1.本門寺と門前町
池上の地名は、鎌倉時代の領主であった池上宗伸一族に由来するとされていたが、近年の調査では本門寺南に池があったと推測され、この池の上に村が作られたことから、地名や一族の姓が生じたと考えられている。
弘安5年(1282)、病気療養のため身延山を下山した日蓮は、熱心な日蓮信者であった宗仲の館(現在の大拓本行寺)を訪れ、ここで入滅した。宗仲は法華経一部入巻#の文字数に相当する69384坪(約23万u)を寄進し、これを受けた日蓮の直弟、日朗らが寺院化を進めたという。以来、本門寺は関東の有力武士たちの庇護の下に発展を続けた。慶長年間(1596〜1615)には徳川家康より寺領100石を受けるなど、寺域の整備が進み、関東一の大伽藍と称されるほどになった。中でも二代将軍秀忠の乳母正心院(岡部局)の建立になる五重塔は、関東では最古・最大の塔として知られる。
日蓮入滅の地として、本門寺には江戸市中からもはるばる参詣客が訪れた。すでに江戸後期には、本門寺参道と旧池上道(平間街道)に沿って門前町が形成され、茶店、酒屋、旅寵、くず餅屋等が軒を連ねた。現在の池上通りの裏通りに当たる平間街道は品川と川崎を結ぶもので、通行人も多く、門前町は賑わった。1860年に江戸入りしたプロシアの全権大使オイレンブルグは門前の様子を次のように記している。「この小さな村は江戸の西南にある。江戸の人びとは、美しい寺院の境内があるのでよくここを訪れている。(略)茶店は、都会の洗練さはないにしても、清潔さ、客扱いのよさ、すばらしい料理ゆえに、いかなる希望をも充たすものであった。(略)橋の左の大きな石に記された碑銘は、神域に入ることを暗に示している」。この橋は参道途中の呑(のみ)川に架かる霊山(りょうぜん)橋。文化8年(1811)建立の石碑には「南無妙法蓮華経」と刻まれ、現在も本門寺入口の門標の役割を果たしている。
2.お会式(えしき)
日蓮の命日は10月13日。11〜13日に行われる法要はお会式と呼ばれ、江戸の昔から続く秋の名物行事。この時ばかりは広い境内も人波で埋まる。華やかな万燈に桜の造花が飾られるのは、日蓮入減の折、庭先に時ならぬ桜の花が咲き誇ったという故事によるものである。
3.力道山
本門寺境内を歩くと「力道山墓所はあちら」との立て札を目にする。昭和38年に死去した日本プロレスの創始者力道山の墓である。本名、金信洛。兄は朝鮮相撲シルムの横綱だった。本人も名手として鳴らし、やがて大相撲にスカウトされ、日本に渡る。初土俵は昭和15年。この時15歳といわれるが彼の生年は不詳である。得意の張り手は後の空手チョップの原型となった。関脇にまで昇進したが、昭和25年突如引退し、ファンを惜しませた。
力道山が再びファンの前に雄姿を現すのは昭和29年、史上名高いシャープ兄弟との一戦だった。すでに彼はアメリカで300戦して負けは5つという驚異的な戦績を残し、世界のプロレスラー十傑にランクされていた。だが日本ではまだプロレスの名も耳新しい時代。興行として根づかせるためにもこの一戦は重要だった。力道山は相手の攻撃に堪え抜いて、ここぞとばかりに怒りの空手チョップを連打する。彼はプロレスの本質が如何に見せるかにあることをアメリカ修業で学んでいた。その巧みな演出に観客は熱狂したが、街頭では予測を超えた異変が起こっていた。群衆が街頭テレビに殺到し始めたのである。「街頭のみなさん、押し合わないようにお願いします!」とアナウンサーはブラウン管から繰り返した。実に1,400万人がテレビにかじりついたという。
昭和29年当時のテレビの普及台数は16,800台(普及率0.1%)。本格的な放送開始はその前年のことである。その後、普及台数は昭和30年約17万台、33年には100万台を超える勢いで急増し、街頭から家庭に浸透した。力道山はテレビ時代の幕開けを告げるヒーローでもあった。
参考:大下英治著「永遠の力道山」
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