1.渋谷発達史
渋谷村の変貌
渋谷は、読んで字のごとく、谷である。地下鉄銀座線の渋谷駅が、地上3階にあることがそれを示している。この谷の底にあたるのがかつての渋谷川。渋谷川沿いの一帯は、古くから農地だったが、あまり開発も進まず、生産性も低かった。江戸時代、渋谷村の農民の生活は、豊かなものではなかったらしい。渋谷川を利用し、水車を使って精米や製粉を行なう水車業が、渋谷村の重要な産業であった。これは、明治時代にさらに発展し、20年代には最盛期を迎える。明治後期に入ると、渋谷村にも人口流入、宅地化が始まり、農村は市街地へと姿を変えていく。特に賑やかだったのは道玄坂のあたりで、多くの露店が並び、現在にいたる商店街が形づくられていった。
道玄坂の発展・百軒店
関東大震災でほとんど被害のなかった渋谷には、焼け野原となった市内から、有名な店が続々と集まってきた。道玄坂の一画に、精養軒、資生堂、天賞堂といった名店の仮店舗が立ち並んでいたところが、いわゆる百軒店である。竹久夢二の『渋谷百軒店夜景』には当時の渋谷の様子が書かれている。「『文化生活には水道をお使いになるのが最も便利です』こんな風な(中略)宣伝ポスターが、渋谷の町々に貼られてから、もはや一年。震災のために下町がなくなってから、『新橋髪結、石川みね、仮営業所』と書いたポスターが貼られたり、資生堂が出来たり、栄太楼が宮益坂へ越してきたりして、(中略)渋谷の町は、宣伝ポスターによるまでもなく、まさに文化都市にな
ったようだ。二三町隔った郵便局へゆくにも、自動車の五台や八台道を妨げて走らぬ時はない‥‥。」
それらの名店は、市内の復興につれて、渋谷を去ったが、百軒店は、その後もカフェや映出館のある盛り場として栄えた。昭和10年代には、道玄坂一帯は西郊第一の繁華街だった。
戦後闇市の頃を経て、「公園通り」の誕生へ
渋谷区は、昭和20年の戦災でその78%を焼失した。戦後、その焼け野原に闇市がひしめきあった。渋谷駅周辺の闇市で名物だったのが、恋文横丁で、現在の「109」があるあたり。
恋文横丁という呼び名は、丹羽又雄の『恋文』に由来する。主人公はこの横丁で米兵相手の英文ラブレターの代筆を商売にしていた。
昭和40年頃まで、現在の公園通りは淋しい坂道だった。それが若者の流れで賑わうようになったのは、西武百貨店の進出以降。昭和48年に開店したパルコ・part1は、<すれちがう人が美しい−渋谷公園通り>と銘打ち、従来の渋谷のイメージを一新する出来事であった。
2.代々木の森の光と影
代々木練兵場
明治42年(1909)、この一帯は陸軍の練兵場となる。軍靴に踏み固められ、むきだしにされた赤土は、季節風に来って付近に埃公害をおこした。早くも練兵場移転運動がおきるが、失敗に終わる。その後、昭和11年には二・二六事件が勃発。叛乱将校13名、民間人6名の銃殺刑は代々木の陸軍刑務所内で執行された。実砲の音をまぎらすため、練兵場では空砲が鳴り響いたという。現在の二・二六事件慰霊塔は、この処刑地にたっている。
現在の代々木森林公園。江戸時代は人名・旅本の下屋敷の地であった。維新後、北部は虫室の御料地、南部は民間に払い下げられて山林や農地になる。当時の内部の姿を国木田独渉(1871〜1908)は名作「武威野」に描写した。例えば以下の如く―。「(武蔵野の初秋は)林はまだ夏の緑の其のままであり乍ら空模様が夏と全く変ってきて雨雲の南風につれて武蔵野の空低く頻(しき)りに雨を送る其晴間には日の光水気を帯びて彼方の林に落ち此方の杜にかがやく…。」豊かな自然と光に満ちた武蔵野の姿は明治40年頃より軍部が買収し、
変容をとげる。
戦後の歩み
