●湯島神社
学問の神様として有名な菅原道真を祀った湯島神社は、南北朝時代の文和4年(1355)の創建。文明10年(1478)太田道灌が再興した。泉鏡花『婦系図』の舞台として有名。境内に今も残る迷子さがしの石「奇縁氷人石」からも、往時のにぎわいがうかがわれる。
●旧岩崎邸 台東区池之端1-3-45
(TEL) 03-3823―8033 旧岩崎邸庭園事務所
旧三菱財閥の三代目岩崎久弥の別邸。かつては1万5千坪を超える敷地に20棟以上の建物があったという。現存するのは、書院造りの和館、それと結合する洋館はヨーロッパ式の邸宅、洋館と地下でつながるスイスの山小屋風の撞球室と、芝庭のある和洋折衷庭園がある。洋館は木造、地下1階、地上2階で広さ531m2。付属の撞球堂は地下1階つきで広さ138m2。いずれも明治期の建築として貴重なもの。鹿鳴館などを設計したイギリス人J・コンドルの設計で、明治29年(1896)に建築された。現在は東京都立旧岩崎邸庭園として一般公開されている。
●アメヤ横丁(アメ横)
御徒町駅から上野駅にかけてのガード両側にそった商店街。終戦直後の闇市から発展し、現在では食料品、衣料、雑貨等、約400軒もの商店が軒をつらね、買物客でにぎわう。名称は闇市時代のイモアメ屋から発したもの。現在では、アメ横センターができたり、路面がカラー舗装されるなど、イメージを一新した。最近はネットショッピングのできる店もある。
●横山大観記念館 〒110-0008 東京都台東区池之端1-4-24
日本画壇の巨匠横山大観(1868〜1958)は、明治42年(1909)から池之端にある板塀に囲まれた日本家屋に住み、90歳で亡くなるまで創作活動を続けた。記念の邸は昭和51年から−般公開され、大観の作品、画稿、スケッチ帳、遺品などが展示されている。開館は木、金、土、日曜日。【長期休館あり:夏期、梅雨、年末年始】
●時の鐘
江戸時代、市民に時報を知らせる「時の鐘」は上野、日本橋、浅草なビ9カ所にあった。上野(寛永寺)の鐘は寛文6年(1666)に設けられ、現在の鐘は天明7年(1787)に改鋳されたもの。今でも朝夕6時と正午には打ち鳴らされている。
●寛永寺
寛永2年(1625)、三代将軍家光のとき、天海僧正によって建立され、徳川家の菩提寺として長らく栄華を誇ったが、慶応4年(1868)彰義隊の戦争でその建物のほとんどを焼失した。当時の寺域は現在の上野公園の2倍ほどで、今の噴水のあたりに根本中堂があったといわれる。現在の寛永寺本堂は、明治12年(1879)、川越喜多院の本地堂を移したもの。
●不忍池
ハス池、ボート池、水上動物園の3つからなり、周囲2km。この池が庶民に親しまれる行楽地になったのは、江戸時代。寛永寺を建てた天海僧正が中島を築き、琵琶湖の竹生島になぞらえて弁天堂を建立して以来のこととされる。
●清水堂
寛永8年(1631)天海僧正が、京都清水寺を模して摺鉢山に造ったが、元禄11年(1698)大火にあい、現在の場所に移された。舞台づくりの本堂正面からは不忍池の景色が眺められる。本尊は干手観音菩薩。
●摺鉢山
大昔、台東区一帯はほとんどが海であったが、上野の台地は海に突き出た半島で、原住民は縄文時代からこの台地に住みつき、生活していた。摺鉢山はそんな時代の古墳のひとつで、埴輪や土器の破片が出土している。
●黒門
黒門は、寛永2年(1625)に寛永寺の総門として建立された。以来、何度か焼失、再建を繰り返す。なかでも五代目の黒門は彰義隊の戦闘の激戦地となり、弾痕もなまなましく、現在、南千住の円通寺に保存されている。現在、清水観音堂下にある黒門は昭和39年、地元によって復興された六代目である。
●下町風俗資料館 〒110-0007台東区上野公園2番1号
(03)3823-7451
この資料館最大の魅力は何といっても、展示物に「さわれる」ということだろう。さわれるだけではない、1階展示室に再現された大震災以前の長屋や商家では、座敷に上がり込んで当時の生活に思いをはせることができる。周囲にさりげなく置かれた生活用具は、ほとんどが下町に住む人々から寄贈されたもの。家全体に、今でも人が住んでいそうな雰囲気が漂っている。長屋の店子は2軒、駄菓子屋と銅壺屋で長屋独特の路地や井戸も再現されている。一方、江戸以来の生活資料を、娯楽、衣装、職人道具などのコーナーごとに紹介するのが2階展示室。昭和初期そのままに再現されたミルクホールが、まず目をひきつける。玩具コーナーには、けん玉や独楽をはじめ、当時の珍しいおもちゃが集められており、もちろん自由に遊べる。特別展や週末の紙芝居、伝統工芸実演会、歴史講座などイベントも豊富。入館料は大人300円(20名以上団体200円) 高校生以下100円(20名以上団体50円)。毎週月曜日、年末年始が休館日。
