1.鳥山の変遷
江戸時代、烏山は甲州街道沿いに小さな宿場町があったばかりで、あとは農家がポツリポツリと点在するだけののどかな田園地帯だった。こうした風景は明治に入ってもおおむね変わらず、近くの粕谷には明治40年(1907)、作家徳富蘆花が隠棲の地を求めて移り住んだ。
そんな烏山にも大正4年(1915)には京王線が開通。現在の南烏山四丁目には、モダンなスレート葺きの文化住宅が出現した。これがその後の宅地化のはしりだったわけだが、当初の戸数はわずか50ばかり。昼なお静かなのは相変わらずで、正午には皇居で撃たれる午砲の音が聞こえたという。
烏山の様相が一変したのは大正12年の関東大震災以降。以前から移転話のあった築地、浅草、本所など下町の寺院群が、震災をきっかけに烏山の地へ大移動したのである。これが烏山寺町の起こり。大正13年から遅いものでは昭和30年まで、移転してきた26の寺院は、すすきと雑木ばかりの荒れ地を開き、寺院復興に努めた。
この時植えられた樹木は半世紀の間に見事に成長し、寺院建築とも調和して、風格ある街並を作り上げた。現在、寺町を彩る樹木はカシ、ケヤキ、桜、銀杏など約150種。ヒヨドリ、コジュケイ、モズなどの野鳥や数十種の昆虫が棲みついているという。こうした寺町の美しい景観や自然を維持するために「烏山寺町の環境を守る会」の活動があった。
2.蘆花恒春園 世田谷区粕谷一丁目
結核のため引き裂かれる夫婦の悲劇を描いた『不如帰』(明治31年)で一躍人気作家になった徳富蘆花は、明治39年(1906)、ロシアの地で憧れの文豪トルストイと出会い、農村での生活に感化された。帰国後、晴耕雨読の日々を夢見て遂に探し当てたのが、千歳村粕谷の地。この時、蘆花は40歳。買い取った6畳2間の茅葺き家屋を蘆花は“恒春(永遠に若い)園”と名付け、昭和12年に没するまでの約20年間を愛子婦人と共にこの地で過ごした。「総じて武蔵野のウネリようは、小スケールのロシア式で、ただそのウネリが小さく、山が見えて、樺の林のかわりにくぬぎ林があって、農家に牛馬が少なくて、赤いシャツがなくて、百姓の顔が少々ばかり気がきいてるだけだ」と蘆花は手紙に記している。粕谷での生活をユーモラスに綴った『みみずのたはこと』は大いに好評を博し、版を重ねた。
没後10年、恒春園は家屋・耕地など武蔵野の風景を保存し、公園とすることを条件に夫人から東京市に寄贈された。開園は昭和13年。現在の園内はうっそうたる大木に覆われているが、蘆花の時代はまだ樹木も小さく、吹きっさらしの分、眺めもよかったという。記念館では当時の暮しぶりがビデオで解説されるほか、夫妻の愛聴した曲を聴くこともできる。9月18日の蘆花忌には記念講演あり。NPO「芦花公園花の丘友の会」により、蘆花ゆかりの旧水無川遊歩道沿いと花の丘に季節の花を植えている。
無休・開放
恒春園開園時間:9:00〜16:30
蘆花記念館開館時間:9:00〜16:00
問合せ:03-3302-5016
3.江戸の治安組織
江戸の市政を管轄したのは北町・南町の両奉行所。武家地と寺社地を除く町方全域を支配し、今日の都庁、裁判所、警視庁、東京消防庁を兼ねたような存在だった。その最高責任者である町奉行というと、大岡越前、遠山金四郎の時代劇で裁判官のイメージが強いが、彼らは同時に都知事であり警視総監であり消防総監等々であったわけである。町奉行はエリート官僚を目指す旗本にとっては最高の役職であったが、激務のあまり寿命を縮める者もいたという。
犯罪捜査の実務には、町奉行所の与力・同心が配下の岡っ引(目明)を駆使して当たっていた。その数は子分の下っ引まで含めてもおよそ千人。町方だけで数十万の人口を有する江戸をこれだけの人数で取り蹄まれるわけがない。実は当時の江戸では市民による自警活動が警察の下部組織に組み込まれていた。これが自身番・木戸番の制度である。