昭和20年8月、この地は米軍が接収。ワシントンハイツとよばれる宿舎がつくられた。表参道には米人相手の店が並び、有名な玩具店キデイランドも最初はアメリカ人の子供を対象としていた。昭和39年オリンピック開催にあたり、渋谷の主婦達はいわゆる“オシャモジデモ”を行ない選手村を誘致。また丹下健三設計による2つの屋内競技場がユニークな姿を現わす。
米軍立ち退き後、練兵場以来50年余り「聖域」だった土地も車で通り抜けできるようになった。表参道付近には新しいスナックができ、昭和41年には、ハンバーガーやコカコーラを片手にスポーツカーやオートバイを乗り回す若者たち、いわゆる「原宿族」の出現は、昭和50年代の「竹の子族」ブームに引き継がれていった。原宿は東京から世界のファッションを牽引する街として君臨した。
3.日本航空界発祥の地の碑
明治43年(1910)、日本初の航空機の試験飛行が代々木練兵場で行なわれた。当初の予定地は所沢飛行場であったが、軍が購入した直後で名物のさつま芋を引きぬいたばかりの柔かい土地だったことから不適格となった。徳川好敏大尉がフランスのアンリファルマン式複葉機に、日野熊蔵大尉がドイツのグラーデ式単葉機に乗り込み、試験飛行は一週間続けられた。「満都の人気は今日の公開飛行機に集り代々木の原は人をもって埋まる」と報道されたという。
試験開始2日目に、日野機は高度2メートルで100メートルを飛行、4日日にはやはり日野機が高度3メートルを記録する。7日日の試験最終日、徳川機は高度70メートルにまで上昇し、飛行距離3000メートル、滞空時間4分の記録を出した。これが初飛行の正式記録とされ、日本最初のパイロットの栄冠は徳川大尉のものとなった。日本航空界発始の地の碑が今に残る。
4.震災復興と同潤会アパート
大正12年(1923)、関東大震災後の帝都復興のため、同潤会と呼ばれる建設組織が国の手で創設され、大正15年から昭和9年までの間に16ヶ所が建設された。会の目的は、住宅をはじめとする震災救護に必要な施設の経営だったが、活動の中心は鉄筋コンクリート(RC)造りのアパート建設であった。木造住居の10倍の費用をかけて建てられた同潤会のRC造のアパートは、中庭や螺旋階段、曲面をなすファサード(建物の前面)など凝ったデザインのものが多く、その外観は大いに目を楽しませてくれる。
これらのアパート建設は、難民救済や、耐震耐火設備の充実だけを目的としていたのではなかった。不良住宅改良事業としてスラムの解消をはかる一方、新しい共同体の場づくりをも目指していたのである。青山アパートはその初期のもので、日本でも初めての本格的なアパートメントハウスとして、大正期に急増したサラリーマンたちに洋風の都市生活を教えた。
それらのアパートは全解体あるいはその一部を残して再開発されている。現存するのは上野下アパートのみである。
5.日本で一番有名な犬
「その犬はあるときは駅長室の前あたりに座っていた。またある時は、東横線の改札口のところにごろりとなっていることもあり、荷物の出し入れ口のところに横たわっていることもあった。」(戸川幸夫『猛犬忠犬ただの犬』)
これが有名になる前のハチ公の姿である。ハチが深部や駅に居つくようになったのは、大正14年に飼い主である上野英三郎教授が亡くなってから。教授の存命中、ハチは教授のお供をしてたびたび渋谷駅に通っていた。
主人をなくしたハチにとって、通い慣れた渋谷駅は居心地のよい場所だったようだ。単なる野良犬に過ぎなかったハチは、昭和7年新聞記事に取り上げられて一躍国民的スターになる。「主人の帰りを待ち続けるけなげな忠犬」の物語は異様なまでの人気を呼び、銅像が造られた時にもハチはまだ生きていた。
その除幕式を見たハチも翌昭和10年3月8日、駅近くの路地裏で息絶えた。銅像は手向けの花に埋もれたという。飼い主上野英三郎博士とともに、青山墓地の墓に眠る。
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