●不忍池
不忍池は、かつて東京湾につながる入り江の奥であったのが、陸地の中に取り残されて池となった。江戸開府の頃は周囲25町(2.7km強)といわれたが、現在は約2km。江戸時代「忍が岡」とも呼ばれていた上野の山を比叡山に擬したのに対し、不忍池を琵琶湖に見立てて、竹生島を模した中の島に弁財天を祀った。江戸時代から今なお、水と緑の憩いの場として親しまれている。
●無縁坂
無縁坂は急坂である。昔、この坂上に無縁寺という寺があって坂の名はそれに因むともいう。森鴎外の小説「雁」の舞台となって、無縁坂は有名になった。「岡田の日々の散歩は大抵道筋が極まってゐた。寂しい無縁坂を降りて、藍染川のお歯黒のような水の流れ込む不忍池を廻って、上野の山をぶらつく。」坂の途中に薄幸のヒロインお玉の家があった。岡田の突然の洋行決定により、二人は遂に結ばれずに終わる。「女は自分の家より二三軒先へ出迎へてゐた。僕は石原の目を掠めるように、女の顔と岡田の顔を見比べた。いつもは薄紅に匂ってゐる岡田の顔は、確かに一入り赤く染まった。そして彼は偶然帽を動かすらしく粧って、帽の先に手を掛けた。女の顔は石のように凝っていた。そして美しい目の底には、無限の残惜しさが含まれてゐるやうであった。」
●上野動物園 台東区上野9-83
明治6年(1873)、ウィーン万国博覧会出品のために全国から集められた物産が山下町(現千代田区内幸町)の博覧会事務局内で一般公開された。これが山下町博物館のはじまりで、中にはクマ、ツル、シカ、オオサンショウウオなどを陳列した小動物園があった。博物館の上野公園移転にともない、附属の動物園も上野に移り、明治15年、公園内通称清水谷(現在の東園)に上野動物園が誕生したのである。当時の入園料は大人平日1銭、日曜2銭(子供半額)。キリンが初来園した明治40年には、入園者は100万人を突破。その後も庶民の行楽地として入園者は増え続けた。年間350万人の大台に達したの
は、インドのネール首相から象の“インディラ”が贈られた昭和24年。パンダ来日の昭和47年には入園者数800万人を記録した。パンダの他、セイロンオオリス、アメリカモモンガ、オオヤマネ等は国内では上野にしかいないもの。飼育数は405種、1944点。(12年度末)水族館は平成元年10月に葛西臨海公園へ水族園として移転した。飼育数1390種、9820点(12年度末)
●浄名院の八万四千体地蔵
僧侶妙運が一千体の地蔵尊建立の発願を立てたのは嘉永3年(1850)、彼が25歳の時である。明治12年(1879)、53歳の折にはその願も満ち、更に八万四千体建立の大誓願を立てた。その遺志ほ多数の同信者によつてうけつがれ、現在、浄名院の境内には二万体余の地蔵が長方形の石に浮彫にされ整然と並んでいる。
●瑞輪寺
徳川家康の命を受け、江戸水道のはじまりといわれる神田上水を開削した大久保忠行の塞がある。忠行は家康と同郷の三河の人。後に江戸水道の功労者として家康から「主水」の称号を与えられた。
●半床庵
18世紀前半久田宗全の次男宗也が建立した茶室。点前座を天の川に、客座を織女座・牽牛座に見立てた点が特色で、別名「天の川の席」といわれる。都内に遺存する名席のひとつ。
●大円寺
「錦絵開祖鈴木春信」の碑、永井荷風の「笠森阿仙乃碑」がある。お仙は、笠森稲荷社前の水茶屋「鍵屋」の看板娘で、江戸三大美人のひとり。錦絵の開祖春信の作品のモデルにもなつて江戸中の人気を集めた。
●団子坂
昔、坂のそばに団子屋があつたので、この名がついた。明治時代には坂の左右に四軒ほど植木屋があり、それぞれが趣向をこらした菊人形を飾って人気を集めた。江戸川乱歩『D坂の殺人事件』の舞台となったことでも有名である。
●鴎外記念本郷図書館
文豪森鴎外(1862〜1922)が明治25年(1892)、30歳の時から大正11年に60歳で亡くなるまでの30年間を過ごした家の跡地。この家は、二階の書斎から東京湾が遥かに望めたので観潮楼と命名された。「青年」「雁」「阿部一族」「高瀬舟」などの名作が書かれた?外の文学活動の中心地であった。観潮楼は昭和12年の失火と20年の戦災で焼失した。
●青踏社発祥の地
青踏社は、初め詩歌が中心の女流文学集団であったが、やがて婦人解放運動へと発展していった。結成は明治44年(1911)6月1日。 平塚らいてうの首唱で、木内錠子、物集(もずめ)和子ら20代の女性5人が発起人となり、社員は田村俊子、野上弥生子ら18名。同年9月、月刊機関誌「青踏」が発刊された。
[TOPへ] [沿道のコラムへ] [コースガイドに戻る]