1.銀座の起こり
家康が関八州の領主として江戸に入府したのは天正18年(1590)。
その当時、江戸城の東側一帯は海であった。慶長8年(1603)、征夷大将軍に任ぜられ江戸に幕府を開くに当たり、家康は市街拡張のためこれを埋め立てたのである。面積一里四方(約16平方キロメートル)、水深2.5m〜4mといわれるエリアを神田山(駿河台)を切り崩した土で埋め冬くすという大変な大工事であった。諸国の大名
がその石高に応じて労働力を供出し、約一万という人数が江戸に集められた。作業員の多くは疲労困憊、栄養失調、ついには鳥目をわずらうものが続出したという。日本橋から銀座、新橋にいたる一帯はこうして誕生したのである。尾張町・加賀町・出雲町など(銀座5〜8丁目)、昭和初年の町名改正まで残っていた旧町名のいくつかは、この時、工事を担当した大名の国名から付けられた。また、江戸城の西の台地上を通っていた東海道もこちらに移され(現在の銀座中央通り)、慶長9年には日本橋がその起点と定められた。その後、銀座一帯には幕府御用達の商人・職人の町が多く作られる。染物職人の西・南紺屋町、幕府御用魚屋たちの新肴町、幕府の鍋製造所があった南鍋町、その他、弓町、鎗屋町など。
さて、駿府の銀座役所が江戸に移されたのは慶長17年銀座役所が占めた京橋から南4丁の土地は、金座が置かれた日本橋の両替町に対し新両替町と命名された。だが、正式の町名より、もっぱら“銀座”の俗称で親しまれ、寛政12年(1800)銀座役所が日本橋蠣殻町に移転されたのちも相変わらず銀座と呼ばれ続けた。銀座が正式の町名となるのは、維新後、明治2年(1869)のことである。
2.銀座煉瓦街計画
銀座が繁華街となったのは明治時代、それも洋風煉瓦造りの街並へと変身を遂げた明治10牛(1877)以降のことである。その直接のきっかけは、明治5年2月の大火事であった。和田倉門内の旧会津藩邸から出た火が、銀座から築地にいたる一帯を焼き冬くしたのだ。
その復興計画として、大蔵大輔井上馨と東京府知事由利公正が耐火都市の建設を立案した。それが銀座煉瓦街計画である。計画のポイントは2点。一つはレンガによる不燃の街づくり、いま一つは通りの道幅を大幅に拡げることである。この一大プロジェクトは英国人技帥ウォートルスの手に託された。さてメインストリートが出来たのは明治7年。新橋から京橋に到る銀座中央通りである。幅15間(約27m)は以前のほぼ2倍の広さ。江戸期の道幅は最大8間であったから、日本始まって以来の大通りである。通りの両側には煉瓦で舗装された歩道が造られ、桜・楓・柳・松などの街路樹が植えられ、さらに41基のガス灯が設置された。その後、明治10年5月、銀座煉瓦街は完成。
総工費180万円は国家子算の27分の1であった。ところが当初の煉瓦街は不評で、空き家が続出した。セメントが乾き切らぬ内から入居させたため、やたらと湿気が多かったためという。空き屋の町には一時、熊相撲とか犬踊りなどといった見世物商売が行われたという。このような初期の混乱を経た後、明治15年には新橋〜日本橋間に鉄道馬車が開通、また日本初の電気灯が登場するなど、銀座は流行の最先端をいく新興の繁華街となり、“煉瓦”“煉瓦地”などの俗称で親しまれた。
3.ミスターロクメイカン・井上馨
コンドルの設計で、2年半の歳月と14万円の巨費を投じて明治16年(1883)に完成した鹿鳴館は、煉瓦造り2階建て、ルネッサンス様式の小宮殿風建物だった。同時期に建てられた外務省本省(ここが鹿鳴館を管轄した)が4万円だったというから、政府の鹿鳴館への入れ込みようはただごとではない。
