1.伊興の遺跡と寺町
毛長川南岸の伊興一帯は、足立区内でも早くから開けたところといわれ、古墳時代を中心とした遺跡が数多く発掘されている。昭和62年から平成6年にかけて行われた発掘調査では、5〜7世紀にわたりこの一帯に大集落があったことが確かめられた。また木製の鋤などの農具、漁に使う土錘(おもり)などが多数出土したことから、古代の人々が半農半漁の生活を営んでいたことが明らかとなった。
この地域には古墳も数多く、擂鉢塚(すりばちづか)、甲塚(かぶとづか)、船山塚(ふなやまづか)などの「塚」(円墳の土盛)が点在していた。だが大半の古墳は昭和30年代から急速に進められた宅地開発により姿を消した。
唯一現存する白旗塚古墳は、直径約12m、高さ2.5mの円墳で、5〜6世紀の築造と推定される。現在塚の周辺は史跡公園として整備されている。なお白旗塚の名は、康平5年(1062)、奥州征代に向かう源頼義、義家親子がこの地で地元豪族との戦いに勝ち、勝利の白旗を立てたという仏説に由釆している。
伊輿には、大正12年(1923)の関東大震災以後、区内整理などにより浅草・築地などから寺院が次々と当地へ移転し、狭間地区を中心に寺町を形成した。初代安藤広重の墓のある東岳寺、綱吉の生母桂昌院の墓のある法受寺など11の寺が建ち並んでいる。
2.綱吉の母、桂昌院
五代将軍綱吉の母、桂昌院は、本名をお玉といい、京都堀川通りの八百屋に生まれた。父親の死後、母の再婚先が三代将軍家光の側室お万の方に縁があった関係で、お玉はその部屋子(小間使い)になる。美しい娘だったお玉はやがて、子供のできないお万の方に変わって、家光の側室になる。しかも生まれた子は二人とも男の子だった。第一子は早くに亡くなったが、第二子徳松は元気に育っていった。だが家光は他の側室との間にすでに二人の男子をもうけていたため、徳松が将軍になる見込みはほとんどなかった。
慶安4年(1651)、家光が亡くなると長兄の家綱が四代将軍を継ぐ。将軍が亡くなるとその正妻から側室まで全員が仏門に入るのが習わしであったから、お玉は二十代半ばの若さで出家し、桂昌院という名の尼となった。
だが、将軍家綱には子がなく病気がちで、次兄綱重は若死してしまっていた。延宝8年(1680)家綱が亡くなると徳松こと綱吉が第五代将軍となり、お玉はついに将軍の生母という地位を獲得したのである。お玉は仏教の信仰厚く、綱吉の「生類憐れみの令」も、お玉のすすめであったといわれている。
3.毛長川
足立区と埼玉県境を流れる毛長川は、江戸時代の中ごろまではかなり水量の多い川で、舟運も発達していた。流域では蓮根やくわいの栽培が盛んに行われ、川はそれらの農産物を江戸に運ぶ水路でもあった。しかし時代が進むにつれ細流化し、江戸末期にはところどころ沼の状態となって、毛長沼とも呼ばれるようになった。水面には一面藻が生い茂り、しばしば小舟の航行を妨げたという。
毛長沼(川)という風変わりな名については、次のような伝説が語り継がれている。
埼玉県新里から舎人の里のもとに長者の娘が嫁入りしたが、嫁ぎ先と合わず実家に帰ることになり、途中沼に身を投げた。以来、長雨が続くと、沼は大波たてて荒れ狂った。ある年、暴風雨の後、娘のものではないかと思われる3、4メートルもの髪の毛が沼で見つかった。里親の長者がそれを神体として社に祀ると、異変は止んだという。以来、沼は「毛長沼」あるいは「毛長川」と呼ばれるようになったといわれる。埼玉県側の新里には娘の髪を祀ったという毛長神社があり、舎人の諏訪社は娘が嫁いだ長者の屋敷跡と伝えられている。
ところで、毛長川では昭和23年より十数年に及ぶ大改修工事が行われ、護岸の補強や川底のしゅんせつなどにより排水の改善が進められた。昭和48年には一級河川となっている。また、毛長川に架かる谷塚橋から水神橋の間は、東京都が整備を進める「武蔵野の路」舎人コースの一部で、川辺の風景を楽しむ散策路となっている。
4.江戸の伊達男、助六
歌舞伎狂言「助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)」で、江戸っ子調子の歯切れのいい啖呵を吐く助六は、典型的な江戸の伊達男。しかし助六の実在のモデルは上方の侠客、万屋助六で、遊女揚巻との心中が元禄年間(1688〜1704)から浄瑠璃で語られ、歌舞伎でも上演されていた。
江戸っ子版助六が登場するのは、正徳3年(1713)、ニ代目市川団十郎が江戸で初演してからのこと。侠客の花川戸助六は、仇打ちで有名な曽我五郎の仮の姿。源氏の宝刀友切丸詮議のため、吉原の遊女揚巻のもとに通い、客に喧嘩を売っては相手の刀を抜かせている−という今の演出の原型ができたのも、彼の代である。助六は江戸市民に大いに人気を博し、以降江戸歌舞伎の代表的狂言となっていく。天保11年(1840)には七代目団十郎により「歌舞伎十八番」の一つに選定され、市川家のお家芸となった。伊興の易行院には、供養のために七代目団十郎が建立した助六塚がある。
