外国に出る道は2つしかなかった。漂流と密航である。漂流ではジョン万次郎をはじめとして、漁民が多かった。帰国できたものは極めて希で、帰国できた彼らはどんな学者よりも、語学に精通した者として珍重された。漂流の例も数少ないが、密航ともなるとそれに輪をかけて稀であった。
安政元年(1854)、吉田松陰は下田で密出国に失敗、捕えられた。ところがその翌年、同じ下田港で見事に成功した者がいる。遠州の人、橘耕斎である。もともと掛川藩の上級武士であったが身を持ちくずして脱藩、殺人まで犯した。改心して仏門に入り、池上本門寺の幹事にまで昇進したがそこでまた女性問題を起して還俗。流れついた戸田でロシアの中国語翻訳官ゴシケウイツチと親しくなり、その手引きで密航に成功したのであった。その後耕斎の乗船していたアメリカ船はイギリスの軍艦に捕まる。耕斎はロシア入乗組員とともに捕虜としてロンドンへ護送され、やがてペテルスブルグに入った。ここでアジア局の翻訳官に採用され、ゴシケウイツチとともに『和魯通言比考』なる日露字典を発行する。耕斎が帰国したのは明治6年(1873)のこと。晩年はロシア政府から送られてくる年金で悠々自適の生活であったという。
最初の大辞典
天正18年(1590)、ローマに派遣されていた少年使節団の一行は8年ぶりに故国の土を踏んだ。この時一台の西洋印刷機が持ち帰られる。印刷機が日本におかれている間、キリシタン版とよばれるいくつかの本が印刷された。現在では、日本字の『和漢朗詠集』『どちりなきりしたん』、ローマ字つづりの『イソップ物語』『平家物語』、ポルトガル語の『日本大文典』など、29種が残っている。
ラテン語やポルトガル語の辞書も作られた。そのうち『日葡辞書』は3万3千語をおさめた、803ページに及ぶ大辞書。日本語の文語・口語・方言・女ことば・歌語の別などをポルトガル語で説明している。日本の呼びかたはニホンNifon、ニッポンNippon、ヒノモトFinomotoの3つが出ている。印刷機は慶長19年(1614)、キリシタン大名の追放とともにマニラに移された。鎖国令が完備したのは寛永16年(1639)である。苦闘を強いられた蘭学者たちは、果してこれらの本の存在を知っていたのであろうか。
10.博学多才の人平賀源内と江戸の物産フェスティバル
橋場2丁目の旧総泉寺境内に平賀源内の墓がある。博学多才の人として世に知られた源内が、江戸に出て来たのは宝暦6年(1756)、時に源内29歳。まずは本草学者田村元雄に師事する。本草学とは医薬の用に資するため、植物・動物・鉱物を採集・研究する学問。源内が打ち込んでいたのは、それを博物学的に発展させた物産学である。師とともにしばしば物産会を開き、江戸庶民の向学心を大いに煽った。
中でも特に有名なのは、宝暦12年(1762)の「東都薬品会」。この時の主催者源内の張り切りようは尋常のものではなかった。募集に際しても画期的な方法を開発する。すなわち全国各地に取次所を設置、出品者は「賃銭江戸払」の荷札を付けた品物を届けさえすればよかった。成果は上々で当日は1,300余種もの品物が集まる。保存・経費等の関係で開催日は1日しかない。漢方の匂いがたちこめる中、源内たちは汗だくで品物の真偽・効能を品評してまわった。「これなるは‥・」だの「これぞ本物‥」だの、人々に呼びかける声が会場に響きわたったのである。翌年源内は物産会のパンフレット、「物類品隲(ぶつるいひんしつ)」全6巻を刊行した。蘭画調の挿絵が多くとり入れられたこの本からは、当時の熱気がムンムン伝わってくる。全国各地の珍草・奇草、あるいは舶来のワニのアルコール漬けなどが、本草学の枠を超えて、若き源内の想像力を大いに刺激したのである。(
参考:芳賀徹「平賀源内」
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