実際、幕末以来の不平等条約の改正は明治政府の悲願であり、熱烈な欧化主義者であった外務卿井上馨の発案で、欧米諸国に日本の文明開化を宣伝するために鹿鳴館は生まれたのである。井上は、昼は条約改正交渉に奔走、夜は各国公使を招いての華やかな夜会を主宰してミスター・ロクメイカンと呼ばれた。連夜のごとく催される夜会は、9時に始まり深夜の1時2時まで続く。男は燕尾服、女なら中礼服で正装した政財界・華族の紳士淑女らがワルツやカドリールを踊る。
本格的なフランス料理とわざわざ船で取り寄せたワインの銘酒。鹿鳴館では何から何まで逐一西洋を模倣し、外国人賓客へのアピールに努めた。一方で鹿鳴館の西洋風俗はまたたくまに一世を風靡し、なかでも鹿嶋館に集う令嬢達のファッション、束髪や後腰をふくらませたバッスル・スタイルというドレスは全国的に大流行したという。明治20年、ミスター・ロクメイカン井上馨は、条約改正交渉に失敗、外務卿辞任に追い込まれる。鹿嶋館時代の終焉であった。
参考:日本放送出版協会刊『歴史への招待G』
4.煉瓦街は新聞街
銀座煉瓦街に真っ先に入居したのは、最先端の町にふさわしく、大小様々の新聞社であった。明治24年(1891)当時で、銀座には、日報社(東京日日新聞の前身、現在の毎日新聞)、読売新聞社、東京朝日新聞社をはじめ全部
で19もの新聞社が存在していた。当時の新聞記者には、明治新政府に仕えることを潔しとしない誇り高き旧幕臣出身者が多かった。人は彼らを“無冠の帝王”と呼んだという。銀座に進出した最初の新聞は英国人ブラックの「日新真事誌」で、明治6年、場所は4丁目(現和光ビル)であった。翌7年には日報社が2丁目に、10年には読売が1丁目に進出。大阪で創刊された朝日新聞は明治21年に東京朝日新聞として瀧山町(現6丁目)に社屋を置いた。徳富蘇峯の「国民新聞」は明治23年、日吉町(現8丁目)での創刊。その後日報社は、明治42年、東京朝日新聞は昭和2年に有楽町に移転。7毎日はさらに昭和41年、竹橋の現在地に移り、読売も昭和46年牛大手町の現在地に移転した。朝日が有楽町の社屋から築地に移転したのは昭和54年である。
参考:原田弘著『銀座故事物語』
5.汽笛ー声新橋を
東京と横浜を結ぶ日本最初の鉄道の敷設工事が開始されたのは明治3年(1870)のことである。イギリスの援助で資金をつくり、主任技師も英国人であった。外国貿易の中心地横浜と首都を連絡する鉄道は諸外国にも大きな魅力であったから、すでに幕末にはアメリカの発案で鉄道敷設が計画されていたが、これは維新のゴタゴタで実現にはいたらなかった。明治元年、築地に外国人居留地が設置されると、念願の鉄道建設は明治新政府の急務となった。首都東京の発展のため築地居留地を貿易市場の拠点にするのだ。そこで居留地に近く、また廷遼館(外用貴賓の迎賓館)のある浜離宮に隣接するという地理的条件によって新橋が停車場に選ばれたのである。
新橋停車場の開業は明治5年(1872)9月。陸蒸気と呼ばれた蒸気機関車は英国製。新橋〜横浜(現在の桜木町駅)26kmを53分で走ったから、新富町辺りへ芝居を見にいく場合、麹町辺りの客より横浜からの客の方が
早く着くし早く帰れるという現象も生まれた。料金は上・中・下等がそれぞれ1円12銭5厘・75銭・37銭5厘。1円が現在の約5千円。乗客には横浜で商売をしている投機家や貿易商が多かったという。
新橋停車場はその後、大正3年(1914)の中央停車場(東京駅)の開業に伴い、貨物駅(汐留駅)となった。国鉄が114年の歴史を閉じた昭和62年3月31日午前零時、鉄道発祥の地、汐留駅では、SLの汽笛が吹き鳴らされた。
汐留地区の再開発にあわせて、平成15年4月1日新橋停車場が甦った。
6.銀座へ!銀座へ!
