沿道のコラム

(1)砂町しおかぜ散歩(南砂町駅−西葛西四丁目4.4Km)

 海に浮かぶ島だった砂町は、江戸時代に埋立てられ、砂村新田として開拓された。当時富賀岡八幡の南には海が広がっていた。

1.砂村新田の開発

 隅田川以東の臨海部には、江戸時代の新田開発によって生まれた地域が多い。砂町も、江戸初期に開かれた砂村新田に由来する土地である。それ以前は、利根川・入間川・隅田川の三水系の間に自然形成されたデルタ地帯のため、陸とも海ともつかぬ場所だった。
 家康の江戸入府の半世紀以上前、永正6年(1509)に連歌師飯尾宗祇の門弟、柴屋軒宗長(さいおくけんそうちょう)が今の小名木川筋に当る水路をつたって現在の浦安辺りまで行ったときのことを、『東路のつと』という旅行記にまとめている。それによると「半日ばかり蘆荻(ろてき)を分けつつ、かくれ住みし里々を見て」と記されたように、ところどころに小村落があったようだ。
 江戸時代に入ると、そうした点在する離村地域に続々と開拓農民たちがやって来ることになる。砂村新田を開発した砂村新左衛門もそのひとりである。新左衛門は摂津国上福島の人で、若いときから諸国を回り農林業の研究をした。やがて一族を連れて関東に下り、野毛新田(横浜市桜木町付近)や内川新田(横須賀市)を開拓したのち、この地へやってきた。当時、浮島と干潟であったこの辺りの開拓は、万治2年(1659)434石の新田として完成し、新左衛門は自らの姓を取り砂村新田と名付けた。以降、この周辺には次々と新田が開拓された。その多くは同様に開発者の名前が付けられたが、今ではもう失われてしまっている。砂村新田は、明治22年(1889)南葛飾郡砂
村となり、大正10年(1921)砂町に。戦後は昭和42年の住居表示実施で北砂、南砂、新砂などとなり、現在では「砂」の一文字に開拓者の苦労をしのぶのみである。

2.砂村の野菜

 江戸の街づくりが始まると、江戸の人口は急激に膨らみ始めた。当時、米は年貢米として集まり市中に出回ったが、生鮮野菜は不足し、野菜はつくればつくるほど売れるという噂が広まった。幕府による年貢の免除など入植振興策もあり、特に豊臣氏滅亡後は関西からネギ、ニンジン、キュウリ、ナスなどの様々な野菜の種を持って多くの人がやって来た。江戸でいち早く本格的な野菜づくりが始められたのは、深川や砂村など新しく開拓された海岸の地であった。
 砂付を一躍野菜の名産地にしたのは、寛文年間(1661〜73)に活躍した篤農家松本久四郎であった。彼は砂村の暖かい海岸気象と肥えた土壌を生かし、魚河岸の塵芥や生ゴミを利用した発酵熱による促成栽培技術を開発したのである。“初物”“萌(もやし)”といわれた早出し野菜は江戸っ子に大いに受け、出荷日を統制する御触れもたびたび出されるほどであった。明治以降、砂村の野菜は博覧会にも出品され、促成栽培技術は全国に普及していった。

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