ちなみに二代目の演じた助六は当時の気風を反映して荒々しい男ぶりが強調されていたが、次第に洗練され、二枚目風の色合いが濃くなっていったという。七代目の演じた助六は、白塗りの二枚目ですっきとした鬘、黒羽二重紅絹裏(くろはぶたえもみうら)の小袖、下に浅黄無垢(あさぎむく)の一つ前、綾織(あやおり)の帯、一つ印篭、尺八をうしろにさし、紫縮緬(むらさきちりめん)の鉢巻、鮫鞘(さめざや)の脇差、桐柾(きりまさ)くりぬき下駄といった当時の流行の粋を集めた姿。そして喧嘩に強く、弁舌も鮮やかで、権威に歯向かう反骨精神の持ち主。それが幕末の江戸っ子好みの男性像であった。
5.川柳の誕生
「川柳」は俳譜から分かれた江戸の大衆文芸である。その前身は、前句(題)に合わせて五七五の付句を詠み、その対比に面白味を求めるという「前句付」。元禄年間(1688〜1704)より、前句をあらかじめ出題し、付句を募集
するという「万句合興行」が全国的に流行した。応募者は入花料(添削料)を支払い、優秀句には賞品が送られた。
万句合興行を主催したのが前句付点者(撰者)である。特に優れた点者として評判が高かったのが、柄井川柳(からいせんりゅう)(1718〜90)。浅草新堀端、龍宝寺門前町の三代目名主で、当時としてはインテリの江戸っ子であった。安永8年(1779)に川柳の主催した万句合には、2万5千24句が寄せられたという。入選率3パーセントの厳しさで知られた川柳評の眼目は、「題(前句)にくったくせず、一句の珍作を専ら」とすること。つまり前句を切り離し付句のみで味わう趣向である。明和2年(1765)には、川柳撰の付け句のみの秀句を集めた『俳風柳多留』が刊行される。この『柳多留』の刊行をきっかけに、前句付は、後に「川柳」と呼ばれる十七音形式の短詩文芸へと発展していくのである。
以後『柳多留』は天保11年(1840)までに167篇が続刊された。東岳寺境内には、三代にわたり124篇の刊行を手がけた版元花屋久次郎の碑が建ち、毎年2月11日に花久(はなきゅう)忌がいとなまれている。
6.江戸の本屋
江戸の出版事情
江戸に本屋ができはじめたのは慶安から承応のころ(1648〜55)である。初期の江戸の出版界は、歴史の古い上方(京、大坂)の本屋に支配されていた。京都には儒書や史書や様々の古典、また大坂には井原西鶴の「好色一代男」をはじめとする浮世草紙や種々の重宝記(今でいう情報誌)などのベストセラーがあった。これら有力出版物の板株(出版権)はもちろん上方の本屋が持っていた。板株を持っていない本を出版することは「重版」といって禁じられていたし、内容の類似した本を出すことさえ「類版」といって許可されなかった。新規参入の江戸の本屋たちは、江戸に新しい作品が登場するのを待つ以外に手も足も出なかったのである。
江戸出身の本屋たちが活躍をはじめるのは18世紀の半ば以降のことである。この時期、山東京伝、十返舎一九、式亭三馬、滝沢馬琴ら戯作者たち、歌麿、写楽、北斎、広重らそうそうたる絵師たちの登場と共に、洒落本、黄表紙などの絵草紙から錦絵(浮世絵)、それに「解体新書」などの蘭学書まで、江戸独自の作品が続々と生まれて評判になり、江戸の出版界は大いに活気づいたのである。
江戸の本屋はおおむね次の3種類に分けられる。学問・教養書などを扱う書物問屋、絵草紙・浮世絵などの娯楽作品を扱う絵草紙屋、それに貸本屋である。書物問屋や絵草紙屋は、本の卸や小売りもするが、そもそもは版元、すなわち今でいう出版社であった。江戸の書物問屋は文化年間(1804〜18)で約60軒。絵草紙屋は、寛政年間(1789〜1801)で約20軒あったという。
江戸の貸本屋
一方、当時の本はかなり高価であったため、本の流通に貸本屋の果たした役割は非常に大きかった。例えば、完結まで28年もかかった滝沢馬琴の大長編「南総里見八犬伝」は、新しい巻が書き上げられると、数巻ずつまとめて帙というブックケースに入れたものが売り出されたのだが、1ケースの値段が当時の大工の日当で四、五日分もしたというから、かなり高い。そこで、江戸の庶民はもっぱら貸本屋から借りて本を読んでいたのである。貸本屋には行商が多く、風呂敷に包んだ本を背負って得意先をまわった。貸本屋の数は文化年間の記録で656軒。それぞれおよそ170から180軒の得意先を持っていて、貸本を借りる家はおよそ10万軒もあったという。この巡回式の貸本屋は明治時代の中ごろまでは残っており、森鴎外も少年時代に行商の貸本屋の本をさかんに読んだと書き残している。
江戸っ子の読書
江戸でよく本が読まれたのは、手習(江戸では寺子屋のことを手習師匠と呼んだ)の普及で文字の読める人が大勢いたことと無縁ではない。文化・文政(1804〜30)のころになると、子供が手習師匠に通うのは当たり前のことだったのである。幕末には江戸の就学率は80パーセントにも達していたというくらいで、手習師匠は江戸の町の至るところにあり、子供たちの多くは七、八歳で師匠に弟子入りをして、読み書きを習った。
当時、読み手たちには本を大事に扱う習慣があったらしい。現在見られる江戸時代の本はどれも、同じように頁の左下の角だけ傷んでおり、他の部分はさほど汚れていないことから、頁を繰る時には本の左下の部分をつまんでめくるという暗黙のルールがあったらしいのである。そのうえ純粋な植物繊維だけでできていた当時の紙は大変丈夫だったから、江戸の本は貸本として多くの人の手に渡っても、あまり傷まなかったのである。
参考:『大江戸えねるぎー事情』石川英輔
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