1.外掘と見附
かつて江戸城には、内堀・外堀と二重の防衛線がしかれていた。外堀は、汀戸城最後の大工事として寛永13年(1636)家光の時代に完成。隅田川から神田川を経て、溜池、江戸湾へと巡り、全長20キロ以上に及んだという。 掘削した土砂は内側に盛られて土塁になった。現在花見の名所となっている四ッ谷駅から上智大学に沿ってのびる堤は当時の土塁の名残りである。外堀と土塁で構成されていた江戸城外郭の要所には、見附と呼ばれる防衛上の拠点が設けられた。見附は石垣と門で守りを固め、攻めにくいように周囲の道路をジグザグに切るという備えがなされた。赤坂見附は特に門構えが立派だったと言われる。こうした見附は江戸城全体で36ヶ所。その更に外側にも幕府は様々な防備をした。四谷寺町の形成もその1つである。また新宿百人町は、鉄砲百人組が住んでいたことからこの名がついたという。
2.赤坂溜池
赤坂見附から日枝神社の西南一帯にかつて溜池と呼ばれる大池があった。溜池が外堀の一環として築造されたのは慶長11年(1606)のこと。玉川上水以前の江戸水道の水源として、水質のよさと風光明眉な景観を誇っていた。また葵坂の北側(虎ノ門と霞ヶ関ビルの間)の地点は、汐留方向へ流れる水の落ちる音が絶えないことから「赤坂のどんどん」と呼ばれた。
溜池は、土砂の流入や廃棄物の沈殿で徐々に狭まり、明治10年頃工部大学校建設の際、堰堤を2尺(60センチ)動かしたところ、あっという間に干上ってただの溝川になったという。
3.テロリストが狙う紀尾井坂と食違見附
上智大学グラウンド南端のあたりにあった喰達見附は、石垣と門を持たない見附だった。この見附から清水谷方面へと下る紀尾井坂周辺は、江戸時代、広大な大名屋敷の立ち並ぶ武家地。大政奉還後、それらの屋敷はうち捨てられ、のび放題になった庭木はうっそうと茂って紀尾井坂をおおったという。明治6年(1873)皇居が炎上し、天皇・皇后両陛下が赤坂離宮へ遷座すると、このあたりは参内に訪れる政府高官の通り道となった。明治7年、時の参議岩倉具視は喰達見附において襲撃のうき目にあう。堀へ飛びこんで辛くも虎口を脱したのだった。人影の少ない淋しいところである上、複雑な地形は身を隠しやすく、暗殺者にとっては格好の襲撃場所だったのだろう。明治11年には、維新の元勲大久保利通が紀尾井坂で襲われ一命を落とした。藩閥政治に対して不平を唱える士族たちの兇刃にかかったのである。
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