1.赤坂・今昔
坂の多い複雑な地形を持つ赤坂。かつては高台には豪邸がたたずみ、ふもとには花柳界が息づいていた。
新興歓楽街が時の声をあげ、ファッショナブルな店が軒をつらねる町、赤坂。そこには新しいものと古いものが入り乱れている。
ところで赤坂は、戦前戦中はラッパの音で明け暮れる兵隊の町だった。町の人々は、時報がわりに開くラッパの音に歌詞をつけ口ずさんだという。
陸軍の町であった赤坂は、戦災によってその80%が灰燼に帰した。比較的傷跡が浅かったのは、外堀通り東側の高台にあった皇室一門、華族、富豪のお屋敷街。しかし戦後GHQが施行した財産税の高負担に耐えかね、邸宅群は巨大ホテル、大使館へと変貌を遂げていく。一方、外堀通り西側は戦火の波をもろに被った地域だが、戦後いちはやく花柳界が復興した。
ところで戦後のこの界隈を特色づけるのは一ツ木通りの発展であろう。その発端となったのは昭和30年のTBS開局といわれる。
2.二・二六事件顛末
陸軍の町赤坂は、昭和11年2月26日、二・二六事件で歴史の舞台に登場する。25日の夜東京では30年ぶりの大雪が降っていた。国家革新を唱える青年将校たちは、約1400名の兵隊を率いて、総理大臣官邸をはじめ政府首脳の官邸、私邸及び警視庁を襲撃。政府要人たちの暗殺を決行し、国会議事堂を中心とする日本の政治の心臓部を占拠した。
事件に参加したのは、赤坂一ツ木町の近衛歩兵第三連隊(現TBS)、赤坂檜町の歩兵第一連隊(元防衛庁)、麻布新龍土町の歩兵第三連隊(現東大生産技術研究所)で、赤坂になじみの深い連隊が含まれていた。重機関銃のほかに軽機、小銃、拳銃などで武装し「尊皇討奸(そんのうとうかん)」の旗をかかげた決起部隊は、山王ホテル、料亭「幸楽」(現プルデンシャルタワー)などに宿営。外堀通りの市電が遮断され学校は休校となり、赤坂の町は極度にはりつめた空気に包まれた。
叛乱軍討伐の奉勅命令が下り、武力による鎮圧開始が決定されたのは29日早朝。赤坂のあちこちに市街戦のバリケードがつくられ、轟音とともに、戦車が町を走った。東京湾御台場沖には軍艦40隻が集結し、主砲は号令一下、艦砲射撃をあびせるべく、照準を赤坂、永田町の方向にぴたりと合わせていた。
しかし、愛宕山の東京放送局から送られた最後の呼びかけに「逆賊」と名ざされた青年将校たちは、深いあきらめとともに投降を決意。決戦開始が10分後に迫った29日午前8時50分、事件は武力をまじえることなく、ひとまず落着した。民間人を含む17名の被告たちに死刑の判決が下ったのはその年の7月だった。
3.乃木大将の殉死
陸軍大将乃木希典(まれすけ)は、嘉永2年(1849)、現在の六本木テレビ朝日構内にあった長府藩毛利甲斐邸に生まれた。毛利邸はかつて赤穂浪士が切腹した場所でもある。若い頃の乃木大将は文学志望のお洒落な軍人であった。明治19年(1886)のドイツ留学以来、謹厳無比な人格に一変する。明治天皇の崩御に際しては、それに殉じて割腹自殺した。御大葬のその日に起きた大事件は世間を大いに騒がせる。 当時新聞記者であった作家の生方敏郎は、著書「明治大正見聞史」の中で乃木大将自殺事件の報道についてこんなエピソードを披露している。
事件の報が入った途端、新聞社内は乃木大将を非難する声で充満した。御大葬の報道合戦で忙殺されている時によりによって、というのが理由だが、中には思想的な意味あいからその行為を批判する者もいたようだ。にもかかわらず翌日の新聞は乃木礼讃の記事で埋まり、生方を驚かせたという。
4.赤坂氷川屋敷と「氷川清話」
「おれが海舟という号をつけたのは、佐久間象山の書いた『海舟書屋』という額がよくできていたから、それれで思いついたのだ。」(氷川清話)
勝海舟は明治5年(1872)氷川神社の裏手崖下、赤坂氷川屋敷に居を移す。維新により多くの武家屋敷が住人を失い、さびれた状態にあった赤坂に、政府高官などが新しく移り住みはじめた頃のことである。屋敷は旗本・柴田七九郎より買い受けたもので、敷地は約2500坪(8000u余り)、江戸の名残りを残す武家屋敷であった。向かいの赤坂福吉町の高台にはかつての将軍家の世継にあたる、徳川家達公が住んでおり、海舟はその後見役でもあった。
