沿道のコラム

(2)内藤新宿散歩(新宿駅−四谷大木戸2.0Km)

 江戸時代の甲州街道。内藤新宿はその代表的な宿場町。今の御苑から追分まで、旅人の心を慰める、旅寵屋が軒を連ねた。

1.内藤新宿の誕生と繁栄 
 
 「四谷新宿馬の糞の中であやめ咲くとはしほらしい」と狂歌に歌われた内藤新宿は、元禄11年(1698)、新宿1丁目から3丁目にあたる甲州街道筋に開設された。
 当時日本橋から第一の宿、品川、板橋、千住は宿場のほかに歓楽街としても栄えていたが、甲州街道第一の宿高井戸までは距離が長く、途中に宿場を必要としていた。そこで新しい行楽地づくりをもくろむ浅草の名主や町人たちが宿場設置を願い出たのである。
 幕府は内藤家下屋敷から敷地の一部を返上させ、商人たちからは権利金を取って宿場を整備させた。宿場の中央にある問屋場は、荷物を運ぶ宿継ぎの伝馬や人夫を常備していた。
 問屋場の近くに大名の泊る本陣があり、街道沿いには旅籠屋が並んだ。享保3年(1718)、新宿は廃駅となる。風俗統制によるものといわれるが、安永元年(1772)には再開され、大いに繁栄した。狂歌の馬の糞は活発な伝馬の行き来を意味し、あやめは飯盛旅籠の食売女(めしもり女、遊女)のこと。

2.ターミナルと盛り場(明治期の新宿)
 
 維新後しばらく寂れた状態であった新宿に、新宿駅が開業したのは明治18年(1885)のこと。今の山手線の前身にあたる品川線(赤羽〜品川間)が開通したのである。その後明治22年には、今の中央線の前身にあた
る甲武線(新宿〜立川間)が開通。
 当時の駅近辺にはまだ、草原が広がっていた。やがて明治36年には新宿・半蔵門間に市電が開通。大正2年(1913)に京王線が開通する頃には、新宿は東京中心部と郊外を結ぶ地点として、クローズアップされるようになる。
 かつての宿場町の活気を取り戻した内藤新宿は大正9年、東京市の一部として四谷区に併合された。
 当時の新宿駅は、江戸時代の“街道”の名残りも濃い、青梅街道口駅と甲州街道口駅の二つに分かれていた。震災後それらはまとめられ、近代的なコンクリート造の新宿新駅が誕生した。
 これを機に三越を始めとする多くのデパートが進出し、新宿は新たな発展を迎える。昭和2年、小田急線が開通する頃には、駅から追分に至る新たな人の流れが形成され、映画館や劇場がたち並んだ。
 洋画封切館として有名な武蔵野館もその1つで、徳川夢声をはじめとするスター級の弁士が集まり、バレンチノの「熱砂の舞」やリリアン・ギッシュの「嵐の孤児」といったアメリカ映画の名作に、見事な活弁をつけた。昭和4年にはトーキー映画の先駆けである「進軍」を公開し、大ヒット。劇場では、新歌舞伎座(新宿第一劇場)をはじめとする大劇場の他に、オランダ風車のイルミネーションで知られるムーラン・ルージュが有名。定員430人という小劇場で、浅草のお笑い中心の軽演劇に対抗して、インテリ向けというふれこみで諷刺劇を上演した。
 ところで、後に文壇・芸能界に多くの逸材を送り出したこの劇場も、昭和6年の開場当時は全くの不入り続きだった。関係者は新宿駅の伝言板に「ムーランで待つ」と書きたて、銭湯や床屋で「今度のムーランは面白いねえ」と吹聴した。客足が急速についたのは一座の歌手、高輪芳子が青年作家とガス心中をはかってから。スキャンダルが最大の宣伝となった訳である。
 これらの娯楽施設と並んで、新宿にはカフェや酒場が林立し、新興都市独特の熱気が渦巻いていた。昭和10年の伊勢丹デパートの進出は、その象徴的な出来事となった。

