1.江戸の玄関
三田・高輪の台地上を通っていた東海道が、東側の海岸沿いの平坦な低地(現在の第一京浜)に移され、通行がグッと楽になったのは慶長6年(1601)。慶長9年に日本橋が五街道の起点と定められるまで、東海道の起点は芝であった。
現在も地名として残されている札の辻は、元和2年(1616)に芝口門が造営されたところ。高札場(法度・掟書などを記した板札を立てておく場所)が置かれたから札の辻と名付けられた。ここが江戸の入口で、当時は房総半島ま眺望できる絶景の地だったという。
宝永7年(1710)になると江戸の拡大にともない高輪に大木戸が設けられられ、ここが新しい江戸の玄関口となった。付近には茶屋が立並び、旅人やその送迎の人たちで賑わった。
お江戸日本橋七つ発ち…と歌いながら午前4時頃日橋を出発し、行列そろえてあれわいさのさ…と歩けば、ちょうど明け六つの頃ここに着いて、コチャ、高輪夜明けて提灯消すコチャエ、コチャエ‥。
ちなみ高札場もこちらに移されたから、人々は札の辻を律儀に元札の辻呼んだという。
2.品川宿
東海道第一の宿駅である品川宿は、芝高輪町から大井村までの南北約2kmに渡る、海沿いの細長い宿場町で、主に南品川宿と北品川宿のふたつに分かれていた。旅籠屋、茶屋などの飲食店、その他商店あわせて約1,600軒、住人約7,000人という大変賑やかな町だ。
品川宿は飯盛女と呼ばれる遊女が許されていたから、旅籠屋の多くは食売旅籠、すなわち遊郭で、吉原の北国に対して南国と呼称されるほど有名な遊興地でもあった。また、御殿山の花見、袖ヶ浦の潮干狩り、海晏寺の紅葉狩りなどで江戸市民の行楽地でもあったから、人々はそれにかこつけて遊郭を目指す人も多かった。客には僧侶と武士が多く、“寺”と“侍”の字にひっかけてこんな川柳も詠まれた。「品川の客にんべんのあるとなし」
3.受難の外交官
幕府が、アメリカ・オランダ・イギリス・フランス・ロシアの5カ国と通商条約を結んだのは安政5年(1858)。以後、開港場横浜に近いこと、都心をやや離れていること、大きな建物でありながら大名屋敷や神社のような政治的問題がないことなどから、港区内の真福寺、西応寺、済海寺などの寺院が各国の公館として使用されることになる。
一方、一般庶民や武士たちの間で高まっていた攘夷の風潮の中、幕末の外国人殺傷事件は計15回にのぼり、イギリス公使館が置かれた東禅寺などは2度も襲撃を受けている。最初は文久元年(1861)5月の水戸浪士14名による襲撃で、このときのきずや弾痕は今でも残っている。2度目はちょうど1年後の5月。意外にも護衛役の松本藩士がたった一人で起こした反乱であった。東禅寺ではそれ以前にも、安政7年に通訳の伝吉が門前で刺殺されている。麻布善福寺に駐在していたアメリカ総領事ハリスの通訳ヒユースケンも、万延元年(1860)中ノ橋に近い古川岸で7人の刺客に暗殺された。有名な生麦事件が起きたのが文久2年8月。初期の外交はこのような物騒な環境の中でスタートしたのだった。
4.英一蝶
英(はなぶさ)一蝶は、風俗画に秀れた手腕を発揮した江戸時代中頃の絵師である。承応元年(1652)大阪で生まれ、15歳のとき江戸に移った。狩野安信に絵を、松尾芭蕉に俳譜を学ぶ。元禄11年(1698)三宅島に流された。一説には彼の当世百人一首が幕府を批判するものとしてとがめられたのだといわれる。自家製絵の具で絵を揃いたりして12年、赦免の知らせを受けたとき、眼前を蝶が飛び、花に舞った。それで一蝶と改名した。このときすでに58歳であった。事保9年(1724)73歳で死去。一蝶の墓は承教寺にある。
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