自身番とは各町内の木戸際などに設けられた番屋のこと。はじめは町の地主自身が当番で詰めたことからこの名がある。番屋内には捕物道具が揃えられ、不審な者が町内に立ち寄った場合には捕らえ置き、巡回の岡っ引に引き渡した。岡っ引たちが容疑者を一時収容し尋問を行うのもこの番屋であった。一方の木戸番とは町境に設けられた木戸の番人のこと。木戸は夜の四ツ時(午後10時)頃に閉鎖され、以降は左右の潜戸から通行させた。その際には必ず拍子木を打って、次の木戸に通行人が向かうことを知らせた(これを送り拍子という)。つまり江戸の町では、身元の知れた者でない限り、夜歩きなど出来なかったのである。木戸番は町内の夜警も行い、捕物があれば木戸を閉ざして犯人の逃亡を防いだ。
今日から考えれば、いささか警察国家もどきの厳戒体制ではあるが、それほどまでに江戸は物騒であったかというとさにあらず。幕末期における入牢状況などから当時の刑事犯の数を推定すると年間約2500人。東京都の近年の年間犯罪発生件数はおよそ30万件であるから、人口の規模、検挙率の低さなどを考慮しても、江戸はまずまず平和であったと言えよう。町内がほとんどが顔見知りという共同体的な環境では、そもそも犯罪は起こりにくかったようだ。番屋もご隠居がのんびり座っていてもつとまるというのが実情であった。幕府や市民が最も警戒していたのはいとも簡単に生じる人災、火事だった。自身番、木戸番とも防火は保安と並ぶ重要な任務であり、自身番の屋根には火の見櫓が設けられていたのである。
4.江戸の町火消
徳川二百数十年の治世の間、江戸は明暦3年(1657)の大火をはじめ、市街の大半を焼き尽くす大火災に都合10回も見舞われている。小規模な火災ともなれば数知れず。一生のうちに焼け出された経験を持つ市民はかなり多かったわけで、それだけに防火に対する意識はきわめて高かった。
幕府は大名が勤めた大名火消、旗本が勤めた定火消などの消防隊を組織していたが、享保3年(1718)、町奉行大岡越前は民間による消防隊の組織化に着手した。これが町火消の始まり。町火消は隅田川以西の地域ではおよそ20町ごと47組に分けられ、いろは47文字を組の名とした。ただし、へ・ら・ひの3字は語感が悪いため、替わりに百・千・万の字を当てたという。また本所、深川地域では別に16の組が編成された。各町からはそれぞれ火消人足30人の出動が義務づけられていたが、これは後に15人に軽減された。それでも町火消の総勢はおよそ1万人を数えたという。
当時の消火方法は、燃えている家屋を取り壊して延焼を防ぐ破壊消防が主流。こうした仕事に最も精通していたのが鳶人足たちで、彼らは次第に不慣れな町人たちに替わって町火消の中核を担うようになった。その後、町火消は武家屋敷や江戸城の消火にも当たるなど活動範囲を広げ、江戸の消防活動を一手に引き受ける存在となった。
参考:NHK編「歴史への招待 江戸怪盗伝」同「江戸英雄伝」
5.長谷川平蔵と人足寄場
長谷川平蔵といえば、ご存じ「鬼平犯科帳」。犯罪者を摘発する、火付盗賊改(ひつけとうぞくあらため)の長官である。火付盗賊改とは町奉行から独立した幕府直属の警察組織。町奉行が手を出せない武家・寺社地や江戸市外に広域捜査権を持ち、鉄砲や弓矢で武装した特捜部隊であった。そもそもは明暦大火後の治安の乱れに対応して「盗賊改」「火付改」と別個に創設されたものだが、享保3年(1718)に統合された。長谷川平蔵の登用は天明7年(1787)。浅間山の噴火に始まる天明の大飢纏や江戸・大坂での打ちこわしによって再び世情が騒然とし、老中松平定信が寛政の改革に乗り出したさなかの時であった。
ところで幕府が治安上、頭を痛めたのが無宿者の扱い。貧窮や犯罪によって地元を追われ、戸籍を失った彼らは生活の場を求めて江戸に流れ込んでいた。しかし身元不確かな者は容易には雇われない。職にあぶれた彼らはしばしば犯罪の温床となりがちだった。寛政2年(1790)、松平定信は長谷川平蔵の建言を入れて、こうした無宿者を収容し職業訓練を行う更正施設を石川島に設置した。これが人足寄場である。収容人数は多い時で600人。大工、建具、塗物、鍛冶など各自、能力に応じた仕事につき、また労賃の3分の1は出所の際の自立資金として積み立てるなど、従来の隔離中心主義とは一線を画す近代的な制度であったという。
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