沿道のコラム

(2)三田坂めぐり散歩(赤羽橋−伊皿子坂2.3Km)

 坂と洋館の町、三田。落ち着いた佇まいの裏には幕末から明治にかけての激動の歴史が隠されている。

    1. コンドルが遺したもの
    2. 落首に見る黒船来航
    3. お台場建設

1.坂のある風景
    
 「山の手の坂、下町の橋」といわれる東京の中でも、港区は特別に坂が多い。台地が川と海岸低地に複雑に侵食された地形に、名のついたものだけで100余を数える。「そもそも東京市は共の面積と人口に於ては既に世界屈指の大都である。この盛況は銀座日本橋の如き繁華の街路を歩むよりも、山の手の坂に立って遙かに市中を眺望する時、誰が目、にも容易く感じらるる処である・・・…」永井荷風が大正期の作品『日和下駄』にこう記した坂上からの景観は、高層ビルが立ち並び土地の起伏が目に見えにくくなった現在では、ほとんど消滅してしまった。例えば「潮見坂」の名は、現在ではとうてい信じ難いことであるが、坂上から芝浦が見渡せ、潮の干満を知ることができたことに由来している。同名の坂は三田以外にも多い(ちなみに東京の坂名ナンバーワンは、富士見坂)。
 坂の名はまた、公式の町名の補足的な役割も果した。山の手なら坂、下町なら橋を目印に、辻駕籠は江戸市中を往き来したのである。

2.会見の真相
 
 江戸無血開城をめぐる会談に際し、勝海舟は事前に談判決裂の場合の戦闘準備を怠らなかった。
 海舟が入手した情報によると、官軍は市街を焼きながら江戸城に攻め上る計画だという。自分の尻に火をつけて突撃するという恐るべき作戦だ。
 これに対抗して海舟が立てた作戦は、官軍に先んじてこちらでも自ら市街を焼き、官軍を火炎ではさみ撃ちにするという、これまた恐るべきものであった。海舟はさらに鹿喜の亡命をも研究してから会見に臨んだ。
 一方、西郷隆盛はといえば、会見以前すでに江戸城攻撃をなかば断念していた。というのも、官軍の後ろ盾となっていた英国公使パークスが、首都の戦乱で貿易に支障をきたすことを嫌い、総攻撃に反対したからである。かくして「維新のクライマックス」といわれる両雄の対決は、捨身の気合と冷静な計算の下に、江戸を戦火から救ったのである。

3.三田の御用盗

 慶応3年(1867)秋、江戸市中は強盗集団が大手を振って横行する無法地帯と化していた。強奪者たちは誰はばかることなく名のりを上げるばかりか、返して欲しければ三田薩摩屋敷まで取りに来いなどと大威張りで見栄を切り、略奪品を山積した荷車を連ねてゆうゆうと引き上げていったという。
 これは、徳川慶喜の大政奉還で戦争の口実を失った薩摩藩の、江戸や関東で騒乱をおこさせるための計画であった。益満休之助、伊牟田尚平、相楽総三らの指揮を受けた藩士ら数十名が、夜ごと豪商たちの屋敷に押し込んだのである。彼らは“三田の御用盗”と呼ばれ、これに乗じた単なる無頼の徒までが薩摩浪士を装って強盗を始めたものだから市中は大混乱に陥った。
 幕府はついに12月25日、2千の兵を出してゲリラの拠点三田薩摩屋敷を包囲、攻撃に及んだ。薩摩屋敷は壊滅したが、この事件は鳥羽・伏見の戦い、上野戦争などを勃発させた維新の動乱の端緒となったのだった。薩摩屋敷跡の一角に当る戸板女子短大には、薩摩の無名戦死者を弔う無縁供養の墓が一基残されている。