3.五街道と江戸四宿
 
 家康が諸街道の整備にとりかかったのは、関ヶ原の戦いに勝利した慶長五年(1600)。慶長六年には東海道、その翌年には中山道、奥州道中に駅制を布設、以上の三幹線に日光道中、甲州道中を加えたものが五街道である。
 その里程の起点を江戸日本橋とし、五街道の最初の継立駅として、東海道に品川、中山道に板橋、奥州日光道中に千住、甲州道中に上・下高井戸を置いた。後になって、甲州道中には内藤新宿が設置された。これらの宿場は、江戸四宿と称されるようになる。日本橋までの距離は、品川宿と内藤新宿が二里(約8キロ)、板橋宿が二里半(約10キロ)、千住宿が二里八町(約8.9キロ)。当時では下町あたりからブラリ出かけるにはちょうどいい距離で、四宿は江戸町人の遊興の地としても大いに賑わった。

4.鶴屋南北 
 
 「四谷怪談」の作者は四世鶴屋南北。一般に南北と云えばこの人のことで、俗に大南北と呼ばれる。宝暦5年(1755)、日本橋は新乗物町(現人形町)の型付職人の子として誕生、近くには中村座のある堺町、市村座のある葺屋町があった。24歳にして中村座の番付に名を連ね、のち森田座へ。鶴屋南北を襲名したのは文化8年(18ll)、57歳の時であった。南北は生世話物と呼ばれる写実劇を作る一方、ケレン味たっぷりの怪奇ものを多くのこした。 客の意表をつくことを好む性向は、しばしば舞台に葬礼や棺桶を登場させる。自分の葬儀の時に配った摺り物には、自作「月出村廿六夜諷」にちなみ、棺桶を砕いて踊り出る南北自身が描かれていたという。
 「四谷怪談」以外の作品にも、宙乗りや早変わりといった視覚的アイデアが多く採り入れられており、現在では歌舞伎界の異才、市川猿之助によってしばしば演じられている。
参考:岩波新書「四谷怪談」

5.真説「お岩伝説」 
 
 南北の「東海道四谷怪談」は、当時巷に広がっていた寛文年間のお岩伝説をモデルにしたもの、と云われている。「文政町方書上」に収められた当時の記録から、そのあらましを追ってみよう。
 四谷左門町付近に田宮伊織という幕府の御家人が住んでいた。ある日、大病で床に臥した伊織はお家断絶を回避するため、浪人伊佐衛門を一人娘お岩の婿として迎える。この時、間に立ったのが桃山長佐衛門なる男。伊織の死後、お岩と伊佐衛門はしばらく仲睦まじく暮らしていた。そんなある日、伊佐衛門の上司である伊藤喜兵衛の愛妾お琴が妊娠してしまう。体面にこだわる喜兵衛は長佐衛門と組んで、伊佐衛門にお琴を押しっけようとする。 伊佐衛門とて天然痘の後遺症で容色秀れないお岩よりも、美人のお琴の方がいい。こうして三人の男たちの共謀による、お岩追い出し作戦が始まった。まず伊佐衛門がわざと家に寄りつかなくなる。心配するお岩に、長佐衛門は他家へ奉公に出るように勧めた。夫を改心させるためなら、とお岩は長佐衛門の言葉を真に受ける。邪魔
者が居なくなった後、伊佐衛門はお琴を屋敷に呼びよせた。その噂がお岩の耳に入ったからたまらない。信じていた夫に裏切られた彼女は半狂乱となり、あわれ最後は堀に身を投じたのである。
 お岩の死後、伊佐衛門の身辺には次々と奇怪なことが起きた。まずお琴が死に、お琴との間に儲けた子供も死ぬ。長佐衛門とその妻も、伊藤喜兵衛も相次いで世を去った。そして当の伊佐衛門も間もなくあの世へと旅立った。これを聞いた世の入皆、お岩の崇りと噂しあったという。
 以上が巷説のお岩伝説であるが、崇りといえば芝居のお岩さんの方にもあったようである。昔から「四谷怪談」を上演した芝居小屋には、怪我をする役者などが続出した、といわれる。このため今でも歌舞伎関係者は「お岩さま」と、決して呼び捨てにしない。そして上演前には必ず、四谷の稲荷さまに参詣するのが習わしになっている。
参考:新宿区教育委員会編「ガイドブック新宿区の文化財(6)伝説・伝承」他

 

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