1.谷中界隈
台東区谷中は上野公園と日暮里の間にある高台の町。しかし、このあたりの人が谷中といえば、まわりの荒川区日暮里や文京区根津までも含むのが普通である。
『往古図説』に「谷中、いにしえは谷にて三崎につづき駒込と上野の間なる故、下谷に対していえるなるべし」とあるように、本来の谷中はかなり広い範囲をさすものであったらしい。
谷中は寺院街で、江戸時代には参詣に来る人も多く庶民の行楽地となった。西日暮里付近の道灌山や諏訪台といった台地は、なかでも景勝地として名高かった。ここは古くは新堀村、谷中本村、金杉村に分かれた地域で、高台故見晴らしもよく、その景観に日が暮れるのも忘れるくらいだというので、日暮里の字があてはめられたとい
う。
谷中界隈は震災・戦災の被害を免れた所で、今も残る古い術並みに失われゆく江戸の面影を見出すことができる。
2.谷中寺町
寛永年間(1624〜43)、上野寛永寺の子院が谷中の高台に多く建立された。これが谷中が寺町化していくきっかけである。その以前には鎌倉時代創建の感応寺(現天王寺)ほか数える程しか寺院はなかったのだが、慶安年間(1648〜1651)には相当数の寺院が神田方面から郊外の谷中へと移転してくる。これには江戸府内再開発という幕府の施策が背景にあったのである。寺の門前に次々と町屋が形成されていったのはこの頃のこと。明暦の大火(1657)はひとつのエポックとなった。このいわゆる振袖火事の後、谷中にかなりの焼失寺院が移ってくることになり、寺院街が出来あがった。
幕末に至り、谷中は大きな転換期を迎える。慶応4年(1868)上野戦争に際して谷中も兵火を免がれられず、残ったのは天王寺と五重塔くらいであった。記録では焼失した民家は223戸。チリヂリとなった彰義隊士は谷中へ敗走。住人のなかには彼等をかくまい農民の着物を着せて奥羽方面へ逃がしてやった者もいたという。
明治初年、広大な天王寺境内の大部分が上地令により霊園と化した。谷中墓地(東京都谷中霊園・天王寺霊園及び谷中寛永寺霊園をあわせた通称)は寺町の新しい顔となり、墓参に、また散策にと四季を問わず多くの人が訪れる。
3.天王寺と富くじ
天王寺は昔、感応寺といった。文永11年(1274)創建というがはっきりしない。江戸時代に入って隆盛を極め、寺域は3万5千坪(約11万6千平方メートル)に達した。ところが日蓮宗内の宗教論争に敗れたり、破戒憎が出たりした挙句、元禄12年(1699)幕府によって天台宗に改宗させられた。もっとも、天王寺と改称したのは天保4年(1833)になってから。
元禄13年五代将軍綱吉は感応寺に富突興行を許可した。これは江戸の三富(感応寺、湯島天神、目黒不動)として庶民の射倖心を煽った。感応寺の富くじは一番の人気で、最初年3回だったが宝暦年間(1751〜1759)には毎月行なわれるようになり、売出し日には人々が早朝から谷中に殺到した程である。
この富くじは天保の改革で禁止されるまで続いた。ちなみに谷中に現存する感応寺は明暦の大火後移転してきたもので、区別するため神田感応寺と呼ばれた。
4.道灌山と文人たち
江戸以来、道濯山からの眺望の素晴しさは有名であった。隅田川や筑波・日光の連山、また、反対側には富士山が見えた。当時は薬草も豊富で「草摘み」に、また「虫聴き」「花見」「月見」「雪見」など四季折々に多くの人々が訪れる江戸の景勝地であった。このため文人墨客との縁が深く、安藤広重の錦絵、大田南畝の狂歌、時代が下って正岡子規の歌など、道灌山やその眺望の絶佳ぶりを描いた作も多い。
“ガリバーが小人島かも箱庭のすゑのものの人の動き出でしも”子規また、青雲寺には滝沢馬琴の「筆塚」「硯塚」、養福寺には「談林派歴代の句碑」などもある。
明治時代、文明開化に抗してチョンマゲを結い、馬車も鉄道も利用しないという聖学入石教会がここに置かれたのも、江戸時代からの風流閑雅の地であったればこそであろう。
5.幸田露伴と谷中五重塔
谷中天王寺五重塔の建立は寛永21年(1644)。明和9年(1772)に焼失。寛政4年(1792)に再建。昭和32年7月、放火心中という事件によって炎上、焼失した。
文豪幸田露伴は、この塔をモデルにして名作「五重塔」を書いた。
一徹な職人気質に生きる大工の”のっそり十兵衛”は心血を注いで五重塔を完成させる。その落成式の前日、前代未開の大暴風雨が襲来する。塔の倒壊を危惧する寺からの使者が十兵衛を迎えに来るが、自分に仕事に自信と誇りをもつ十兵衛は「紙を材にして仕事もせず魔術も手抜きもして居ぬ十兵衛天気のよい日と同じことに雨の降る日も風の夜も楽々として居りまする、暴風雨が怖いものでも無ければ地震が怖うもこぎりませぬ」と使者を追い返す。ところが再びやってきた使者の策略に傷心逆上し、万一塔の一部でも壊れようものなら、生きてこの世に恥をさらすまいという壮絶な気迫で命をかけて塔にこもる。「一期の大事死生の岐路と八萬四千の身の毛が堅(よだ)たせ牙咬定(かみし)めて眼をみはり、いざ其時はと手にして来し六分鑿の柄忘るるばかり引握むでぞ、天命を静かに待つ−」−というのか新聞小説「五重塔」のクライマックス。露伴の26歳から27歳にかけての作品である。
十兵衝の一念に守られた五重塔は、釘一本ゆるまず、板一枚剥がれることなく見事に嵐を耐え、屹立する。「−それより賽塔と長へに天に聳えて、西よりみれば飛檐或時素月を吐き、東より望めば匂欄夕に紅白を呑んで、百有余年の今になるまで、話は活きて遺りける。」露伴が愛してやまなかった五重塔も、今では礎石を残すのみである。
6.油絵も描いた徳川慶喜
江戸幕府最後の将軍徳川慶喜は、天保8年(1837)に徳川御三家の一つ、水戸家に生まれ、幼名を七郎麿といった。11歳のとき一橋家の養子となり、慶喜と名のる。慶応2年、長州征伐の陣中で将軍家茂が没し、慶喜は15代将軍になる。時に30歳。翌年、勝海舟らに説得され江戸城を2月12日に去り、上野寛永寺に謹慎した。
4月11日、江戸城を開城し江戸を後にし、水戸から徳川ゆかりの地、静岡に移る。ようやく明治31年、62歳のとき慶喜は明治天皇に謁見を許され、明治35年には華族として最高の位である公爵を受けている。
慶喜はハイカラ趣味であったようで油絵も描き、ナポレオン三世から拝領した軍服や軍帽を身につけ馬に乗った姿の写真も残されている。大正2年(1913)に永眠。享年76歳。墓所は谷中霊園にある。
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