4.コンドルが遺したもの

 幻の都市計画〜宮庁街建設計画は、はじめコンドルの手に委ねられていた。明治16年(1883)に「鹿鳴館」を完成させたコンドルに、引き続き井上馨が白羽の矢を立てたものだが、結局その地味さゆえに実現に至らなかった。以後のコンドルはもっぱら民間の建造物をこしらえた。三菱の岩崎弥之助の別邸であった高輪の「開東閣」(明治41年)や大正2年(1913)の「三井倶楽部」は、彼の手になる数少ない現存する作品のひとつである。
 ジョサイア・コンドルは本国イギリス建築界の気鋭の新進として注目されながら、祖国の期待を振りきって明治10年、日本にやってきた。工部大学校(現東大工学部)の人気教授であり、踊りの師匠を妻にすれば、町絵師に弟子入りして暁英と名のりもする。華道を習えば庭も味わう風流の人であった。辰野金吾、片山東熊、曽禰達蔵、佐立七次郎といった建築界の巨匠たちは皆、コンドルの教え子である。彼らコンドル門下による建築物のほとんどは大震災にも負けないものだったという。
 事実、われわれは曽禰達蔵の「慶応義大学図書館」(明治45年)や片東熊の「旧赤坂離宮」(明治42年)をこの眼で見ることができる。

5.落首に見る黒船来航
 
「泰平の眠りをさます上喜撰 たった四はいで夜も寝られず」
 ペリーは初めからケンカ腰だった。日本の開国を要請するアメリカ大統領からの国書を、武力を行使してでも幕府に受けとらせる。いつでも大砲を発射する用意はできている。嘉永6年(1853)6月3日、浦賀沖に現れた黒船はこのような殺気をみなぎらせ、日本側の退去命令を歯牙にもかけぬ迫力で居坐ったのだった。
 たった4隻の艦隊であったが、黒船がもたらしたインパクトは大きく、江戸ではその夜のうちに食料や日用品の買占めが行われ、物価が急騰している。気分はもはや開戦前夜であった。それから黒船が去る12日までの一過間、老人や妻子を家財道具とともに郊外に疎開させるやら、旗本・御家人たちは鎧兜を買い集めに走り回るやら、江戸の町はパニック状態が続いた。人々は、黒船の江戸湾侵攻を知らせる早半鐘がいつ鳴らされるかと脅えて暮したのである。

「アメリカが早く帰ってよかったね また来るまではすこしおあいだ」
 開国すべきか否か。ペリーから国書を受け取ってしまった老中阿部正弘は大いに悩んだ挙句、ついに江戸市民にアイデアを募集した。これは徳川二百数十年の歴史で前代未聞の措置である。黒船撃退案の入選者は十万石の大名に取り立てられるなどというとんでもないデマも飛び出して、舞い上がった市民から無数の投書が寄せられたが、いずれも使い物には程遠い珍奇な代物ばかりであった。
 いわく、漁師を装って黒船に乗船、船上で大宴会を開く。隙を見て火薬庫を爆発させ、恐慌状態の米兵に出刃包丁で襲撃するなどという荒唐無稽な特攻大作戦もあれば、江戸湾岸に防御柵を張りめぐらせというのは、大儲けを企む材木屋の提案であった。有効な方策が見つからぬうち、翌嘉永7年(1854)正月、幕府の返答を開くためにペリーが戻ってきてしまった。

「よくきたな アメリカさまと そっといひ」
 結局は大事に至らなかった黒船騒ぎで、得をしたのは大繁盛した武器武具店だけだったのかも知れない。
3月3日、日米和親条約が結ばれ、ついに鎖国は破られたのである。
参考:教育社刊『維新前夜の江戸庶民』

6.お台場建設

 異国船が来航した年の嘉永6年の8月、伊豆韮山代官江川太郎左衛門英龍(ひでたつ)の献策により、幕府は江戸市街眼前の品川沖に砲台の建設を開始した。これがお台場である。
 当初の計画は、後楽園球場並の島を1年間で11ヶ所も造りあげるという、非常時ならではの破天荒なもの。約5千人の市民が、この突貫工手に駆りだされ、海陸の混乱ぶりは尋常ではなかった。土砂は泉岳寺の山や品川御殿山などを切り崩して、海岸より舟に積んで運んだ。当時の落首に「高縄(輪)でふりさけみればはるかなる 品川沖へできししまかも」とある。
 翌安政元年、第一〜三、五・六台場の計5基が完成したところで、工事は資金難により中止された。総経費は約75万両とも伝えられる。
 現在、第六台場とともに、残された第三台場(現お台場海浜公園)は、周辺埋め立て地区の開発も進み、若者の街へと変貌し、建設当時とは比べ物にならない平和な光景が見られる。

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