1.白金と明治学院
江戸時代の白金は、武家屋敷と寺社領が広範囲を占めていた。現在の自然教育園及び東京都庭園美術館はかつての高松藩主松平讃岐守の屋敷跡、池田山公園は池田藩主松平内蔵頭の屋敷跡。また結婚式場八芳園は、旧大久保彦左衛門邸跡地と伝えられる。寺社領としては瑞聖寺、増上寺支院大崎八ヶ寺などが挙げられる。
同じ台地であっても東海道で栄えた高輪に比べ、森や田畑の多い閑静な土地であった。明治に入ると東京の拡大とともに市街地化されていくが、中でも特筆すべきは明治20年(1887)の明治学院の創立。人跡さえ絶えた寂寥の地にミッションスクール独特の洋風建造物が建てられてゆく様子は、人々の目を驚かせたに違いない。
当時の学院生の生活については、島崎藤村の自伝的小説『桜の実の熟する時』に詳しい。「界隈の寺院では勤行(おつとめ)の鐘が鳴り始めた。それを開くと夕飯の時刻が近づいたことを思わせる。(中略)捨吉が食堂を出た頃は、夕方の空気が丘の上を包んでいた。すべての情人を誘い出すようなこういう楽しい時が来ると、以前彼は静止(じっと)していられなかった‥‥‥」。藤村は卒業後、同窓の馬場孤蝶、戸川秋骨らと雑誌『文学界』を創刊した。明治の浪漫主義運動は、白金の地の豊かな自然が育んだものであった。
2.自然教育園と東京の植生
室町時代、白金長者の屋敷であったという自然教育園。種子植物718種、シデ植物47種、蘇苔植物62種が生育し、そのさまはさながら山の中のようである。それはかつての武蔵野の自然の姿でもあるのだ。
まず園内で最も広い領域を占めるのが、シイ林。東京の自然植生では、下町低地から武蔵野台地東部にかけて、シイ・タブ林が優勢だったと見られている。圏内のシイ林は、このことの一つの証明となっている。
また、園内にはマツ林、コナラ林なども見られる。現在のシイ林が多種多様の樹木のうちから時を経て安定したものであることを考えると、これらの林も数百年後にはシイに姿を変えるものと思われる。実際マツ林には成育の早い他の植物が入りこみ、夏になるとどこにマツがあるのか迷ってしまうほど。林は常に動いているのであり、こういったことが観察できるのも人手を加えない自然数育園ならではである。
園内にはアカガシ、シラカシをはじめとする、7種のカシも育成している。かつては武蔵野台地西部から多摩丘陵にかけて、シラカシ林が優勢であった。カシもシイと同じく、クチクラ層(表皮が厚く水や空気を通さないもの)をもつ常緑広葉樹。これらの発達は雨に恵まれ温暖な、武蔵野の気候に適応したものであった。
3.北里研究所の創設
大正3年(1914)北里柴三郎が、22年間も所長を務めた伝染病研究所(現東大医科学研究所・国立公衆衛生院)を辞めたのは、研究所の内務省から文部省への移管が彼に一言の相談もなく決められてしまったからだけではない。この移管は、伝染病研究と(内務省の仕事である)防疫の実践との分断を意味した。それが予防医学の先駆者である北里の信念に反したのである。このとき、全所員が彼につき従って辞職した。意気に感じた北里が全私財を投げうって創設したのが、北里研究所である。北里はすでに63歳であった。
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