氷川屋敷に移ってからの海舟は、悠々自適の生活を楽しんだ。洋風の食事を好み、カフェ、ケーキ、銀座木村屋の餡パン、築地かめやのバターがお気に入りで、赤坂の氷川屋敷に行くとカフェが飲めると評判なった。
晩年、勝邸には弟子やファンが度重ねて訪れ、海舟は人々に問われるままに小話を遺した。明治30年当時、海舟翁の談話筆記は読者に喜ばれ、国民新聞、東京朝日、東京毎日が、それぞれ聞き書きを掲載。本としても纏められ、中でも吉本襄の「氷川清話」は有名である。
旧氷川小学校跡(赤坂6-2)が勝海舟邸跡にあたり、同校の裏門すぐそばにある遺愛の大銀杏の下には碑が立てられている。
5.明治の赤坂と芸妓
明治22年(1889)溜池が埋立てられた頃、外堀通りの西側一帯には新しい料亭街が形成された。薩長土肥の旧藩閥の政治家や華族など旧勢力が好んだ新橋に対して、赤坂には自由民権運動の政党人、中堅官僚、新興実業家たちが集まった。
こうした客層の気風を反映してか、芸妓の気質も新橋とは一線を画していたといわれる。「酒は正宗、芸者は万竜」と歌われた春本の万竜は、赤坂芸者の名を天下に轟かせた名妓。三越呉服店が広告写真のモデル料に大枚をはたいて惜しまなかったというほどの美貌を持ち、今も一ツ本通りある書店「金松堂」では、当時披女を扱った絵葉書が刷るそばから飛ぶように売れたという。
その万竜が惜しまれながら赤坂を去ったのは、明泊43年(1910)。箱根で避書中、洪水に遭い危急に陥った万竜を、身を挺して救助した帝大生との恋が成就したからだった。
6.真理がわれらを自由にする
国会図書館が創設されたのは昭和23年。国会図書館法の前文には、「真理がわれらを自由にする」の一文が聖書から引用された。起草者は、歴史学者で当時参議院議員だった羽仁五郎。戦前の暗い時代への反省から、彼は政治家としても精力的に動き、同図書館の枠組をつくった。 「不幸の大部分は無知から来るんです。(中略)大学の教授は真理を守る善意があってもその環境がない」「たのむ所は議会…つまり合理的な充分の資料に基づいた立法活動ができること」(国会図書館記念講演より)
国会図書館は行政府から独立し、しかもあらゆる文書の公開を求めることのできるしくみをもつ。そして専属のスタッフが独自の立場から、調査を行い法律案の起草に奉仕している。国会図書館法に従ってこうした図書館活動の基礎を築く上では、初代副館長中井正一の力が大きかったと言われているが、彼は30代の若さで羽仁に招かれたのであった。
昭和29年3月の衆議院予算委員会席上、社会党の西村栄一議員は、防衛分担金の問題から時の首相吉田茂を鋭く追いつめ、有名なバカヤロー解散の口火を切ることとなった。この時西村が手にしていた調査資料は、国会図書館によって作成されたものだったという。
議事堂周辺には、このほか立憲政治家尾崎行雄に因む憲政記念館があり、議会制民主主義の歴史を刻む地となっている。
7.江戸土俵の超人・雷電為右衛門
文化年間(1800年代)、江戸一番の力士として人々の注目を集めていたのは、雲州松平侯(屋敷跡は現赤坂東急ホテル)お抱えの雷電為右衛門であった。雷電は、明和4年(1767)頃に長野県で生まれたと伝えられる。顔は並はずれて長く、濃い肌合に、1メートル97センチ、170キロの仁王尊のような筋肉質の身体つき。土俵に上り仕切りをするだけで、相手力士を逃げ腰にさせたという。おまけに手の大きさは、現存する手形によると幅13センチ、長さ23.3センチというケタ外れのもの。雷電を讃えた歌を蜀山人が詠んでいる。「萬里をもとどろかすべき雷電の手形を以って通る関取」 雷電はその上ものすこい大酒呑みだった。日本酒2斗(36リットル)を飲んだと記録されている。
寛政2年(1790)雷電は江戸番付に「西関脇」としていきなり登場、その初土俵で優勝をさらった。破天荒な超人ぶりは、人々を唖然とさせ、引退するまでの21年間に優勝27回、264戦254勝、勝率9割6分2厘という快挙をなしとげた。生涯に10敗しかしなかった。文政8年(1825)」59歳で死去。三拾貫(約113キロ)の力石を置いた墓は、三分坂下の報土寺にある。
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