大正12年(1923)の大震災で壊減した煉瓦街は、昭和5年、銀座八丁及び銀座西八丁として生まれ変わった。江戸以来の旧町名はすべて「銀座」に統一され、4丁目までだった銀座が8丁目まで延びたのである(木挽町は残されたが、昭和26年、銀座東八丁となる)。
同年には新たに昭和通りも開通。復興とともに進出したのがデパートで、大正13年に松坂屋が、翌14年には松屋が、昭和5年には三越が、華々しく開店、人出に拍車をかけた。煉瓦街以来のハイカラな商店も復旧し、「十字屋だって、資生堂だって、サエグサだって、銀座の銀座らしい店の客はみんな若い者だ。(中略)これは昔の銀座にはなかったことだ。震災後において特に著しくなった傾向である。銀ブラいうものが一部の人々の風流だけでなくなって、一般的な流行になってからの傾向だ」と、安藤更正は名著『銀座細見』に記している。
「銀ブラ」という言葉は大正初期からあったが、新生銀座の熱狂的な人気と共に一世を風靡する流行語となった。別に何をするでもない、ただ中央通りの商店街をひやかして歩くだけなのだが、浅草を追い抜き、一挙に東京の顔となったこの繁堆街の高揚を、モガ、モポ(モダンガ−ル、モダンボーイ)もサラリーマンも学生も、街行く人々は皆、肌で感じ取ったのである。
川端康成はその興奮を「銀座へ!銀座へ!」と謳った。有名な銀座の露店(夜店)は、明治維新前後には既にあったといわれるが、戦後の闇市は別として、銀座通りの東側だけに並んでいた。書画骨董から道具類、食べ物までありとあらゆる品物が置かれ、「銀ブラ」の楽しみとは切り離せないものだったという。第二次大戦で銀座は服部時計店、松屋、松坂屋などわずかのビルを残してほぼ全焼、露店も昭和26年、GHQによって廃止された。再び復興を遂げた銀座は、昭和44年、銀座西、東の両八丁を組み入れて、現在の大銀座となった。銀座は今も日本を代表する繁華街の格を誇っている。昭和59年以降は、数寄屋橋寄りにデパートの進出が相次いだ。平成に入ってからは、世界の高級ブランドの専門店が進出し、東京の銀座から世界の銀座へと変貌している。
7.ハイカラの元祖たち
明治の文明開化期に、ハイカラな商店が続々と創業・進出した銀座の煉瓦街。現在も銀座には、この頃日本で初めての新商品を扱って、元祖を名乗る古参の店が数多い。パンの元祖木村屋があんパンで大成功を収めた話は有名だが、当初、薬局としでスタートした資生堂は、実は練り歯磨きとビタミン剤の元祖である。「鞄」という漢字を発明したのは、カバンの元祖谷沢カバン店。発明といえば、元祖も元祖、トンカツを発明したのは、洋食屋の煉瓦亭である。昭和初期に全盛期を迎えたカフェの元祖は、明治の末に登場した今はなきカフェ・プランタン。わずかに遅れて開店したのが、カフェ・ライオンで、こちらは現在もビヤホールとして名を馳せている。その他、日本で初めてタイプライターを扱ったクロサワ(現在は文房具)、同じく初めてダンス靴を扱ったヨシノヤ靴店、そして洋楽器の元祖日本楽器などが、銀座の地に元祖を名乗るハイカラな老舗である。
8.最後の仇討ち
復讐禁止令が出されて仇討が禁止されたのは明治6年(1873)。その後しばらく仇討はなかったが、明治13年(1880)になって二件の仇討が起こり、さらに12月、遂に文明開化の最先端の地、銀座で仇討が決行された。
22歳の青年臼井六郎が“父母の仇”東京上等裁判所判事一瀬直久を討ったのである。場所は京橋三十間堀の旧秋月藩主黒田邸。現在の京橋消防署付近(銀座6丁目)である。これが日本最後の仇討となった。
ことの起こりは慶応4年(1868)5月。六郎の父母、九州福岡の秋月藩家臣臼井亘理とその妻が斬殺されたのである。勤王派として藩政改革につとめる亘理を疎んじた、同じ秋月藩士一瀬直久一党の仕業と知れたが、一瀬は無罪放免、逆に臼井家は減禄。亘理こそ新政府に反逆する国賊だったという一瀬の申し開きが通ってしまったのだ。この理不冬に、まだ幼いとはいえ武士の子、六郎は父母の霊に復讐を誓った。以来六郎は武芸に精進。その後、判事となった一瀬を追って上京するが、一瀬はすぐに転勤。明治13年、東京上等裁判所に移るまでの10年近く、六郎は東京でひたすら待ち続け、ついに本懐を果たしたのであった。ところで、自首した六郎は服役態度良好のため11年で出所したから、かつての一瀬一味の残党たちは恐怖のあまり大恐慌に陥ったという。
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