1.武蔵野の新田開発
平安期から室町中頃にかけて、日本の耕地総面積は殆ど変化していない。これが戦国大名の権力支配が確立して大規模な土木工事が可能となると、主要河川の開発を中心に耕地は飛躍的な増大を見せる。
こうした政策は徳川の治世にも受け継がれ、水に乏しく、荒涼とした武蔵野の原野にも、玉川上水の開設を契機とする新田開発の波が押し寄せた。同上水はそもそも飲料用水として開発されたが、完成翌年の明暦元年(1655)、上水建設の最高責任者松平伊豆守信綱みずからが農業用に野火止用水を分水、武蔵野の新田開発に先鞭をつけた。翌明暦2年には、岸村の小川九郎兵衛が小平の小川村の開発に着手。同地に農業用の小川用水が分水されることになった。これに続いて八代将軍吉宗は、幕府の財政再建策の目玉として新田開発を積極的に奨励。享保7年(1722)、日本橋に新田開発を促す高札を立てると、開発の機運は各地でいやがおうでも高まった。この頃の耕地総面積は、江戸初期の約2倍(297万町歩)に急増。以後、明治初期(305万町歩)に至るまで大幅な変化が見られなかった。小平界隈では、元文元年(1736)の検地で、小川村の他、小川新田、鈴木新田、大沼田新田、野中新田善左衛門組、野中新田与衛門組及び廻り田新田が成立した。
この7ヵ村は明治22年(1893)に統合され、開発の歴史の最も古い小川村の「小」の字と平坦な土地を表す「平」の字を組合せた「小平」の村名が決定した。市制施行は昭和37年である。
2.恋ケ窪の伝説
現在の西国分寺駅北東にあたる西恋ヶ窪一丁目一帯は、中世の頃には、鎌倉街道沿いの宿場町として栄えたという。四方を低い台地に取り囲まれたこの界隈には昔から多くの湧水や池があったが、中でも有名なのが恋ヶ窪伝説の舞台となった「姿見池」(現姿見池跡)であった。この池の名は宿場の遊女たちが朝な夕なに自分の姿を映して眺めたことに由来すると伝わるが、伝説のヒロイン夙妻(あさづま)大夫もそうした遊女のひとりであったという。
この遊女の悲恋の物語は、源氏一族による平家討伐の時代に遡る。当時、東国一の美男と謳われた武将、畠山重忠の寵愛を一身に受けていた遊女夙妻は、やがて訪れた重忠の出陣により、ひたすら男の帰還を待ち続ける身となった。ところがそんな彼女に邪心を抱いた男が、重忠討死の偽報をもたらしてしまう。愛する男の訃報に絶望した遊女は、遂に姿見池に身を投げ、自殺してしまうのである。重忠が殊勲をあげて凱旋したのは、それから間もなくのことであった。
夙妻の死を哀れんだ土地の人々は、彼女を手厚く葬り、塚には墓標に1本の松を植えた。それが枝に一葉しかつけない不思議な松で、いつしか「一葉松」と呼ばれるようになったのだという。夙妻の伝説が「一葉松の伝説」とも呼ばれているのはこのためである(一葉松は後に枯れ、その実から生えた二代目は昭和56年までそびえていた。現在は二代目の小枝を接木した三代日の小松が、東福寺境内に植えられている)。
3.平櫛田中
「六十、七十は鼻たれ小僧。男盛りはこれからこれから」。百歳を越えてなお現役彫刻家として活躍した日本近代彫刻の巨匠、平櫛田中は、明治5年(1872)、岡山県の生まれ。本名を田中倬大郎といったが、同15年に平
櫛家に養子入りした。彼が彫刻の道を志すのは、奉公先の大阪で人形師、中谷省古に出会ってから。同30年に上京し、高村光雲らに師事して修行に励んだ。寛永寺奥寺での提唱を聞き、禾山(かざん)老師に深く感銘したのもこの頃である。
田中はそれ以後、『活人箭』『法堂二笑』など仏教的テーマを題材とした作品を数多く創作している。また田中は、日本美術教育の祖、岡倉天心の肖像彫刻にも幾度か取り組んだが、中でも日本美術学校(現東京芸術大学)の依頼で制作した天心像は出色とされる。その制作にあたってはモデル選びも入念を極め、手ならば天心に似た手を持つ人を探し、肩はなで肩だったからと大柄の女に衣装を着せたりしたという。
「人間いたずらに多事、人生いたずらに年をとる。いまやらねばいつできる。わしがやらねば誰がやる」。明治・大正を経て、昭和33年には20年に及ぶ歳月を費やした大作『鏡獅子』(国立劇場正面ホールに設置)を発表するなど生涯を彫刻に捧げた平櫛田中は、昭和54年、107歳で死去。最晩年を過ごした屋敷は、現在、小平市平櫛田中館となっている。
平櫛田中館 小平市学園西町1-7-5
開館時間:午前10時〜午後4時
観覧料:一般200円 小・中学生100円
休館日:火曜日(祝日にあたるときはその翌日)祝日の翌日 年末年始
問合せ:042-341-0098
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